されど若し希望と恐怖が、
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。
ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。
この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。
すなわち希望である。
希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪責感と死後への恐怖を取り除き、憤満と挫折感を和らげてくれる。
無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。
私は患者からいろいろと教えられる。
心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。
患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる―少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。
その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。
病気そのものが少しでも良くなることを期待する。
つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。
これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。
一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。
なぜその程度のことしか期待しないだろうか。
なぜ逞(たくま)しい健康を要求しないのだろうか。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。
そうでない状態はみな不自然なのである。
そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。
宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。
その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。
だから病気も苦悩も神が授けるのではない。
人間の誤った生き方の産物なのである。
ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当たり前で正常なことのように錯覚している。
赤ん坊を見るがよい。
健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を十分に具えて生まれてくる。
それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。
サリドマイド児がそのもっとも恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。
が、その他にも、あまり問題にされていない恐ろしい不自然な行為が横行している。
母乳で育てることを拒否する母親の出現がその一つである。
体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。
理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。
が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。
すると赤ん坊は本来は子牛が飲むべきミルクで育てられることになる。
その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。
もしかしたら放射性物質によって汚染されているかもしれない。
あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。
人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。
赤ん坊だけではない。
その後の離乳期から大人になるまでの食世活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。
肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、化学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。
その肉のもとになる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。
薬と化学的添加物によって不健康に肥(ふと)らされているに相違ない。
そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。
小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。
天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。(最近では無精白粉も多く使用されている―訳者)
食料品は着色料、香料、その他の化学的添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。
二十世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食料よりも、車にいれる燃料の品質向上のほうに一生けんめいである。
頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。
それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。
さらに常に身体を清潔に保つ必要がある。
が、もう一つ大切なことは、なるべく健康のことを考えないことである。
あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。
あまり健康状態を口にしないほうがよい。
少々の不調や不快は気にせず、そのうちよくなると思うことである。
類は類を生む。
健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。
不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。
悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。
その子の名前は悲劇であったり、不機嫌であったり病気であったり悲観主義であったり失敗であったり落胆であったりする。
からだの健康は心の健康と同じく生きる姿一つで変化する。
医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。
身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。
健全なる精神―常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なるからだを作る。
本当の医者は教師でなければならない。
