罰にもいろんな種類がある。
のけ者にされるのも罰である。
みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受けとめるであろう。
みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。
良心の呵責によって罰を受けることもある。
何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。
それはすでに説いた因果律の一つのパータンである。
たった一回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。
何もかも狂ってしまう。
悩みの絶えることがなく、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。
晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。
生涯を振り返って、何のために生きて来たのかわからないということになる。
これも又、罰である。
反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。
その気分が周りの人にも好感を与え、何をやってもうまく行くようになる。
晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。
善い行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。
精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。
人間は誰しも過ちを犯す。
が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。
たとえば生体解剖と、毎年英国だけで五百万回も行われている動物実験(うち八十パーセントは麻薬なしで)は誰が何と言おうと悪である。
「その実験のおかげで英国人の健康が増進される」などという弁解は私には通じない。
私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。
英国は今や病人の国である。
真に健康な人が実に少ない。
大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。
どう弁解しても正当化する答えにはならない。
人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使いわけるのも悪である。
そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。
商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は一つでなければならない。
人道的に不正なものが商道徳上で正しいはずがないのである。
私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。
第一、すべてに適用できる定まった掟というものは有り得ないはずだ。
所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。
人喰い人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰い人種にとっては悪とは言えないかもしれない。
それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手のもつ力と徳を自分のものにできると信じているのである。
それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。
が、あなたがそんなことをしたら、それは悪である。
なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。
同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人はいくら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間が動物を保護する立場にあること、人間の得手勝手で無理やり飼育し、し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならば、あなたにとって肉食は悪であることになる。
このように、万人に共通した善行とか悪行と言うものはない。
では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は〝あなたの動機に照らして判断せよ〟と言いたい。
そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。
動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。
もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。
その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。
たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へと導く。
因果律が自動的に罰をもたらすのである。
そこであなたは尋ねるかもしれない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。
最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。
そんなことは絶対にない。
が次のようなことは必ず体験させられる。
まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに、あなたの送った地上生活を振り返る。
正しかったことも間違っていたことも、細大もらさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。
ここでこんなことをしたからああなった。
といった調子で背後霊から説明をうける。
それが終ると、背後霊と相談の上で、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息をとり精神統一をしながら調整する。
やがて霊的な準備が整う。
指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。
それまでに何世紀も経っていることもある。
いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入っていく。
宇宙学校の第二学期が始まったのである。
のけ者にされるのも罰である。
みんなアイスクリームをもらったのに自分だけもらえなかったら、それを罰と受けとめるであろう。
みんなガールフレンドがいるのに自分だけ相手にされないと、何かバチでも当たったのかと思う人もいる。
良心の呵責によって罰を受けることもある。
何か悪いことをしてずっと心にひっかかり、それが身体の病気にまで発展することがある。
それはすでに説いた因果律の一つのパータンである。
たった一回の過ちで全人生を歪めてしまうことがある。
何もかも狂ってしまう。
悩みの絶えることがなく、常に気が気でない状態になり、生活が不自然になっていく。
晩年になってわが人生がみじめで迷いの連続であったことを知る。
生涯を振り返って、何のために生きて来たのかわからないということになる。
これも又、罰である。
反対に良いことをすると気分が晴れやかになる。
その気分が周りの人にも好感を与え、何をやってもうまく行くようになる。
晩年に振り返って充実した幸せな人生であったと満足する。
善い行いとは何か、悪い行いとは何かについてはすでに述べた。
精神科医はいろいろと理屈を言い患者の弁護をするが、善悪は厳然として存在し、霊的に成長するほど道義的感覚が鋭くなってくるものである。
人間は誰しも過ちを犯す。
が置かれた条件下において、どうするのが善であるかを判断することは絶対に可能である。
たとえば生体解剖と、毎年英国だけで五百万回も行われている動物実験(うち八十パーセントは麻薬なしで)は誰が何と言おうと悪である。
「その実験のおかげで英国人の健康が増進される」などという弁解は私には通じない。
私自身がその結果を毎日この目で、この手で確かめている。
英国は今や病人の国である。
真に健康な人が実に少ない。
大体道義的に許すべからざることをやっていて、それが医学的に正当化されるわけがない。
どう弁解しても正当化する答えにはならない。
人をごまかし、ウソをつき、公私で二枚舌を使いわけるのも悪である。
そのほうが儲かるからといっても、それで不道徳が是認されるはずがない。
商売においても、仕事においても、私生活においても、道徳の基準は一つでなければならない。
人道的に不正なものが商道徳上で正しいはずがないのである。
私は今どの行いが善でどの行いが悪だという厳密な法典を作るつもりはない。
第一、すべてに適用できる定まった掟というものは有り得ないはずだ。
所詮あなたにとって正しいか否かは、あなたの霊的発達程度によって定まるからである。
人喰い人種はやっつけた相手を食べるが、これは彼ら人喰い人種にとっては悪とは言えないかもしれない。
それが彼らにとっての習慣なのであり、相手の肉を食べることによって相手のもつ力と徳を自分のものにできると信じているのである。
それが良いことであるか悪いことであるかは考えないのである。
が、あなたがそんなことをしたら、それは悪である。
なぜなら、あなたはそれがいけないことであることを道義的に知っているからである。
同じ意味で、動物を殺して食べることはいけないことだと思わない人はいくら肉を食べても悪くはないが、もしもあなたが人間が動物を保護する立場にあること、人間の得手勝手で無理やり飼育し、し、食卓にのぼせるべきではないと実感をもって信じているならば、あなたにとって肉食は悪であることになる。
このように、万人に共通した善行とか悪行と言うものはない。
では何を基準にして善悪を判断したらいいかということになるが、私は〝あなたの動機に照らして判断せよ〟と言いたい。
そして、もちろん、その判断に際して自分に正直でなくてはいけない。
動機さえ善であれば、あなたの行為は間違いなく善である。
もしも動機が自己中心で物欲的で権力欲に発しているとしたら、その行為は、それが何であろうと悪である。
その分だけあなたの人生は無益で、無意味なものになる。
たとえ一時的には利益を得ても、それはいずれあなたの人生を破綻へと導く。
因果律が自動的に罰をもたらすのである。
そこであなたは尋ねるかもしれない。死んであの世へ行ったら私は地獄へ送られて苦しめられるだろうか。
最後の審判の日に地上で犯した罪状を読み上げられ、良い行いの分を差し引かれて刑を言い渡されるのだろうかと。
そんなことは絶対にない。
が次のようなことは必ず体験させられる。
まず、あなたを霊界から援助してくれた背後霊とともに、あなたの送った地上生活を振り返る。
正しかったことも間違っていたことも、細大もらさずビデオを見るように再現され、この判断は正しかったが、あれはいけなかった。
ここでこんなことをしたからああなった。
といった調子で背後霊から説明をうける。
それが終ると、背後霊と相談の上で、もう一段高い世界へ挑戦するか、それとももう一度地上へ戻るかを判断する。もし地上へ戻ると決まったら、しばらく休息をとり精神統一をしながら調整する。
やがて霊的な準備が整う。
指導霊の協力を得て新しい地上生活のパターンを選ぶ。
それまでに何世紀も経っていることもある。
いよいよ機が熟すると、前と同じように深い睡眠状態に入り、それまでの一切の記憶を捨てて地上の一女性の胎内へと入っていく。
宇宙学校の第二学期が始まったのである。