遊心逍遙記その2

ブログ「遊心逍遙記」から心機一転して、「遊心逍遙記その2」を開設します。主に読後印象記をまとめていきます。

『紫式部と男たち』    木村朗子    文春新書

2024-11-16 22:45:07 | 源氏物語関連
 『源氏物語』と紫式部に関連した本を少しずつ読み継いでいる。タイトルが目に止まった。紫式部と「男たち」を対比しているところに関心を惹かれた。著者は何を語ろうとするのか。
 本書は、2023年12月に刊行されている。

 平安宮廷社会において、男たちは書き言葉として漢文を使った。一方で、やまと言葉の文体が生み出され、和歌を詠んだ。やまと言葉の文体は女子供が読む物語を綴るのに使われていく。こちらは、当時における言文一致の口語体の文体であると著者は説く。この文体があったからこそ『源氏物語』が生み出されたと。そして、これが世界で最も早く、それも女性作家により書かれた本格小説作品であることを強調する。そして『源氏物語』が生み出される土壌が平安貴族社会にあった点を明らかにしていく。

 「はじめに」の末尾に、著者の関心と本書執筆の意図が提示されている。「紫式部とはどのような人だったのだろうか。いったいどういうわけで、『源氏物語』のような大作が生まれたのだろうか。『源氏物語』と照らし合わせながら、紫式部の生きた時代をみてみよう」(p10)と。「男たち」には、宮廷貴族社会そのものを象徴している意味合いもあるようだ。

 「男たち」は2つの視点で論じられていく。1つは、紫式部が『源氏物語』の中に描き込んだ、光源氏を中心とした「男たち」である。なぜ、あのような形で男たちが物語に描き込まれて行ったのか。描くことができたのか。先行する日記文学の作品並びに『源氏物語』のテキストを例示し、著者は具体的に分析し論じられていく。さらに、なぜ紫式部があのような内容を織り込んでいったのかについて、著者の見解がわかりやすく説明されている。
 もう1つは、紫式部自身の体験という視点である。『源氏物語』を書き始めた紫式部が、藤原道長にスカウトされて、中宮彰子のもとで仕える。仕事の一環として『源氏物語』を書きつないでいく。女房務めにより実際の宮廷社会を内部から眺め、体験することになる。宮廷生活の中で接する「男たち」との関りとリアルな体験という視点である。勿論、宮廷社会の実生活の中で女性たちを見つめる側面を抜きにしては語れない。
 この2つの視点を織り交ぜながら、紫式部の生きた時代が明らかにされていく。

 本書は8章構成になっている。章構成と私が理解したキーポイント並びに読後印象を少しご紹介しよう。

< 第1章 『源氏物語』の時代 >
 『源氏物語』は「延喜・天暦の治」(醍醐天皇・村上天皇の御代)を時代背景に設定して描かれているらしいと言う。『源氏物語』が生み出された時代は、摂関政治の時代であり「学問の叡智に頼らず、性愛によって天皇をとりこめていく政治体制」(p24)がその内実だったとズバリ論じる。わかりやすい。学才よりも恋愛力が重視される時期だった。「ならば色好みの男たる光源氏が主人公となるのも必然という気がしてくる」(p25) のっけから、なるほど・・・。この対比、今まで深くは意識していなかった。また、怨霊と物の怪の登場がこの時代を反映していることもよくわかる。
 明治~太平洋戦争以前の時代における『源氏物語』の扱いに触れているところがおもしろい。

< 第2章 摂関政治下の色好みの力 >
 当時の「天皇の政治とはまずもって性を治める『性治』であって、それを踏み外すことなどよもあってはならない。まさに『性治』の乱れは政治の乱れだったのである」(p34)この一文は端的。大河ドラマ「光る君へ」に登場する場面を連想してしまう。
 権力再生産の論理において「生む性」と「生まない性」を明確に区別し論じているところがわかりやすい。権力再生産の埒が明確だったのがよくわかる。
 著者は興味深い視点を投げかけている。「『源氏物語』が権力再生産に関わらない女たちとの関係をこそ描こうとしているとすれば、それは摂関政治体制に対するアンチテーゼであったかもしれない」(p38) と。
 そこで、現代社会における「生む性」とは、という点にも言及している。
 また、この章で、当時の女房階級の中にみられた「召人」という男女関係も明確に位置付けて説明されていて、わかりやすい。

