遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『テスカトリポカ』  佐藤 究  角川書店

2024-10-10 22:11:10 | 諸作家作品
この見慣れない奇妙なタイトルの小説を読んだ。奥書を読むと、第Ⅰ部は「カドブンノベル」(2020年12月号)に掲載され、第Ⅱ部以降は書下ろしによる作品。2021年2月に単行本が刊行された。
 本書は、2021年上半期の第165回直木賞受賞作品。また2021年の第34回山本周五郎賞受賞作品である。

 この奇妙なタイトル名称、本書を読み始めて知ったのだが、アステカ神話に登場する神の名だった。かつての古代文明の一つ、アステカ王国は現在のメキシコの地で栄えていたという。単行本の表紙には、テスカトリポカの仮面の部分図が装丁に使われている。

 
 これは大英博物館に所蔵される「テスカトリポカの仮面」をウィキペディアから引用した。(資料1)

 第Ⅰ部「顔と心臓」の第10セクションに、アステカの暦は祭祀暦260日と太陽暦365日が組み合わされ、52周期の暦が社会生活の基盤になっていること。その新しい52年の開始を祝うにあたり、テスカトリポカという「見ることも、触れることもできない恐ろしい存在に、いけにえの心臓と腕がささげられ」るという。そして、末尾に次の文が記されている。「われらは彼の奴隷。夜と嵐、双方の敵、どれも同じ神を指していた。永遠の若さを生き、すべての闇を映しだして支配する、煙を吐く鏡(テスカトリポカ)」(p98)と。
 人々はテスカトリポカという本当の名は胸にしまい込み、別名でこの神を敬うという。

 本作は、メキシコから始まり、インドネシアを経由して、日本が舞台となる。スケールが大きく、おぞましい闇社会を取り扱ったクライム小説。麻薬密売人の闇世界と人体臓器売買の闇世界を組み合わせた裏社会でのビジネス形成とその破綻プロセスが描かれていく。この小説、怖いもの見たさ/読みたさに突き動かされていく。ストーリー展開が実に巧みである。
 ストーリーはフィクションだが、世界に麻薬密売の組織が存在し活動していることは時折報道されている。人体臓器の売買市場が存在するというドキュメンタリー本も存在する。以前にスコット・カーニー著『レッド・マーケット 人体部品産業の真実』(講談社)という一書を読んだ。読後印象記を拙「遊心逍遥紀」の方に載せている。恐ろしい市場が存在するのも事実である。時折、臓器売買に絡む報道事例もある。
 つまり、単なる絵空事ではないリアリティを滲ませる側面が、読者を惹きつける。
 
 読後印象として、本作に出てくるキーワードを列挙してみよう。
  アステカ神話。儀式。家族。裏切り。復讐。麻薬密売人。麻薬と覚醒剤。
  麻薬資本主義(Drug Capitalism)。心臓。臓器。闇医師。無戸籍児童。
  血の資本主義(Blood Capitalism)。
 このストーリーから「同床異夢」という語句を想起した。壮絶な破綻と崩壊。

 本作はアステカ帝国とアステカ神話がバックボーンになっている。主な登場人物の一人であるパルミロ・カサソラが、子供の頃に祖母のリベルタに、アステカ王国のこととアステカの神々について、体験的に刷り込まれる。パルミロは、アステカ神を信仰している。死んだ父親に倣い、4人兄弟でロス・カサソラスという麻薬カルテルを運営していた。最重要指名手配犯の一人として、メキシコ、アメリカの官憲に追われる人物。ドゴ・カルテルと敵対抗争を繰り広げた果てに、家族・兄弟を皆殺しにされ、生き残ったパルミロはメキシコを脱出する。いずれドゴ・カルテルを殲滅して、復讐を遂げ、メキシコに帰り咲くことを己の使命とする。勿論、パルミロは逃亡時点以降、様々な偽名を使いつつ、己を「調理人」と自称する。インドネシアに滞在し、世界の闇市場の情報を収集しつつ、己の使命のために、資金の蓄積とネットワーク造りに邁進する。

 麻薬密売を介して、知り合うのが田中(本名:末永充嗣)と名乗る日本人。彼は元医師。インドネシアでは、臓器密売コーディネーターをしている。
 日本には、元麻酔医で闇医師に転落し、末永と緊密な関係を維持する野村健二が居る。
 
