私はよく本を読む。これまでも随分読んできた。
少年の頃は学校のカバンにたいてい一冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。
最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かもしれないが面白味がない。
だから乗り物の中では読書が多くなる。
英国人というのは概してはにかみ屋が多い。
私もその一人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。
そこで、対策として一計を案じた。
専用のカバーを二枚用意したのである。
一枚は「核代数の二元方式」と題してあり、もう一枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。
何を読む際にも、どちらか大きさの合うほうを使うことにしたのである。
その反応を見るのもまた一興だった。
代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜息をもらし、よくもこんな難しい本を・・・といった感心の表情をみせる。
神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情を見せる。
「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。
はにかみ、遠慮、無口―こうした一連の性向は英国民の特質である。
英国人は何でも自分の中に仕舞い込んでおこうとする傾向がある。
つまり内向的なのだ。
これは健全な精神とは言いがたい。
と言って私は今日から外向的になれと言うつもりはない。
奥さんを撲りとばしたり、大酒を呑んで暴れまわるのが健全な発散方法だなどとは、さらさら思わない。
そんなものよりもっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。
それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。
ではその安全弁とは何か。
その一つは、素直に涙を流すということである。
キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。
頑(かたく)なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。
風に柳がなびくように、自然な情の流れに身をまかせることも時には必要である。
英国人は泣かなすぎる。
もっと涙を流すべきである。
素直に泣いてみるとよい。
緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。
次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。
何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。
それはキリスト教でいうところの七つの大罪の一つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。
私のいう怒りは、誤った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。
あなたもイライラが堪まらなくなったら、どこか人気(ひとけ)のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら十分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。
気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。
それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。
自分の悩みごとを心おきなく語れる相手をもつことも大切である。
カトリックの教会には〝告白室〟というのがある。
過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい習慣である。
昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういういかめしいものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人をもつことで十分目的は達せられる。
が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。
私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。
が、そのいちばん奥の本当の原因をつかむのにかなりの時間を要する。
たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、三度目にやっと分かったというケースがある。
ところが四度目に更にその奥の別の要因を発見した。
また肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何一つ心配することのない正常なわが子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。
そのイライラが衝動食いをさせて、それが肥満を助長させている。
このように、次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。
その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知、等々が巣くっている。
それがみな内側を向いていてほんとの姿を見せようとしない。
ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取越苦労が渦巻くのである。
人間が遠慮なく自由に手に入れることの出来る援助には三つある。
霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。
まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。
それは一応当然の成り行きといえる。
