卒業も間近に迫った松村は1933年2月19日に波多野精一教授から「一度来るように」という手紙を受け取り、翌2月20日に波多野教授の自宅を訪問する。その時、渡辺奨学資金の話しを聞く。その時の話の内容を松村は以下のように日記に記している。松村の一生を決定づける重要な出来事などで記録しておく。
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8月1日(日)
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。(サムエル上2:2)
わたしたちが持っている希望であるイエスは、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです。(ヘブル6:19)
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今でも、1997年3月以前に日本聖書協会が出版した聖書を使っている人も少なくない。とくに、古い信徒の方々は、わざわざ1997年4月以後に聖書を買い換えるというようなことをしないであろう。私もその1人である。そのため、教会などで聖書を朗読する場合「らい病」という言葉が出てくると、「重い皮膚病」と読み替える必要が出てくる。要注意である。そこで、このことについて一言述べておきたい。
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松村が大学の卒論のテーマにアウグスチヌスを選んだのは1929年5月29日である。松村は三高の3年の6月に結核のため退学し、それから3年10ヶ月の間闘病生活を送っている。このおおよそ4年近くのロスタイムがその後の松村の生涯に与えた心理的プレッシャーは計り知れない。それはともかく、幸いにも病気は癒され1929年4月に、三高の3年生に復学が許された。その時の松村の状況はまるで浦島太郎状態であったろう。かつての同級生たちはすでに大学に進学し、ある者はすでに卒業している。当時の大学は3年制であった。と同時に、新しい同級生は松村にとって「若すぎる」。
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波多野精一教授が定年で退官したのが1937年7月である。波多野は退官後のことを松村に託すべく、その年の3月に大学院(3年)を退学させ、4月に非常勤講師を依嘱している。そして7月いよいよ退官したとき、いくら何でも若く経験も浅い松村を基督教学科の責任者にする訳にいかず、キリスト者ではないが、ドイツから帰国したばかりの西谷啓治助教授が波多野の後任として就任した。そして、翌1938年4月に松村は専任講師に就任している。 . . . 本文を読む
ここに波多野精一が石原謙宛に送った興味深い書簡がある。<全集第6巻、日付は1931年12月12日。>
個人的な書簡ではあるが、もう既に全集で公開されているので、ここでも原文のまま紹介する。
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先日、教会の礼拝後、一緒に昼食を取りながらお喋りをしていて、看護婦という言い方が「看護士」という言い方に変わったとことが話題になりました。男性の「看護する人」が登場した関係で「婦」という言い方は不適当であるとされ「看護士」という言い方に変わったという。私もそこまでは知っていましたが、最近では、さらに「看護士」が「看護師」に変わったということです。
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若い西田が東大で哲学を学び始めた頃、ケーベル教授と出会い、経験した一つのエピソードが伝えられている。この経験は西田の中で生涯記憶され、晩年に「ケーベル先生の追憶」(西田全集第13巻)で自ら語っている。 . . . 本文を読む
7月25日(日)
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えた。(サムエル上3:4)
イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ1:43)
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