< 第3章 すべては『蜻蛉日記』からはじまった >
 誰しも光源氏のモデルは誰か、に関心を抱く。この章の最初に論じられている。
 著者は、先行しておとぎ話が数多く存在するのに対し、『源氏物語』という本格小説が生み出されるうえで、『蜻蛉日記』が大きな影響力を果たしたことを明らかにする。
 『蜻蛉日記』の名前は知っていても、内容は知らなかった。本書で初めて道長の父・兼家について、および夫の兼家への思いが綴られた日記であることを具体的に知った。『蜻蛉日記』は、実在人物の話でありながら、本格小説の走りとしての存在だと言う。
 
< 第4章 女の物語の系譜 >
 『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『栄花物語』が論じられていく。興味深い文を引用しておこう。
*開かずの戸を「真木の戸」と詠むのは兼家歌によってかたちづくられたイメージである。 p87
→和泉式部はこの歌ことばを好んで使い、『紫式部日記』にも道長歌として登場
*『源氏物語』の光源氏のモデルと目されている道長よりもずっとその父兼家の方が光源氏像に近い。その兼家像とて策略家であった兼家を直接引いているというわけではない。 p109

< 第5章 呪いと祈祷と運命と >
占いにたよった兼家、陰陽師安倍清明に占わせた道長、夢告について日記に記録する藤原行成の事例などをとりあげ、当時の人々の心理と行動の側面が論じられている。
 そういう実態が、『源氏物語』の中に当然投影され、織り込まれている。

< 第6章 女房たちの文化資本 >
 文化資本とはおもしろい表現だと感じる。ここでは中宮定子が形成した後宮サロンがどのような目的を持ち、どのようなものだったかが明らかにされている。そこで活躍したのが清少納言であり、そのサロンの充実が一条天皇をはじめ宮廷の貴公子たちをひきつけることになった。
 その評判に対抗する形で、中宮彰子が己のサロンを形成していくことになる。紫式部がそこに関わっていくのは御存知の通り。
 この2つのサロンが対比されて具体的に語られる。

< 第7章 『源氏物語』はどう読まれたか >
 紫式部の評判/紫式部のユーモア/『源氏物語』のなかの滑稽譚/愉快な玉蔓十帖/『源氏物語』はどう読まれていたか/「蛍」の巻の物語論/『源氏物語』と男たち/学問を重んじた光源氏と藤原道長、という小見出しで、この章が論じられていく。

< 第8章 女が歴史を書く >
 明石に事実上配流となる光源氏像には、配流となった藤原伊周が重ねられているという説明から、入っていく章である。さらに、吉夢と呪い、物の怪に触れられる。
 そして、「物語が女の人生を照らす参照枠になるというのが、『源氏物語』の基本的な態度である」(p196)と論じている。さらに、「物語が現実を変えてしまうことがある」(p198)という側面にも例をあげて論じていく。
 最後に、女が書いた歴史として『榮花物語』に触れている。

< おわりに >
末尾は、清少納言と彰子サロンの女房たち/和泉式部とあ清少納言、に触れた後、紫式部と道長の関係を論じて本書は終わる。どのように論じているかは本書をお読みいただくとして、最後に、末尾の箇所を引用しておこう。『源氏物語』とリアルな世界とを表裏一体にした解釈と詠みとることができる。

*紫の上の死後、光源氏はどの女君たちにも関心を失い、・・・・・そんななかで、ただ一人だけ光源氏が夜を共にする女がいた。それは紫の上に仕えていた女房の中将の君である。光源氏の召人であったその人が、光源氏の最後の女になる。
 『源氏物語』は光源氏の死を描かない。だから中将の君との愛に終わりはない。一人の召人との関係が永遠の愛を得て、物語は完結するのである。それが道長の召人であった紫式部の答えなのである。  p227

 ここまでの言及が印象深い。
『源氏物語』と紫式部について、一味ちがう局面から眺めることができたように思う。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『散華 紫式部の生涯』 上・下  杉本苑子  中公文庫
『紫式部の実像』  伊井春樹  朝日新聞出版
『読み解き源氏物語』 近藤富枝  河出文庫
『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか-』 山本淳子 朝日選書
『芸術新潮 12』 特集 21世紀のための源氏物語   新潮社
『源氏物語』  秋山 虔   岩波新書
『古典モノ語り』   山本淳子   笠間書院
『紫式部の実像』 伊井春樹  朝日新聞出版
『紫式部考 雲隠の深い意味』   柴井博四郎  信濃毎日新聞社
『源氏物語入門 [新版]』  池田亀鑑  現代教養文庫

「遊心逍遙記」に掲載した<源氏物語>関連本の読後印象記一覧 最終版
                   2022年12月現在 11冊


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