ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

心で見なくちゃ 1979.8.1

1997-08-01 13:59:56 | 嫩葉
心で見なくちゃ
聖書の次に大切にしている本がある。サン・テグジュペリの「星の王子さま」である。もう何回読んだか知れない。読むたびに赤線が増え、赤線の意味が分からなくなるほどである。この本のクライマックスで、キツネが「人生の秘密」を明かす。 「さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」「かんじんなことは、目に見えない」と王子さまは、忘れないようにくりかえしました。 神戸でのむごたらしい事件の後、教育の現場が問われている。その批判には、共感と共にいらだち、虚しさを感じる。子どもたちが見えなくなってしまっている教師。これは他人事として見過ごしにできない。教師の質が低下しているという場合、教育技術が劣っているということでも、教育への情熱が足りないというのでもない。ほかのどのような職業にまして、教育においては、見えているか、見えていないか、ということが問われる。 ところが、問題はこの「見える」ということ、あるいは逆に「見えていない」ということにある。見えている者には見えていない者がわかるが、見えていない者には見えている者が何を見ているのかわからない。説明されても理解できないし、しかも、もっと悪いことに自分が見ているものと同じものをほかの人たちも見ていると信じている。 「ぼくは、月の光で、王子さまの青白い顔を見ていました。ふさいでいる目を見ていました。ふさふさした髪の毛が、風にふるえているのを見ていました。そして、いま、こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ、一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ……と思っていました。」この「ぼく」は「目に見えないのだ」と告白しながら、確かに人間の奥を見ている。「王子さまのくちびるが、心もち開いて、どこともなしに笑顔が見えるのです。」「すると、ぼくは、王子さまが、いよいよこわれやすい人のように見えてきました。」本当に謙虚な人間は「見えない」としか告白できない。しかし、確かに見ている。主イエスも言う。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ.9:41)(園長・牧師 文屋善明)

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