健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。
病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。
今や知識は十分にある。
無数の人生の指導書があり医学的知識がある。
不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。
それをまず私はまず子供の世代に要求したい。
子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。
憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。
じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ〝不調和〟と言うものに拒否反応を示す人間に育てよう。
また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。
そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻みこむように心がけよう。
「神の如く汝もまた幸いなり」
等しく事を調停するのであれば、
私の性質(こころ)は恐怖より希望を選ぶ。
ミルトンは苦手だが、こうした小さな珠玉を数多く発見する。
この一節はまさしくスピリチュアリストとして私がいちばん患者に授けてやらねばならないものだ。
すなわち希望である。
希望こそ環境に打ち克ち、無用の罪責感と死後への恐怖を取り除き、憤満と挫折感を和らげてくれる。
無知と迷信に代って、正しい知識と理解に基いた未来への希望があなたを救う。
私は患者からいろいろと教えられる。
心とからだの病に苦しむ男女に毎日のように接するということは、私にとって計り知れない価値ある体験である。
患者が病院を訪れる時、病気を治してくれる―少なくとも症状を和らげてくれる薬または治療を期待する。
その心理は私のような心霊治療家を訪れる時でも同じである。
病気そのものが少しでも良くなることを期待する。
つまり痛みが和らぎ、苦しい症状が何とか耐えしのげる程度になってくれることだけを期待する。
これは多分に、それまでの病院通いの体験から生まれる心理だと思われる。
一時しのぎでもいいからラクになりたいという心理である。
なぜその程度のことしか期待しないだろうか。
なぜ逞(たくま)しい健康を要求しないのだろうか。
健康であるということは地上の生命として自然な状態にあるということである。
そうでない状態はみな不自然なのである。
そして、他の多くの不自然なものと同様に、不健康状態は法則からの逸脱を意味する。
宇宙はきわめて単純な法則によって営まれている。
その法則から逸脱すると、そこに不幸と病が生じる。
だから病気も苦悩も神が授けるのではない。
人間の誤った生き方の産物なのである。
ところが人間は余りに多くの病苦を見慣れてしまったために、われわれはそれを人間生活につきものの、ごく当たり前で正常なことのように錯覚している。
赤ん坊を見るがよい。
健康でしあわせな生活を送る上で必要な能力と機能を十分に具えて生まれてくる。
それを誕生の瞬間から、いや、厳密に言えば胎内にいる時からすでに生理的にその正常な機能が歪められていることがある。
サリドマイド児がそのもっとも恐ろしい例だ。世界中で問題となったのも当然と言ってよい大変な問題である。
が、その他にも、あまり問題にされていない恐ろしい不自然な行為が横行している。
母乳で育てることを拒否する母親の出現がその一つである。
体形が崩れるとか、面倒だからとか、いろいろと理屈を言う。
理屈は一応筋が通るかに思えるが、そのもとを正せば、みな母親のエゴイズムから発したことばかりだ。
が、百歩譲ってそれを一応許すとしよう。
すると赤ん坊は本来は子牛が飲むべきミルクで育てられることになる。
その乳牛が食べる牧草には殺虫剤が使われている。
もしかしたら放射性物質によって汚染されているかもしれない。
あるいは乳牛には各種のホルモン剤や病気予防のための薬品類が多量に投与されていることだろう。
人間の赤ん坊がそのいちばん大切な時期を、そうした環境のもとで搾られたミルクによって育てられることの危険性を、その母親たちはどこまで認識しているのだろうか。
赤ん坊だけではない。
その後の離乳期から大人になるまでの食世活も恐ろしいほど不自然となり品質が低下している。
肉類は何年も前に冷凍されたものが解凍され、着色され、化学的添加物で加工され、見た目には新鮮で赤身が多そうに見え、しかも柔らかそうである。
その肉のもとになる食肉牛も恐らく不自然な環境で飼育されているに違いない。
薬と化学的添加物によって不健康に肥(ふと)らされているに相違ない。
そんなものを食して、果たしてあなたの身体にもそれらの不自然な物質が入らないと言えるだろうか。
小麦粉も、栄養よりもパンの製造の便利さを優先させて、徹底的に精白され漂白される。
天然の栄養は完全に取り除かれてしまっている。(最近では無精白粉も多く使用されている―訳者)
食料品は着色料、香料、その他の化学的添加物を使用し、乾燥冷凍などもする。
二十世紀の人類は、愚かにも、自分の胃袋に入れる食料よりも、車にいれる燃料の品質向上のほうに一生けんめいである。
頑健であるのが人間として自然であり、それを成就し維持するためには自然な食事を摂取しなければならない。
それに新鮮な空気と適度の運動と日光がいる。
さらに常に身体を清潔に保つ必要がある。
が、もう一つ大切なことは、なるべく健康のことを考えないことである。
あまり健康に気を配りすぎるのも、これまた病気を招く原因になりかねない。
あまり健康状態を口にしないほうがよい。
少々の不調や不快は気にせず、そのうちよくなると思うことである。
類は類を生む。
健康と幸せを心に思えば健康で幸せになる。
不幸と病気を思えば、みじめになり病気になる。
悪感情と悲観的な念は似たような感情を次々と生み出す。憎しみ、怒り、嫉妬、悪意、どん欲、仕返しの念は次から次へと子を生む。
その子の名前は悲劇であったり、不機嫌であったり病気であったり悲観主義であったり失敗であったり落胆であったりする。
からだの健康は心の健康と同じく生きる姿一つで変化する。
医学も、いずれは治療医学から予防医学へと進むであろうことは間違いない。
身体を治療するのではなくて、心の姿勢を正すことが医者の役目になるであろう。
健全なる精神―常に明るく積極的で楽天的な考え方をする心は、健全なるからだを作る。
本当の医者は教師でなければならない。
健康を保つ秘訣を教えてあげるのである。
病気になった身体を治すのではなく、病気にならないように指導することである。
今や知識は十分にある。
無数の人生の指導書があり医学的知識がある。
不足しているのは、それを実生活に応用する決意だ。
それをまず私はまず子供の世代に要求したい。
子供たちに死にまつわる愚かなタブーと病的思念と悪感情を持たせないようにしよう。
憎しみや敵意、妬み、偏狭の心を捨てさせよう。
じめじめした考えを捨てて進取的かつ楽天的に物事を考え、同時に自然法則の存在を忘れず、いかなる形にせよ〝不調和〟と言うものに拒否反応を示す人間に育てよう。
また健康で幸せであることこそ人間として当然の遺産であることを自覚した人間に育てよう。
そして各家庭に次の言葉を飾って、それを家族全員が心に刻みこむように心がけよう。
「神の如く汝もまた幸いなり」