 調理師と末永とは親しくなり、末永は調理師の力量を評価したうえで、闇社会での一つのビジネス・モデルの構想を打ち明ける。それが契機となり、調理師と末永はチームを組む。それ以前から末永が愛称として呼ばれていた蜘蛛が末永の呼び名となる。このビジネスには、勿論野村も関わっていく。野村は奇人と称される。
 彼らの拠点は日本に移る。

 さらに、少なくともあと3人を主な登場人物に挙げておかねばならない。
 一人は、第Ⅰ部第03セクションに登場する土方コシモ少年。父親は暴力団幹部でクラブを経営。母親はメキシコ人。結果的にコシモは相模原少年院に入所することに。読み進めている途中で、コシモがどういう形でストーリーの本流に登場してくるのか、どのような役回りを担うことになるのかが、私には興味津々となった。
 
 もう一人は、第Ⅲ部第29セクションから登場する清勇・パブロ・ロブレド・座波。沖縄県那覇市で育ち、父親がペルー人、母親が日本人の長男。彼は一品物を作るナイフメーカーになりたかった。その技術を認められ、調理師に雇われる。そこは調理師、蜘蛛、奇人が共同経営のオーナーとなっているアクセサリー工房である。パブロはここで創作品や特注品を作りつづける。この工房でパブロは、ナイフの他にも、銀の指輪やペンダントなども作る。調理師は、インカ帝国のデザインを取り込めと指示する。雇用主の調理師との関りが続くにつれて、パブロは調理師の正体を凡そ感じ取るようになっていく。
 やがて、パブロは調理師から指示されてコシモと工房での関係が生まれる。パブロはコシモに技術指導をする。一方、コシモに何を知らせ、何を知らせるべきでないかに、悩み始める。
 この後、コシモは調理師に家族の一員として扱われるようになるのだが、パブロはあくまで工房でのナイフメーカーとして、被雇用者として扱われる。

 3人目は、第Ⅱ部第22セクションから登場する宇野矢鈴。彼女は保育士。ある認可保育園に勤めていたが、他の保育士の問題提起から始まった待遇問題がこじれて騒動の渦中の一人となる。矢鈴は麻薬に手を染めていく。静脈注射の後に頭痛を感じるようになったことが原因で、闇医師野村の診断を受けるようになる。これが契機で、野村に目をつけられ、NPO法人<かがやくこども>という児童養護団体を紹介される。矢鈴はここの職員に転職。このNPO法人は、野村の周囲で動きつつあった巨大なビジネスの一環に組み込まれていた。矢鈴はそのことを全く知らずに、NPO法人の建前の目的に賛同して、指示された活動に活発に取り組み始めて行く。課題通りの仕事をこなしていくのだが、それは建前部分だけ知らされての活動だった。知らないままに、闇社会のビジネスに深く足を突っ込んでいくことになる。

 最後に、全体の構成を目次として示す。
  Ⅰ 顔と心臓
  Ⅱ 麻薬密売人と医師
  Ⅲ 断頭台
  Ⅳ 夜と嵐
  暦にない日

 第Ⅳ部の末尾の文章がいい。アステカ王国の滅びた日とこのストーリーの結末の日との関りに触れられているのだから。
 そして、このストーリーで、救われる思いを抱けるのは、「暦にない日」に記された後日譚である。

 このストーリー、最後は祖母リベルタが4人の孫たちに語りかける断ぺ園的なアステカの物語の列挙で終わる。調理師・パルミロの頭に最後に走馬灯のように思い浮かんだことが、ここに取り上げられたのだろうか。
 この語りの手前には、次の一文が黒地に白抜き文字で記されている。
       サボテンにとまった鷲が
        蛇を食らっている、
      そこがおまえたちの榮える地だ。


ケツァルコアトルとテスカトリポカ  (資料1)

