来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
日本史の始まり②(平和を維持するためには女王が一番)
既述したように、私たち「日本人」の祖先は、旧いところでは4万年前後前から3万年以上の時間をかけて大陸から流れ込んできた。この詳細な分析を、人類学者の皆さんが精密に行っている。
朝鮮半島から西日本へ、またオホーツク方面から北海道へ(例えばアイヌ民族とされる人たち)などがルーツになるのだろう。そして今から2500年前後以前から、まず北九州方面から米づくりをはじめだした。この「文化」が北上するにつれて、各地に「◎○の乱」が行われ出す。歴史に残るこれは「倭国大乱」の既述(中国の史書「魏志倭人伝」)が典型的だ。九州地方だろうといわれるが、2世紀にこういう既述がなされる大きないくさが行われた。
この大乱を経て、当時のあちこちのボス連中が、「いくさはしない方がいいだろう。その平和を維持するためには、ボスは男でなく女のほうがいいのでは」という知恵の結集で女王を生み出した。
この結果登場したその国「邪馬台国」の王は「卑弥呼」だった。彼女は「鬼道の使い手」、早い話マジシャンだった。そういう特殊才能をもっていたから、王に推戴されたのだろう。
彼女は中国の親分(当時は「魏」という国)に使者を派遣した。魏の王は卑弥呼を一大評価して「親魏倭王」(魏に臣従する倭の女王)という地位を保障した(238年)。倭王(日本の王)は魏の家臣だゾ、という体制を東アジアで再確認(これまでも北九州の親分たちは皆中国に使者を派遣していた)した。
この卑弥呼が死んだ(西暦250年前後)。生涯独身だったという。それで男が邪馬台国の王になったが、またいくさが広がった。「やっぱり男が王なら戦争だ。だから女が一番だ」という女性ファースト論が再確認され、卑弥呼と血のつながりのある女性が次の邪馬台国の王になった。平和な倭国が再現された。この二人目の女王の名前ははっきりしない。
話はこれで終わりだが、この邪馬台国というのが日本のどこにあったか、まだ決着がついていない。奈良地方(大和)か北九州だったか、で意見が闘わされている。
朝鮮半島から西日本へ、またオホーツク方面から北海道へ(例えばアイヌ民族とされる人たち)などがルーツになるのだろう。そして今から2500年前後以前から、まず北九州方面から米づくりをはじめだした。この「文化」が北上するにつれて、各地に「◎○の乱」が行われ出す。歴史に残るこれは「倭国大乱」の既述(中国の史書「魏志倭人伝」)が典型的だ。九州地方だろうといわれるが、2世紀にこういう既述がなされる大きないくさが行われた。
この大乱を経て、当時のあちこちのボス連中が、「いくさはしない方がいいだろう。その平和を維持するためには、ボスは男でなく女のほうがいいのでは」という知恵の結集で女王を生み出した。
この結果登場したその国「邪馬台国」の王は「卑弥呼」だった。彼女は「鬼道の使い手」、早い話マジシャンだった。そういう特殊才能をもっていたから、王に推戴されたのだろう。
彼女は中国の親分(当時は「魏」という国)に使者を派遣した。魏の王は卑弥呼を一大評価して「親魏倭王」(魏に臣従する倭の女王)という地位を保障した(238年)。倭王(日本の王)は魏の家臣だゾ、という体制を東アジアで再確認(これまでも北九州の親分たちは皆中国に使者を派遣していた)した。
この卑弥呼が死んだ(西暦250年前後)。生涯独身だったという。それで男が邪馬台国の王になったが、またいくさが広がった。「やっぱり男が王なら戦争だ。だから女が一番だ」という女性ファースト論が再確認され、卑弥呼と血のつながりのある女性が次の邪馬台国の王になった。平和な倭国が再現された。この二人目の女王の名前ははっきりしない。
話はこれで終わりだが、この邪馬台国というのが日本のどこにあったか、まだ決着がついていない。奈良地方(大和)か北九州だったか、で意見が闘わされている。
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