葬式、法事

今年になってヤケに葬式がある。だいたい月1の割合だ。ほとんどが自分よりも年長だから「人生こんなところだろう」と思える。
葬式にはいうまでもなく、宗教色が濃く表れる。私は「伝統的な」仏教系になじみを感じる。坊さんのワケのわからないお経と説教が大体30分、その間に焼香があり、その後故人の紹介や親族への激励を意味する挨拶など、どんなにかかっても60分以内におさまる。そして、それ以降は「近親者」による夜を通した故人への「思い出と偲ぶ会」が続く。この微妙なタイミングをもつお通夜が長年の経験の集約されて行われる伝統になった。キリスト教や神道も読経焼香に代わるものがあるが流れはそれほど違わないのではないか。

最近無宗教の葬儀(通夜を含めて)の機会が多くなった。たしかに僧侶への心付けとか戒名とかの費用がないから経費節減になるのだろう。
経費でいえば、私の母の葬儀の場合、坊さんへのお布施とか戒名の費用が悩みだった。「おいくら支払えばよろしいのでしょう」と聞くと「お気持ちでけっこうです」と強く答えてくれる。だからといって1,000円とか2,000円というわけにはいかないので仕方がなく葬儀屋さんにきいてまあ「相場」に近い額を支払った。無宗教はこういう配慮が不要なのだろう。
「偲ぶ会」形式で、いろいろな方がたが故人への思い出を語ってくれる。だから全く故人と関係がない自分でも「この方はこういう人生を過ごされたのだ」とあらためて感銘を抱かせられる。ただ、「一般会葬者」の立場からいえば(遺族への弔意と激励のために参加した立場からいえば)、やはり50~60分で終わってほしい。偲ぶ気持ちをもつ方がたはそれこそ夜を通して語り合うことが一番いいのではないだろうか。故人と無関係の者も「偲ぶ会」につきあわせるなら、故人の遺影は「無理するなよ」といっているように見える。

何周忌とか何回忌がある。私は母が元気だったころ、昭和17年に死んだ父親の33回をやったことがあった。戦争で死んだ父のことなど参加した人は(母を除いて)誰も記憶にない。法事というのは亡き人を偲ぶ機会をつくることによって生きている私たちが相互に健在を確認しあい、これからの交流を約束しながら共に元気に過ごそうではないか、という約束の行事だと思う。そういう理解でいえば、3年とか7年とか13年とかの区切りは塩梅がいいと、ますます思うのである。
江戸時代、死者からなんども「お布施」を集めようという趣旨で始めたのが「何回忌」という法事だったと読んだことがある。それにしても日本人の一つの知恵といえるのではないだろうか。こういうことを人生の区切りで忘れないで取り組むことができれば、今問題になっている行方不明高齢者のケースもないのではないか。
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