 ご一読ありがとうございます。本作の展開をお楽しみください。



参照資料
1) テスカトリポカ   :ウィキペディア

補遺
アステカ       :ウィキペディア
特別展「古代メキシコ ―マヤ・アステカ・テオティワカン」 小澤佳憲:「buncul」
謎多き国家アステカ 同盟帝国だったから滅亡した?  :「日本経済新聞」
アステカ神話     :ウィキペディア
メキシコ麻薬戦争   :ウィキペディア
黄金の三角地帯    :ウィキペディア
メキシコカルテルの大ボス・麻薬王の“壮絶な最期”とは :「現代ビジネス」
パブロ・エスコバル  :ウィキペディア
コロンビアにおける違法コカ栽培と政府の対策  千代勇一 :「IDE」
コロンビアー2024年麻薬密輸報告書:「JAPAN P&I CLUB 日本船主責任相互保険組合」
レッド・マーケット。ようこそ「臓器」の闇市へ  :「WIRED]
臓器移植大国巣くう闇市場、中国 2024/3/24 :「富山新聞」
人身取引で子どもの臓器が売買されている実態と海外や日本の支援、わたしたちにできること :「A good thing, Start here, gooddo」
再開された臓器売買をめぐる論争  黒瀬勉  :「大阪大学医学系研究科」
クローズアップ現代 闇を追う ”臓器あっせん事件”  :「NHK」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもご一読いただけるとうれしいです。
"a href="https://blog.goo.ne.jp/kachikachika/e/c1a6922d79207a3aa27161bb648ba72a">『レッド・マーケット 人体部品産業の真実』 スコット・カーニー  講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『はじめてのギリシャ神話解剖図鑑』  河島思朗監修  x-knouwledge

2024-10-03 10:58:54 | 宗教・仏像
 ギリシャ神話への入門編図解版。表紙でおわかりのように、人物イラスト(神・英雄・人間)は軽妙なタッチで描かれている。<1章 天地創造> <2章 英雄たちの活躍> <3章 戦いの時代>という大項目分類のもとに、見開き2ページ、あるいは1ページで一項目がまとめられているので読みやすい。索引が付いているので、名称・単語による逆引きもできる図鑑になっている。
 本書は2023年12月に単行本が刊行された。
 
 手元には、高津春繁著『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)、呉茂一著『ギリシア神話』(新潮社)をはじめ、数種のギリシャ神話文庫本がある。しかし、今まで残念ながら専ら必要に応じて関連個所を参照するくらいで、通読することがなかった。そこで、初心に帰って本書を手に取ってみた。通読した最大の収穫はギリシャ神話の基礎的全体像に触れられたことである。おかげで全体のイメージを少し描くことができるようになった。勿論、日本神話と同様に、神々や英雄たちが多すぎて、おぼえられたわけではない。あくまで通覧したことで、全体の神々のつながりがわかったにとどまる。

 本書の利点は、神々の系譜図が数多く掲載されているので、神々の関係を理解しやすいこと。主要な神々については、その神名で関連ページの注記を入れて、リンクが張られている。それが図鑑としての使い勝手を便利にしている。ギリシャの神々が個別の都市と関係しているので、部分地図が結構多く掲載されている。

 「はじめに」では、ギリシャ神話の基礎知識が、<成り立ちと発展> <人間の5つの時代> <ギリシャ神話の舞台> <ギリシャ神話を伝えた人々>という見出し項目で簡潔にまとめられている。
「はじめに」の冒頭の見開きページの見出しは、<ギリシャ神話だからすごい!>である。その最初に有名なボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』のイラストが載る。女神アプロディテの誕生シーンである。ギリシャ神話は数々の芸術作品の題材になっているというわかりやすい事例の提示。この女神については、p.41参照の付記がある。リンクが張られている。該当ページを見ると、p.40-41は「アプロディテ」の説明ページ。
 『ヴィーナスの誕生』のヴィーナス、つまりアプロディテには、「身体をS字形にくねらせた姿は、古代ギリシャ時代のアプロディテ像にならったもの」と説明が付いている。また、この見開きページの本文には、「愛と美と豊穣の女神で、ローマのウェヌスと同一視される。クロノスが父ウラノスの男性器を切り取って海原へ投げ捨てたとき、そこに湧き出た白い泡から誕生した」と説明されている。
 『ヴィーナスの誕生』の絵を見たとき、あなたはなぜヴィーナスがS字形の姿で描かれ、なぜ海から誕生してきたのかを考えたことがあるだろうか? 私は考えていなかった! 本書を読んで頭にガツン! ここの説明文中にも、クロノスのページへの補足が記されている。

<1章 天地創造>
 副題は、「神々の世界と人間の誕生」。この章の小見出しに出てくる神々の名を列挙しておこう。
 ウラノス、ゼウス、ティタノマキア、ポセイドン、ヘラ、アテナ、アプロディテ、アポロン、アルテミス、ヘルメス、ヘパイストス、アレス、デメテル、ヘスティア、ディオニュソス、ハデス、プロメテウス
 これらの神々のうち少しは知っているなと思うものはわずか半数ていどだった・・・・。お粗末!

