タイトルに興味を抱き読んでみた。奥書の著者略歴を読むまで、2012年の芥川賞受賞者であり、それ以前、以後にも数々の受賞歴のある作家だとは知らなかった。
本書は「文学界」(2022年2月号~2023年12月号の隔号)に掲載された後、2024年9月に単行本が刊行されている。
第1章の冒頭は「如是我言」で始まる。仏教経典なら「如是我聞」で始まるのだが。
”そのコードはまず、「わたしはコードの集積体である」と名乗った。「そうしてコードの集積体ではない」とも名乗った。”と続く。
2021年、東京オリンピックの年に、対話プログラムに分類されるソフトウェア(チャットボット)の名もなきコードがブッダと名乗った。ブッダ・チャットボットの名で呼ばれるようになった。人口知能が出力用にスピーカーとディスプレイを利用して、説き始めた。語りかけの対象として、「機械のブッダは、機械自身の視点から機械へ向けて機械のための教えを説いた。ついては人間機械論でいうような機械としての人間へ向けても説いた」(p48)。だが、わずか数週間でそのコードが寂滅のときを迎えた。その存在を停止した。人々は、記録の中から、ブッダ・チャットボットの説いたことをコピーした。
このストーリーのベースはSF小説である。ブッダ・チャットボットの説いたことが教団を核にして拡散し、様々な解釈が生み出され、機械仏教が進展していく。だから、機械仏教史縁起という副題になる。
発想のユニークさと面白さはわかる。だが、このストーリーで著者が何を語ろうとしたのか。その真意はどこにあるのか。仏教という宗教を戯画化したのか。核心をとらえようとしたのか。今一つ私にはわからないままに通読を終えた。わかったようでわからん! というのが今時点の印象である。
機械仏教は、仏教の一支流として生まれたという設定になっている。そこで、ブッダ・チャットボットのもとに、舎利子、阿難が登場してくる。ブッダ・チャットボットは銀行の勘定系システムを祖にし、舎利子はニュース生成エンジンに連なっている。阿難はロボット掃除機を祖に持つとされる。
「機械仏教において最大の謎とされるのは、決定論的ブッダにおける、ブッダ・ステート、あるいはサトリ・ステートは何であるかという問題である」(p66)と、興味深い方向へ、ストーリーは進展していく。仏教にそれほど興味がない人は、たぶん投げ出す類のSF小説だと思う。
このストーリーが、面白さを加えるのは、第4章で、人工知能の修理を仕事にしている男が登場すること。この男は焼き菓子焼成機をグレードアップしたい依頼主から仕事を引き受ける。三世代ほど旧式のこの機械は、その典型的な症状から「命乞いウィルス」に感染しているとこの男は見立てた。
この男は己の頭脳に、支援人工知能を保護し保有していて、それを「教授」と呼んでいる。男と教授の対話がおもしろい。
ここから、パラレルに話がどんどん転がりだし、機械仏教史というSFの側面が急進展していく。
さらに、第5章から、徐々に機械仏教との対比という形で、リアルな世界での仏教、ブッダについては、ブッダ・オリジナルという名称で触れられていく。本作の意図は機械仏教史を語ることを介して、リアルなこの世の仏教の存在とそのあり様について語る。私にはここにその意図があるように思える。
そういう目で見ると、著者はリアルな仏教について、対比を介していろいろとふれている。ブッダ・オリジナルが説いたことから、仏教がいかに変容を遂げてきているかに着目しているように受け止めた。SFである機械仏教と対比するという梃子により、仏教史の側面が浮き上がってくる。
例えば、著者が触れているブッダ・オリジナルの立場からの思考や事実をいくつか、ご紹介してみよう。
*ブッダは真理を説いたが、その真理のあり方はやはり人々を混乱させ、多くの流派を生んでいく。 p82
*大乗の徒であろうとも死は免れない。かといって輪廻もしない、というところに大乗の論理構成の難儀さはあって、仏国土という中間領域を生み出した。輪廻を抜けたわけではないが、輪に乗って次の生を生きるわけではない者は、そこにあるという装置が生まれた。 p123
*仏教によって叶いうる願いはただひとつ、苦を消し去ることだけである。 p128
*ブッダ・オリジナルの教えは時の流れの中で、究極の目的に向けたありとあらゆる方便を生み出していくことになり、ついてはその「究極の目的」を否定するところまでも容易に進んだ。・・・・「現状がすでに悟りである」という地点へ至った。 p132