が残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。
世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理というものが含まれているものである。
みな霊界という同じ源に発しているからである。
感情のコントロール
やっと出口が見えてきた。
山村幸夫さんの言葉より
自分の感情には、必ず肉体我がはいっておりますから、「これは、自分の自我我欲だけでの判断ではなかろうか?」と常に省みるのです。
そして、「自分さえ良ければいいというような判断ではなかろうか」
とも考えてみるのです。
あるいは、二者択一で困った時には、〝少しでも周りのひとのためになる道、あるいは、一人でも多くの人のためになる道〝を選んで下さい。
それが間違いのない選択の基準です。
少年の頃は学校のカバンにたいてい一冊は冒険物語を忍ばせていたものだ。
最近は旅行することが多いが、近代的な乗り物は確かに快適かもしれないが面白味がない。
だから乗り物の中では読書が多くなる。
英国人というのは概してはにかみ屋が多い。
私もその一人で、その性格の延長で私は自分の読んでいるものを人からのぞき見されるのが大嫌いである。
そこで、対策として一計を案じた。
専用のカバーを二枚用意したのである。
一枚は「核代数の二元方式」と題してあり、もう一枚は「誰にでもわかる神経外科」と題してある。
何を読む際にも、どちらか大きさの合うほうを使うことにしたのである。
その反応を見るのもまた一興だった。
代数のカバーをしていると、それを見た人の反応はたいてい同じで、まず溜息をもらし、よくもこんな難しい本を・・・といった感心の表情をみせる。
神経外科の方だと、驚きと同時に不審そうな表情を見せる。
「面白いですか」と聞いてみる人すらいなかった。
はにかみ、遠慮、無口―こうした一連の性向は英国民の特質である。
英国人は何でも自分の中に仕舞い込んでおこうとする傾向がある。
つまり内向的なのだ。
これは健全な精神とは言いがたい。
と言って私は今日から外向的になれと言うつもりはない。
奥さんを撲りとばしたり、大酒を呑んで暴れまわるのが健全な発散方法だなどとは、さらさら思わない。
そんなものよりもっと健全な発散方法、自然が用意してくれた安全弁がある。
それを活用すれば英国人はもっと健康になれるのではないかと思う。
ではその安全弁とは何か。
その一つは、素直に涙を流すということである。
キッと歯を食いしばって強情を張るのがしっかりしているという考えはもう古い。
頑(かたく)なに意地を張っていると、その意地で自分を損ねてしまう。
風に柳がなびくように、自然な情の流れに身をまかせることも時には必要である。
英国人は泣かなすぎる。
もっと涙を流すべきである。
素直に泣いてみるとよい。
緊張がほぐれて身も心もすっきりするはずである。
次に、怒りの発散が時として心の衛生になることがある。
何かと腹を立てる、というのとは意味が違う。
それはキリスト教でいうところの七つの大罪の一つであって、他人へ向けての敵意に満ちた怒りのことである。
私のいう怒りは、誤った心の姿勢から積もり積もった欲求不満を思い切って爆発させるという意味の怒りである。
あなたもイライラが堪まらなくなったら、どこか人気(ひとけ)のないところへ行き、上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめてから、大股で歩きながら十分間ほど大声で怒鳴ってみるとよい。
気持ちがすっきりし、同時に、自分をイライラさせていたことが実はいたって他愛ないことだったことが分かって、バカバカしささえ覚えるであろう。
それは、うっ積していた感情の発散によって心の姿勢が変わり、前とはまったく違った角度から物を見るようになったからである。
自分の悩みごとを心おきなく語れる相手をもつことも大切である。
カトリックの教会には〝告白室〟というのがある。
過去の罪を告白して神の許しを乞う部屋であるが、心理学的に言ってもこれは精神衛生上よい習慣である。
昨今は精神分析学の発達によってお株を奪われた恰好であるが、私に言わせれば、そういういかめしいものの世話にならなくても、心の中を曝け出せる人をもつことで十分目的は達せられる。
が、問題はどこまで自分に正直になれるかということである。
私のもとに来る患者の大半が私から聞かなくても症状をいろいろと訴えてくれる。
が、そのいちばん奥の本当の原因をつかむのにかなりの時間を要する。
たとえば偏頭痛を訴える人が実は性的不能者で、それが原因で奥さんに気兼ねし、それが偏頭痛を生んでいることが、三度目にやっと分かったというケースがある。
ところが四度目に更にその奥の別の要因を発見した。
また肥満に悩む女性が股関節の痛風を訴える。が問い質してみると何一つ心配することのない正常なわが子のことでアレコレと思い悩み、それが痛風を悪化させている。
そのイライラが衝動食いをさせて、それが肥満を助長させている。
このように、次々と訪れる私の患者でさえ表面的な痛みや悩みは訴えても、心の奥まではなかなか曝け出してくれない。
その心の奥をのぞいてみると、そこには内向した感情、挫折感、疑念、無知、等々が巣くっている。
それがみな内側を向いていてほんとの姿を見せようとしない。
ために実際とは無関係の想像上の過ち、悩み、取越苦労が渦巻くのである。
人間が遠慮なく自由に手に入れることの出来る援助には三つある。
霊的知識と、背後霊の指導と、他人からの好意である。
まず霊的知識であるが、人間は教育を受け理性が発達するにつれて、幼少時代に読んだ寓話やおとぎ話をばかばかしく思うようになる。
それは一応当然の成り行きといえる。
が残念なことに、そうした一見他愛なく思える話の中に埋もれた貴重な真理まで捨て去ってはいないだろうか。
世界のいずこの宗教も必ず黄金の真理というものが含まれているものである。
みな霊界という同じ源に発しているからである。
感情のコントロール
やっと出口が見えてきた。
山村幸夫さんの言葉より
自分の感情には、必ず肉体我がはいっておりますから、「これは、自分の自我我欲だけでの判断ではなかろうか?」と常に省みるのです。
そして、「自分さえ良ければいいというような判断ではなかろうか」
とも考えてみるのです。
あるいは、二者択一で困った時には、〝少しでも周りのひとのためになる道、あるいは、一人でも多くの人のためになる道〝を選んで下さい。
それが間違いのない選択の基準です。