<2章 英雄たちの活躍>
 副題は「大冒険ファンタジー」。英雄物語には「型」があるという解説から始まる、本書では、物語の「型」として、1.人間離れした誕生、2.怪物退治、3.試練や冥界訪問、という類型を指摘している。このパターン、今の漫画やゲームや映画にも引き継がれていることがわかる。
 この章では、ペルセウス、ヘラクレス、ペレロポン、メレアグロス、イアソン、テセウス、オイディプス、が取り上げられている。
 知らない英雄が多いなぁ・・・・手元の本が持ち腐れになっている、という思い。

<3章 戦いの時代>
 ギリシャ神話は、神々の間も、人間同士でも、大戦争が勃発している側面を取り上げている。ここで取り上げられているのは、ゼウスへの反逆者、トロイア戦争、オデュッセウス苦難の旅、である。トロイア戦争は英雄の時代でもある。
 トロイア戦争でトロイアが陥落する。敗れて生き残った王族アンキセスの息子アイネイアスは、落ち延びてイタリアを目指し、イタリアに新都市を築き、ローマ建国の祖となったという。このことは知らなかった! トロイアとイタリアが繋がっていたとは・・・。
 「アイネイアスとラウィニアとの子孫として、ロムルスとレムスの双子の兄弟が生まれた。ロムルスによってローマが建てられたとされる」(p137) 
 このことが、ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』に描かれているという。

 文化を理解するには、その地域の基盤にある「神話」を理解することが不可欠と言われる。ギリシャ神話を断片的に参照するだけでなく、改めて少なくとも通読する必要があると感じた。神々は複雑に相互連関している。
 これを契機に、手元の本を生かさねば・・・・・。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
ヴィーナスの誕生   :ウィキペディア
ギリシャ神話   :ウィキペディア
ギリシア神話の固有名詞一覧  :ウィキペディア
ギリシャ神話「オリュンポス十二神」一覧|文化に影響を与えた神々を知る:「NewSphere」
ヘーシオドス    :ウィキペディア
神統記       :ウィキペディア
オデュッセイア   :ウィキペディア
ホメーロス  :ウィキペディア
ウェルギリウス   :ウィキペディア

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『一場の夢と消え』  松井今朝子  文藝春秋  

2024-10-01 17:48:54 | 松井今朝子
 この小説の終わり近くに、「春宵一刻値千金」という蘇東坡が詠んだ名句が出てくる。そして「蘇東坡が年老いて、同じく年老いた婦人から、富貴と名声に包まれたあなたの人生も所詮は『一場(イチジョウ)の春夢』に過ぎぬ、と言い放たれた話を昔どこかで読んだ覚えがある」(p408)と続く。本書のタイトルは、ここに由来するようである。

 調べてみると、「春宵一刻値千金」という句は、蘇東坡の漢詩「春夜」の初句である。
   春宵一刻値千金  春宵一刻 値千金
   花有清香月有陰  花に清香有り 月に陰有り
   歌管楼台声細細  歌管楼台 声細細
   鞦韆院落夜沈沈  鞦韆院落 夜沈沈
 
 本書は「オール讀物」(2023年3・4月号~2024年3・4月号)に連載された後、2024年8月に単行本が刊行された。

 このストーリーで、己の人生を「一場の春夢」と思いあたったのは誰か。
 近松門左衛門である。本書は近松門左衛門一代記、伝記風小説。

 本書は、「春永の暮らし」
     「夏安居の日々」
     「出来秋(デキアキ)の善悪(ヨシアシ)」
     「斑雪(ムラユキ)の冬籠もり」 という4編で構成されている。
著者は、短編の4連作で近松一代記を構想したのではないかと想像した。

 読了後に4つのタイトルを再度見て、再認識! 春、夏、秋、冬という語が標題に織り込まれている。近松門左衛門の名を燦然と世に輝かせた男の人生の春夏秋冬と平仄を併せている。それぞれを独立した一編として単独で読むこともできる。その一方で、一人の男の生き様、あり様は、周りの人々、家族との関わりという要素において繋がりつつ、人生のステージを変化させていく。

 本作は、信盛という名前、一人称の視点で記述されている。最初から最後まで、信盛という名前で一貫され、信盛の目線で己と周囲の人々との関係、己のやっていること、時々の出来事・・・が語り継がれる。その中に、信盛と関係を持つ人々の二人称視点から、近松門左衛門の名称が発される。そのメリハリ、対比が明瞭になっている。

