熱心なスピリチュアリストである実業家がある交霊会で質問した。
―背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか
「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。
物的必要性について無とん着ではいられません。
現実に地上に生きている人間を扱っているからです。
結局のところ霊も肉体も神の僕(しもべ)です。
霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。
肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。
それを得るためには地上世界の通貨(コイン)であるお金が必要です。
そのことはよく承知しております。
しかし次のことも承知しております。
(シルバーバーチは口グセのように”奉仕は霊のコインである”と言っている。
それになぞらえている―訳者)
霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。
それを逆に考えることは大きな間違いです。
あなた方は本質的に霊なのです。
それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。
つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。
意識を持った存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。
全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。
そのためには平静さが必要です。
いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。
それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。
それに加えて背後霊の愛と導きがあります。
困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。
そうすればあなた自身の貯蔵庫から―まだ十分には開発されていなくても―必要な解答が湧き出てきます。
きっと得られます。
われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。
が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。
こんどは背後霊が何とかしてくれます。
求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。
私たちから見て大切なのは“動機”です。
いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。
動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして、無視されることはありません。
それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」
ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると―
「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。
霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。
人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。
義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。
かりそめにも私はそんな教えは説きません。
むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。
しかし心配する必要などどこにもありません。
霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」
―あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。
「その通りです。
真理を悟った人間は決して取越苦労はしません。
なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。
まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。
無用の心配をするということのそのことが霊的成長の欠如の指標といえます。
たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。
もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。
偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。
確信があるからです。
その確信は何ものによっても動揺することはありません。
このことだけは絶対に譲歩する訳にはいきません。
なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
―たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。
その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが…
「責任は個々において背負うというのが摂理です。
摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」
―背後霊や友人(の霊)に援助を要求するのはどの程度まで許されるのでしょうか
「生身(なまみ)の人間である霊媒との接触によって仕事をしている私どもは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。
物的必要性について無とん着ではいられません。
現実に地上に生きている人間を扱っているからです。
結局のところ霊も肉体も神の僕(しもべ)です。
霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものがあります。
肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。
それを得るためには地上世界の通貨(コイン)であるお金が必要です。
そのことはよく承知しております。
しかし次のことも承知しております。
(シルバーバーチは口グセのように”奉仕は霊のコインである”と言っている。
それになぞらえている―訳者)
霊も肉体も神の僕と申し上げましたが、両者について言えば霊が主人であり肉体はその主人に仕える僕です。
それを逆に考えることは大きな間違いです。
あなた方は本質的に霊なのです。
それが人間が潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。
つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。
宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理があなた方一人ひとりにも宿っているのです。
意識を持った存在としての生をうけたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。
全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。
そのためには平静さが必要です。
いかなる事態にあっても心を常に平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。
それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。
それに加えて背後霊の愛と導きがあります。
困難が生じた時は平静な受身の心になるよう努力なさることです。
そうすればあなた自身の貯蔵庫から―まだ十分には開発されていなくても―必要な解答が湧き出てきます。
きっと得られます。
われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。
が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。
こんどは背後霊が何とかしてくれます。
求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。
私たちから見て大切なのは“動機”です。
いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。
動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして、無視されることはありません。
それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております」
ここでメンバーの一人が、学識もあり誠実そのものの人でも取越苦労をしていることを述べると―
「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。
霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。
人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きていくことは可能です。
義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。
かりそめにも私はそんな教えは説きません。
むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。
しかし心配する必要などどこにもありません。
霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます」
―あからさまに言えば、取越苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか。
「その通りです。
真理を悟った人間は決して取越苦労はしません。
なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。
まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。
無用の心配をするということのそのことが霊的成長の欠如の指標といえます。
たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。
もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。
偉大なる魂は泰然自若(たいぜんじじゃく)の態度で人生に臨みます。
確信があるからです。
その確信は何ものによっても動揺することはありません。
このことだけは絶対に譲歩する訳にはいきません。
なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです」
―たとえば50人の部下がいて、その部下たちが良からぬことをしたとします。
その場合は気苦労のタネになってもやむを得ないように思いますが…
「責任は個々において背負うというのが摂理です。
摂理のもとにおいては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません」