ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

わがまま 2001.9.1

2001-09-01 08:30:58 | 嫩葉
わがまま
何時頃からのことか、一生懸命思い出そうとしても小学校の3、4年生より前のことになると記憶がかすみどうしてもハッキリしたことが思い出せない。しかし、その事実だけは鮮明に思い出すし、その思いはかなり長くわたしの心にとどまり、今でも懐かしく思い出す。それは、日曜学校で歌った讃美歌の歌詞である。
当時の讃美歌を開くと今でも残っている。「うるわしき朝も、静かな夜も、食べ物、着物もくださる神さま。わがままを捨てて、人々を愛し、この日の務めをなさしめたまえ。」この歌詞がある日、どかんとわたしの心を突き刺した。それ以来「わがままを捨てる」ということが、わたしの日曜学校の原点となっている。
ある程度の子どものわがままは可愛い。素直な子どもより少しわがままを言う子どもの方が可愛い。親子の人格的な葛藤は「子どものわがまま」を媒介として展開される。子どもの精神的成長は、親がどこまで子どものわがままを許すかということを巡る親と子との駆け引きによることが大きい。子どもは自分のわがままによって自我(エゴ)に目覚め、大げさに言うと罪を自覚し、自分の欲望をコントロールすることを学び、成長する。わがままこそ子どもの精神的成長の鍵である。ただ、押さえ込めばいいわけではないし、放置しておけばいいわけではない。
子どもに対する大人の虐待という現象は、深刻な社会現象の様相を示している。一つ一つの事件は、一見特殊な人間関係を背景にして起こっているように見えるが、根本的問題は大人になりきれていない大人の事件であり、要するに「わがままなままの大人」の問題である。しかも、それが非常に一般的になっているということに恐ろしさがある。
非常に残念なことに、先に引用した子どもの讃美歌は今では次のように変更されている。
「清い朝あけて、神さまに祈る。この日こそ、強い神の子にしてください。神さまと人に、心から仕え、この日こそ、清い神の子にしてください。」見事に「わがままを捨てて」という強力なメッセージが消されている。日曜学校からの課題が無くなったことと、「わがままなままの大人」の誕生と何か深い関連があるのではなかろうか。(園長・牧師 文屋善明)

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