ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

年賀状 2003.1.1

2003-01-01 08:51:23 | 嫩葉
年賀状
「この人、どうしよう。」「向こうからは毎年来るんだから、止める訳にはいかないだろう。」「そうね。」「でも、基本的には、発送枚数を減らしたいのだから・・・。」
年末になると、毎年のようにこんな会話が繰り返される。年賀状のことである。なんとか、百枚ぐらいに減らそうとするが、そう簡単に減らせるものではない。
元旦の朝の会話。「年賀状はまだか。」「午前中には届くと思うわ。」「郵便局も大変だな。昨日の晩はほとんど徹夜だろう。」
何回か郵便受けを往復し、やっとお昼前にどさっと届いた。家内とわたしとで奪い合うようにして読む。一通り目を通した後、こちらから発送したリストをチェックして、送っていない人の葉書を分けて、パソコンに向かう。かなり多い。すぐに新しいリストを作り、宛名を準備して発送する。ここまでは家内とわたしとは大童である。新年のゆったりした気分は吹っ飛んでしまう。
パソコンが我が家に入ってくるまでは、いや、入ってきてもいろいろな機能が十分でなかった頃は、年賀状は「悔いと諦め」の学習課題であった。まず、元旦に届くように送るということは「諦めた。」そこで考え出された論理は、向こうから来た分について返事を出す、という理屈であった。これには家内はかなり抵抗を示し、年末の忙しいときにも一生懸命宛名書きをしていた。今はもう諦めたらしいが、そのころはパソコン書きの宛名にも著しい不快感を示し、コツコツと宛名だけは手書きをしていた。わたしは心のうちに深い尊敬の念を持ちながらも、上辺だけは冷たく見ていた。正月も三日目ぐらいになると、返事を出すエネルギーは残っていなかった。
この歳になると、年賀状だけでつながっている友人・知人も結構いる。この「つながっている」という感覚は不思議なもので、「親しさ」とはあまり関係がないように思う。その時には、命のやり取りをする程親しかったのに、今は「切れている」友人もいる。相手の側の誠実さと多くの偶然の積み重ねの結果としか思えない。特別に親しかったわけではないのに、毎年年賀状をやり取りしていると、だんだんと気になりだす。たった、2~3行の情報で1年間の動静を想像する。これも楽しい。
「Mさん、5人目の孫が生まれたんですって。」「賑やかな正月だろう。」「こんな葉書も来ているよ。我が家も孫たちが帰ると、大水が引いたように静かになり、来てよし、帰ってよしの今日ですって。」「ははーん。」「今年はHさんから来てなかったね。どうしたんだろう。」「誰かに聞いてみようか。」
かくして、年賀状のシーズンは終わる。また、来年を楽しみに。(園長・牧師 文屋善明)


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