来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
「心を商品化する社会」2
先日紹介した同書があげている喩えを引用しよう。これは臨床心理学者の文章とのこと。
「教室をたくさんの鯉が泳いでいる池にたとえるとしよう。私のようなカウンセラーの仕事は、たくさんの鯉のなかで少し元気のない鯉、餌を食べなくなった鯉、仲間たちにつつかれて弱っている鯉などを見つけたとき、それをそっと水槽に移し、丁寧に対応することで元気を回復させ、ふたたび池に戻れるよう支援するものである。それに対して、教師の仕事は、池全体を管理し、すべての鯉がつつがなく成長するように導くものである。どちらも、決して楽ではなく大変なエネルギーの要る仕事であるが、大変さの『質』が違うのではないか思うのである。……」(同書P19)。
著者の小沢牧子さんは、この喩えについて、「ここで大事な問題が、ともすれば抜け落ちる。それは、もしや池の水に問題があるかもしれないという生活状況的な側面を、誰が気にするのかということである」と。
上の喩えを広げて考えると、また次のようなことも指摘できる。
不登校問題の解決の基本を「学校復帰」におくと言うことは、池で元気を失った鯉が元気を取りもどしてもとの所に帰るようにすることなのだが、そもそも元気を失った原因が池そのものにあることを重視しなければなるまい。池(学校・教室)から違う水槽(例えばフリースクール)に移った鯉(子ども)がそこで元気を取りもどしたなら、元の水槽ではなく、新しい水槽を保障することに問題解決の基本視点があるのではないか。
今あるひとときの困難を克服しきれないでこれからを生きる力はつくれない、という言い古された理屈がある。いわゆる大人の理屈だ。先の例でいえば、元気になった鯉を元に戻して「今度はちょっとのことではへこたれるな」と𠮟咤激励すること、その激励に応えることのできる鯉(子ども)に育てることだ、というのである。
このやり方は鯉に対しては徒労である。いうまでもない。子どもだって同じだろう。
しかし現実の学校現場はこの「徒労」を繰り返しているのではないか。不登校の多くの子どもにとっては、徒労どころか「生け贄」にさせられているといいたいのではないか、とすら思う。
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