来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
この数十年間の変わりかた
私も和寒本校での授業が年に数回ある。そのたびに痛感する。たかだか70余年間の世の中の変わりかたを。
私は大学卒業までは戸籍では和寒の住人だったが、高卒からほとんど札幌暮らしだった。だから和寒での暮らしは、16年間だったが、この小中高時代、小学校まで約2キロ(昔は半里、はんみちと言った)、中学校までは約3キロ、そして高校は駅まで歩き、士別まで当時でいう国鉄に30分近く乗り、そこから1キロ以上歩いて高校に通った。だから片道は徒歩5キロはあった。今ならスクールバスで学校まで運んでもらうが、当時は雪が降っても嵐があっても歩きだった。それでも私は小中時代はほとんど欠席しなかったし、高校は3年の2学期まではほとんど皆勤だった(高校の3学期は受験勉強をするために登校拒否をしたが)、今思えば本当によく通えたものだ、と。
だからいつかも記したが、歩くことは全く苦にならない。むしろそれは趣味の範囲にはいる。(この2年間は体調が許さないことで数千歩の歩きだが)。
今書いていることはこの歩きのことではなく、和寒という小さい町での変わりかたの大きさについてである。
私の和寒時代には馬が、今のクルマの役割を果たしていた。雪のあるときは馬そり、ないときは馬車、そして農耕で重要な役割を果たしていたことはいうまでもない。各家には2,3頭はいたのではないだろうか。冬、私たち子どもが馬の運動のためにその背にのって、2、3キロを走らせた。馬は、子どもだと思ってバカにしてわざとに妙な動きをして私など何度か振り落とされることがあった。雪の上だからケガをするということはない。そして馬も背の子どもをおいて走り去ることなどしなかった。
田んぼの畦(あぜ)の草刈りも子どもの仕事だった。鎌で手を切ったりは日常だった。そして秋は落ち穂拾い。
その他四季折々の農作業の手伝いなど。
大人の、農作業はこれまたタイヘンだった。
この数十年間での大きな変化を思い起こしながら、その昔親子代々、先祖代々、農作業もほとんど変わることのないものだったろう。一つ一つの細かい作業は先祖代々受け継がれてきた。人間関係もまた緊密な人情(逆の面、例えば村八分)があった。
これからどういう世の中の動きになるのだろう。この変わりようは、人間の幸福の増進になっていくのか、逆なのか、いろいろ気になったいることのひとつだが。
私は大学卒業までは戸籍では和寒の住人だったが、高卒からほとんど札幌暮らしだった。だから和寒での暮らしは、16年間だったが、この小中高時代、小学校まで約2キロ(昔は半里、はんみちと言った)、中学校までは約3キロ、そして高校は駅まで歩き、士別まで当時でいう国鉄に30分近く乗り、そこから1キロ以上歩いて高校に通った。だから片道は徒歩5キロはあった。今ならスクールバスで学校まで運んでもらうが、当時は雪が降っても嵐があっても歩きだった。それでも私は小中時代はほとんど欠席しなかったし、高校は3年の2学期まではほとんど皆勤だった(高校の3学期は受験勉強をするために登校拒否をしたが)、今思えば本当によく通えたものだ、と。
だからいつかも記したが、歩くことは全く苦にならない。むしろそれは趣味の範囲にはいる。(この2年間は体調が許さないことで数千歩の歩きだが)。
今書いていることはこの歩きのことではなく、和寒という小さい町での変わりかたの大きさについてである。
私の和寒時代には馬が、今のクルマの役割を果たしていた。雪のあるときは馬そり、ないときは馬車、そして農耕で重要な役割を果たしていたことはいうまでもない。各家には2,3頭はいたのではないだろうか。冬、私たち子どもが馬の運動のためにその背にのって、2、3キロを走らせた。馬は、子どもだと思ってバカにしてわざとに妙な動きをして私など何度か振り落とされることがあった。雪の上だからケガをするということはない。そして馬も背の子どもをおいて走り去ることなどしなかった。
田んぼの畦(あぜ)の草刈りも子どもの仕事だった。鎌で手を切ったりは日常だった。そして秋は落ち穂拾い。
その他四季折々の農作業の手伝いなど。
大人の、農作業はこれまたタイヘンだった。
この数十年間での大きな変化を思い起こしながら、その昔親子代々、先祖代々、農作業もほとんど変わることのないものだったろう。一つ一つの細かい作業は先祖代々受け継がれてきた。人間関係もまた緊密な人情(逆の面、例えば村八分)があった。
これからどういう世の中の動きになるのだろう。この変わりようは、人間の幸福の増進になっていくのか、逆なのか、いろいろ気になったいることのひとつだが。
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