昔、池宮彰一郎氏の書いた島津義弘を中心にして描かれた小説を読んで、島津義弘という戦国武将の生き様には心を討たれた。「あらにす」というインターネット上の記事に歴史家・作家の加来耕三氏が関ヶ原での「島津の捨てかまり」について書かれていたのをたまたま見つけたのでメモ書きにして保存しておこう・・・自分の気持ちを奮い立たせるために。決めた以上はもう前に進むしか道は無い。歩を進めよう。・・・と言っても玉砕覚悟の突撃じゃないけど
「捨てかまり」とは、部隊の左右に死を覚悟した兵を並ばせて、鉄砲を撃たせ続け、弾がなくなれば突撃させる。これを繰り返して時間かせぎをする間に本隊が敵陣を走り抜けながら戦場を脱出するという捨て身の戦法。
以下、抜粋。
「今こそ経営者は島津義弘に学ぶべし - 加来耕三 - 」
『孫子』の兵法に、「之(こ)れを亡地(ぼうち)に投じて……」という
くだりがある。
つづく文節は「然(しか)る後に存し」。
つまり、自軍をもう亡びるしかない、という窮地に投げ込んで、
はじめて軍のいのちを全うする働きが生まれる、との意になる。
同じようないいまわしに、
「之れを死地(しち)に陥(おとしい)れて、然る後に生(い)く」と
いうのもあった。
死ぬよりほかに道のない局面に追い詰められて、
はじめて生き残る働きが生まれる、
いわゆる、“死中に活”の理(ことわり)だが、
その意味を正しく理解している人が少ないのではないか、と
常々、思ってきた。
筆者の管見(かんけん)だから、大してあてにはならないが、
もし、関ヶ原の戦いで西軍に参加した島津義弘ならば、
「“死中に活”は生易しいものではない」と、歯噛みせんばかりに、
緊張するに違いない。
義弘はわずか千五百の兵をもって、関ヶ原に孤立してしまった。
まさに、「亡地」「死地」であったといってよい。
彼にも、いい分はあった。
去る天正十五年(一五八七)五月、豊臣秀吉の九州征伐に、
自軍の不利を悟った島津氏は途中、降参した。
秀吉は、ときの当主義久に薩摩国を、その弟・義弘に大隅国と
日向国諸県郡を安堵してくれる。
この処置に感激した島津氏は、豊臣大名となって朝鮮出兵に参加。
泗川(しせん)の戦いでは、明と朝鮮あわせて二十万の軍勢を、
わずか一万足らずで迎撃し、その武名を天下に轟かせもした。
十数万の日本軍が、無事に祖国へ帰りつけたのも、島津勢の勇戦、
それを指揮した義弘の、沈着豪胆な采配によるところが大きかった。
にもかかわらず、帰国後の島津家は、財政の悪化が原因で、
文禄四年(一五九五)に隠居した兄・義久と、弟の義弘の間に確執を
生じてしまう。
関ヶ原の一年前、慶長四年(一五九九)三月、義弘の子で
島津氏の家督を継いだ家久(忠恒)が、支族であり
筆頭家老でもあった伊集院忠棟を斬り殺す事件が勃発した。
この事件の処理に忙殺され、中央の情報不足もあって、
慶長五年四月に、再度上方に登った義弘は、東軍と西軍の中で
翻弄される。
当初、徳川家康率いる東軍に味方すべく、伏見城に入城を決めていた義弘は、
これを留守居役の徳川の部将・鳥居元忠に拒絶されてしまう。
拒まれた以上、島津勢は西軍につくしかなかったが、
その西軍の義弘に対する扱いは、実に腹立たしいものであった。
夜襲を進言して無視され、関ヶ原の前哨戦ともいうべき岐阜城攻防戦、
この戦いと並行して進められた、渡合(どあい)の渡しでの戦いでは、
島津の分派三百人が敵中に捨て石にされてしまう。
幸い、全滅する前に大垣城に収容することができたが、
義弘にとっては西軍の、事実上の総大将たる石田三成の、
許せぬ仕打ちと映ったに違いない。
賢明な義弘には、その理由が痛いほどよくわかっていた。
上方における島津の兵力が、千五百しかなかったからである。
どのように要請しても、国許からは増兵が来なかった。
もともと再度上方へ来たおり、つき従っていたのは二百人ほどでしかなく、
残りの兵たちは、島津家の「上方に登るのはまかりならぬ」との
財政上の制止を振り切り、義弘を救うべく、三三五五、
国を抜け出した“ぼっけもん”たちであった。
もし今、五千の兵力が義弘の手中にあれば、
関ヶ原での彼の扱われ方は、大きく変わったに相違ない。
しかし、天下分け目の戦いで千五百しかもたない義弘は、
一面、単独では動くに動けなかった。兵力をギリギリまで温存し、
勝利のための、最後の一押しにこれらを用いる。
それ以外、戦術的な用兵は考えられなかった。
ところが、会戦の当日、勝ちかけていた西軍は、
小早川秀秋の裏切りにより、戦局は一変した。
さて、どうするか。
すでに敗戦と決した中で、わずか千五百。
すでに、三百まで減少していた。
島津勢にできることは限られていた。
義弘は瞬時に、決断する。
このわずか三百の兵をもって前進し、家康の本陣前を横切り、
伊勢街道に出て、堺へ向かい、国許へ戻る、というのである。
さすがの島津将兵も、一瞬、顔色を変えた。
前方には敵があふれている。
そこへ突っ込んで逃走するというのは、明らかに自殺行為に思われた。
後方の近江へ退却してはいかがですか、との具申もなされたが、
義弘はこれを撥(は)ねつける。
「道は前方のみ」
なぜ、この無謀な決断に、彼はこだわったのか。
それは、このあと予想される、家康の島津征伐を念頭に置いたからだ。
できれば天下人となる家康を躊躇(ちゅうちょ)させ、
戦わずに外交でけりをつけたい。
そのためには、ここで島津の恐ろしさを今一度、
徹底して知らしめておく必要があった。
わずか三百となった島津兵が、鬼羅刹と化して戦い、
ここで死ねば、国許にはいまだ五万の侍を擁する島津家である。
さしもの家康とて、無闇(むやみ)には討ちかかって来まい。
これが、義弘の“死中に活”であった。
島津勢は関ヶ原を横断した。
東軍の大勢を相手に、
彼らは「島津の胡座陣(こざじん)」=決死の殿軍(しんがり)を決行。
徳川方では、家康の第四子・松平忠吉と
徳川四天王の一・井伊直政が負傷(これが原因でその後、病没)。
ついに家康は、追撃中止を命じた。
帰国できた島津勢は、わずかに八十数名でしかなかった。
が、戦後、西軍についた毛利氏の所領が大きく削られたのに比べ、
島津家は自領を手付かずに保持することに成功する。
悲運の名将・島津義弘は、
元和五年(一六一九)七月二十一日、この世を去った。享年八十五。
彼の敵中突破の決断=死中に活は、その後も薩摩藩の中に語り継がれ、
明治維新の起爆剤となった、と評価されている。
日本の中堅企業・零細企業の経営者たちよ、顔を上げ、前へ進め。
本能寺