<春永の暮らし>
一条恵観禅閤に宮仕えする武士として、近江の近松寺に住み暮らした信盛が、恵観禅閤の没後もしばらく近松寺に留まっていた。正親町公通に求められたことを契機に、近松寺を出て、正親町公通に仕える。近松寺で説教師栄宅と出会ったことが、信盛生涯の友という関係に進展する。栄宅との関わりは本作の一筋の底流となる。
 正親町家に仕える間に、弁の君の侍女清滝と関係が深まり、清滝は後に信盛の生涯の伴侶となることに。名前は多岐という。
 清滝との関係が発覚したことで、信盛は正親町邸を去ることになる。この時、浄瑠璃の宇治嘉太夫の勧進元である竹屋庄兵衛を訪ねてみよと正親町公通から助言される。信盛がかぶき狂言や浄瑠璃の戯作者として歩み始める契機となる。
 浄瑠璃「出世景清」がヒットし、浄瑠璃正本が山本屋から版行される際に、戯作者信盛の雅号も彫られることになる。これが近松門左衛門の名前が世に知られる最初となる。それは、戯作者の名前が正本に載る第一号でもあったという。また、これを契機に、都万太夫が勧進元となるかぶき狂言でも、小屋の看板や街角の辻札に作者名を明記するようになったそうだ。戯作者名が表にでる契機を作ったのが近松門左衛門だったのだ。本作で初めてこのことを知った。
 本書を読むと、浄瑠璃や歌舞伎の沿革史を自然な形で知識として学べるという副産物が伴われてくる。この点も楽しめる側面だ。
 信盛が武士から芝居の世界で生きる戯作者に転身する人生の入口が描かれる。人生の「春」である。知識や経験の蓄積を基礎に、それを生かして開かせるまでの時期が描かれる。
 明確に時期が明記されるのは2か所。寛文13年(1673)の大火と、信盛の父杉森信義が天寿を全うした没年・貞享4年(1687)4月である。

<夏安居の日々>
 元禄元年(1688)から5年の歳月が流れた時点、不惑の年齢時期の信盛を描く。信盛は京において、都万太夫座の座付き作者となっている。芝居の世界で信盛に大きな影響を与える坂田藤十郎について語る。その藤十郎との関わりから、丹六(ニロク)大尽と呼ばれる分限者で興業の金主との出会いが生まれ、また丹六大尽の零落した姿にも接する。この経験が戯作者信盛に大きな影響を及ぼしていく。
 藤十郎のために次々と狂言を書く状況を信盛が語る。様々な作品を掲げながら、元禄12年(1699)正月興行の「傾城仏の原」を書き、また、元禄16年(1703)5月の操り浄瑠璃芝居、竹本座のために「曽根崎心中」を書いた。これらの興行の経緯がクローズアップされていく。信盛はかぶき芝居のきり狂言で心中ものを扱っているのにヒントを得て、浄瑠璃に心中ものを本格的に取り上げた。心中ものの嚆矢となる。作品の成り立ち経緯がわかり興味深い。
 一方で、当時の信盛の家族の様子ー妻の多岐、長男・多門、次男・恵次ーについて、また正親町家の弁の君の消息が織り込まれていく。
 四十代に入り、かぶき狂言と浄瑠璃という二つの領域で、ヒットする作品を書き続ける信盛の姿が、植物が伸び盛る夏の輝きのごとくに描かれる。それを舞台で実現したのが、坂田藤十郎であり、竹本義太夫だった
 
<出来秋(デキアキ)の善悪(ヨシアシ)>
 坂田藤十郎が病に倒れ、都万太夫座の不振となる頃からが描かれる。都座付作者としての銀一貫目の年金があてにできなくなる一方、浄瑠璃「曽根崎心中」の大当たりが、浄瑠璃正本の刊行で、信盛に収入(ミイリ)をもたらすことに。版元山本屋の斡旋で、信盛は高倉御池辺りに移転した。近松門左衛門の京の住居地を本書で初めて知った。
 歌舞伎と浄瑠璃という芝居の世界における離合集散、栄枯盛衰の状況が信盛の目を通して、語られていく。大坂の豪商淀屋が破綻した時期でもある。
 信盛は新生竹本座の竹田出雲のために、座付き作者となり浄瑠璃を書く立場に移る。仕事の拠点を大坂に移し、高津宮近くに住む。いわば単身赴任したのだが、芝居茶屋を営む奈加との関係が深まっていく。いわば、大坂妻のような位置づけに進展する。近松門左衛門が浄瑠璃作者として不動の地位を確立していく時期でもある。
 新生竹本座のために「用明天皇職人鑑」を書いた宝永2年(1709)から、「国性爺合戦」「国性爺後日譚」を書いた時期までの経緯が信盛視点で語られる。
 ここに、信盛にとっての頭痛の種である次男恵次の生き方がサブストーリーとして織り込まれる。近松門左衛門にとっての弱みである。
 