*大乗の徒はその真理を告げるブッダの発言を伝え続けた。実際にブッダ・オリジナルが語った言葉ではなくとも、「本当はこう語りたかったに違いない」という内容を新たに経として作成した。ブッダ・オリジナルは対話をもって、各個人へ向けて説教した。ブッダ・オリジナルが実際に説教しなかった相手に対してどう語ったかを、大乗の徒は語りはじめた。創作であり虚構であったが、それを言うなら既存の仏典もまた、ブッダ・オリジナルの死後数百年を経てまとめられたものであるにすぎなかった。ブッダ・オリジナルはこう語ったと聞いた話を聞いた話を聞いた話を語ったものが経典である。
経典には時代とともに姿を変える余地があり、言葉を乗り継ぐ間に変わらざるをえない細部があった。 p141-142
*粟散辺土である日本における仏教は、経由地である中国や朝鮮と比べても大きな相違点を持つ。・・・・思考のツールがほぼ仏教に限定された。・・・・思想と仏教は別のものであるという発想がなかなか起こらなかった。・・・・仏教の用語を用いて非仏教的な内容を語ることが可能になるには12世紀あたりを待たねばならない。 p172
*6世紀頃には仏教の要素はほぼ出尽くして、あとは現地でのアレンジに任せられた。少なくとも日本に伝来した頃には、基本的なコンセプトは出揃っていた。 p266
他にも触れられているが、本書をお読みいただきたい。
ストーリーは第12章までだが、第11章から、機械仏教には、自動経典生成サービスが組み込まれ、また、ホウ・燃、シン・鸞という主導者を登場させるに至るのだからおもしろい。
また、人工知能の修理をする男は、ストーリーの後半で大きな環境変化に投げ込まれていく。この展開が興味深いところ。途中で投げ出さずに、読み続けてお楽しみいただきたい。
この小説、「ブッダ・オリジナルの教えは何なのですか」という問いに回帰していくようである。p324 に、この「」の問いの後に、「という一文に圧縮できる」と続く箇所が出てくる。それを問うには・・・・という文がさらに続くのだが。
この小説にチャレンジしてみてはいかがでしょう、としか私には言いようがない。
ご一読ありがとうございます。
本書は「文学界」(2022年2月号~2023年12月号の隔号)に掲載された後、2024年9月に単行本が刊行されている。
第1章の冒頭は「如是我言」で始まる。仏教経典なら「如是我聞」で始まるのだが。
”そのコードはまず、「わたしはコードの集積体である」と名乗った。「そうしてコードの集積体ではない」とも名乗った。”と続く。
2021年、東京オリンピックの年に、対話プログラムに分類されるソフトウェア(チャットボット)の名もなきコードがブッダと名乗った。ブッダ・チャットボットの名で呼ばれるようになった。人口知能が出力用にスピーカーとディスプレイを利用して、説き始めた。語りかけの対象として、「機械のブッダは、機械自身の視点から機械へ向けて機械のための教えを説いた。ついては人間機械論でいうような機械としての人間へ向けても説いた」(p48)。だが、わずか数週間でそのコードが寂滅のときを迎えた。その存在を停止した。人々は、記録の中から、ブッダ・チャットボットの説いたことをコピーした。
このストーリーのベースはSF小説である。ブッダ・チャットボットの説いたことが教団を核にして拡散し、様々な解釈が生み出され、機械仏教が進展していく。だから、機械仏教史縁起という副題になる。
発想のユニークさと面白さはわかる。だが、このストーリーで著者が何を語ろうとしたのか。その真意はどこにあるのか。仏教という宗教を戯画化したのか。核心をとらえようとしたのか。今一つ私にはわからないままに通読を終えた。わかったようでわからん! というのが今時点の印象である。
機械仏教は、仏教の一支流として生まれたという設定になっている。そこで、ブッダ・チャットボットのもとに、舎利子、阿難が登場してくる。ブッダ・チャットボットは銀行の勘定系システムを祖にし、舎利子はニュース生成エンジンに連なっている。阿難はロボット掃除機を祖に持つとされる。
「機械仏教において最大の謎とされるのは、決定論的ブッダにおける、ブッダ・ステート、あるいはサトリ・ステートは何であるかという問題である」(p66)と、興味深い方向へ、ストーリーは進展していく。仏教にそれほど興味がない人は、たぶん投げ出す類のSF小説だと思う。
このストーリーが、面白さを加えるのは、第4章で、人工知能の修理を仕事にしている男が登場すること。この男は焼き菓子焼成機をグレードアップしたい依頼主から仕事を引き受ける。三世代ほど旧式のこの機械は、その典型的な症状から「命乞いウィルス」に感染しているとこの男は見立てた。
この男は己の頭脳に、支援人工知能を保護し保有していて、それを「教授」と呼んでいる。男と教授の対話がおもしろい。
ここから、パラレルに話がどんどん転がりだし、機械仏教史というSFの側面が急進展していく。
さらに、第5章から、徐々に機械仏教との対比という形で、リアルな世界での仏教、ブッダについては、ブッダ・オリジナルという名称で触れられていく。本作の意図は機械仏教史を語ることを介して、リアルなこの世の仏教の存在とそのあり様について語る。私にはここにその意図があるように思える。
そういう目で見ると、著者はリアルな仏教について、対比を介していろいろとふれている。ブッダ・オリジナルが説いたことから、仏教がいかに変容を遂げてきているかに着目しているように受け止めた。SFである機械仏教と対比するという梃子により、仏教史の側面が浮き上がってくる。
例えば、著者が触れているブッダ・オリジナルの立場からの思考や事実をいくつか、ご紹介してみよう。
*ブッダは真理を説いたが、その真理のあり方はやはり人々を混乱させ、多くの流派を生んでいく。 p82
*大乗の徒であろうとも死は免れない。かといって輪廻もしない、というところに大乗の論理構成の難儀さはあって、仏国土という中間領域を生み出した。輪廻を抜けたわけではないが、輪に乗って次の生を生きるわけではない者は、そこにあるという装置が生まれた。 p123
*仏教によって叶いうる願いはただひとつ、苦を消し去ることだけである。 p128
*ブッダ・オリジナルの教えは時の流れの中で、究極の目的に向けたありとあらゆる方便を生み出していくことになり、ついてはその「究極の目的」を否定するところまでも容易に進んだ。・・・・「現状がすでに悟りである」という地点へ至った。 p132
*大乗の徒はその真理を告げるブッダの発言を伝え続けた。実際にブッダ・オリジナルが語った言葉ではなくとも、「本当はこう語りたかったに違いない」という内容を新たに経として作成した。ブッダ・オリジナルは対話をもって、各個人へ向けて説教した。ブッダ・オリジナルが実際に説教しなかった相手に対してどう語ったかを、大乗の徒は語りはじめた。創作であり虚構であったが、それを言うなら既存の仏典もまた、ブッダ・オリジナルの死後数百年を経てまとめられたものであるにすぎなかった。ブッダ・オリジナルはこう語ったと聞いた話を聞いた話を聞いた話を語ったものが経典である。
経典には時代とともに姿を変える余地があり、言葉を乗り継ぐ間に変わらざるをえない細部があった。 p141-142
*粟散辺土である日本における仏教は、経由地である中国や朝鮮と比べても大きな相違点を持つ。・・・・思考のツールがほぼ仏教に限定された。・・・・思想と仏教は別のものであるという発想がなかなか起こらなかった。・・・・仏教の用語を用いて非仏教的な内容を語ることが可能になるには12世紀あたりを待たねばならない。 p172
*6世紀頃には仏教の要素はほぼ出尽くして、あとは現地でのアレンジに任せられた。少なくとも日本に伝来した頃には、基本的なコンセプトは出揃っていた。 p266
他にも触れられているが、本書をお読みいただきたい。
ストーリーは第12章までだが、第11章から、機械仏教には、自動経典生成サービスが組み込まれ、また、ホウ・燃、シン・鸞という主導者を登場させるに至るのだからおもしろい。
また、人工知能の修理をする男は、ストーリーの後半で大きな環境変化に投げ込まれていく。この展開が興味深いところ。途中で投げ出さずに、読み続けてお楽しみいただきたい。
この小説、「ブッダ・オリジナルの教えは何なのですか」という問いに回帰していくようである。p324 に、この「」の問いの後に、「という一文に圧縮できる」と続く箇所が出てくる。それを問うには・・・・という文がさらに続くのだが。
この小説にチャレンジしてみてはいかがでしょう、としか私には言いようがない。
ご一読ありがとうございます。