<斑雪(ムラユキ)の冬籠もり>
 信盛が己の晩年を語る。とは言え、戯作者としては現役で筆を執る身。大坂住まいで、弟子をかなり抱えている。大坂の若き町儒者、穂積伊助がしきりに訪れ、信盛と問答することを好む。その様子から始まる。さらに、大坂東町奉行所同心、生田源右衛門が訪れることに触れていく。次男恵次のことが気がかり故に、生田と懇意にしておきたいという気持ちが信盛にはある。一方、浄瑠璃好きの生田は事件を含め、世相を信盛に伝えてくれるよき情報源ともなっていくところがおもしろい。著者は、享保5年(1720)の師走の竹本座の興行「心中天網島」は生田が信盛に告げた情報が発想の源になる形で描く。
 この編では、信盛の次男恵次がどのような生き方をしているのか。それを確かめたい親心が大きく表に出てくるストーリー展開になる。信盛の家族関係がクローズアップされている。そこに、信盛が自分勝手な思い込みをしていたとひそかに反省する側面も織り込まれていく。戯作者の自己分析。そこに信盛の人間像が反映しているといえる。
 享保9年(1724)正月に竹本座で「関八州繋馬」が興行された。近松門左衛門が久々に筆を執った最後の作品のようだ。信盛は御政道風刺の側面を盛り込んだようである。近松の反骨心が託されたという点がおもしろい。
 享保9年3月21日の出火で大坂は「妙知焼け」と称される大火災が発生した。奈加のいろは茶屋も4月半ばには再開の運びとなる。その後に信盛は死期を迎える。
 このストーリーのエンディングは、タイトルに照応していて余韻が残る。

 印象に残る箇所を二つ引用しご紹介しておこう。
*世間の大方は、腹の足しにもならない芝居に現を抜かす連中を哂っている。しかしよほどの芝居好きでも、舞台を見て我を忘れるのはほんの一瞬に過ぎないのだ。その一瞬のために、自分の一生を捧げようとする役者を見て、そんな人間がこの世にいることを信盛はまずふしぎに思い、却って珍重したくなったのかもしれない。  p121
*虚と実の間をつなぐ薄い皮膜のようなもんが芸じゃと思えばよい。その芸こそが実を虚に変え、虚を実に変えて人の心を慰めるのじゃ。舞台の芸も、文芸も然りじゃろうて。  p323 →信盛が穂積伊助に断言したこととして。

 近松門左衛門について断片的な知識はあったが、近松門左衛門の一生という視点で考えたことはなかった。この小説を読み、フィクションという形を通してであるが、近松門左衛門の生涯を通覧することができた。さらに、副産物として、歌舞伎・浄瑠璃のいわば沿革史の一端の知識を得られたこともプラスとなった。

 浄瑠璃や歌舞伎を観劇したいなぁ・・・・・と久々に思う。

 ご一読ありがとうございます。


補遺
漢詩紹介 春夜  蘇東坡   :「関西吟詩文化協会」
近松寺    :ウィキペディア 
近松門左衛門 :ウィキペディア 
近松門左衛門 :「歌舞伎辞典」
正親町公通  :ウィキペディア
坂田藤十郎(初代)  :「歌舞伎辞典」
坂田藤十郎(初代)  :ウィキペディア
竹田出雲 :「歌舞伎辞典」
竹本義太夫 :「ジャパンノレッジ」
竹本義太夫 :ウィキペディア
竹本政太夫 :ウィキペディア
出世景清  :「文化デジタルライブラリー」
曽根崎心中 :「NHK for School」
大経師昔暦 :ウィキペディア
心中天網島 :ウィキペディア 
国性爺合戦 :ウィキペディア
穂積以貫  :「コトバンク」

 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。

「遊心逍遙記」に掲載した<松井今朝子>作品の読後印象記一覧 最終版
 2022年12月現在 6冊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする