三浦綾子作 「銃口」3(戦後、竜太先生は教壇にもどる)

 1941年8月に、竜太は仮釈放された。そしてこの年の12月8日、日本は米英に対する宣戦。真珠湾攻撃。日本中大興奮という状況下で、竜太は結婚を約束する。そして小学校(当時は「国民学校」だったが)の先生だった彼も42年2月に招集された。(当時小学校の教師は招集猶予されるケースがあったが)。恋人だった芳子は北見の伯母の葬儀のために留守。大吹雪で帰って来れない。「ぼくと君の間は清かった。それがせめてもの君への贈り物だ。ふさわしい人がいたら自分を考えず結婚してください」と手紙を出した。 

 旭川第7師団に入隊した北森二等兵。入隊3か月が過ぎて一等兵に昇格した。そして12日かかって「満州」東部の安陽という地へ。当時の兵隊の根本理念は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。幸運にも満州の地では直接戦火を交えることがなかった。そして1945年「敗戦」。

 満州へソ連軍が進撃してくる。上官であった山田曹長と逃避行。そして日本の敗残兵を追っていた朝鮮の抗日義勇軍に見つかり、処刑される立場におかれた。しかし全く幸運なことにこの義勇軍の隊長は、かつて竜太が、旭川の中学生だったとき、拉致されてきた朝鮮人でタコとよばれて強制労働に従事させられ、そこを逃亡して竜太のウチにかくまわれて助かった朝鮮人の男(金俊明)だった。
 彼が、まわりの兵隊たちを必死になって説得してくれたおかげで竜太は命を救われ日本への帰国の道が開かれた。

 8月末にようやく旭川に帰ることができ、10月に教会で芳子と結婚式をあげることができた。
 
 竜太は教師復職の勧告もあったが、固辞するのだった。「自分には教師の仕事をするのに適性がないのでは」という理由だった。それは、満州から帰国する途中下関駅で、同行の山田曹長と握り飯を食べ合っていたとき、二人の男の子がそれを欲しいと言ったとき、山田は直ちに一つを与えたが、竜太はためらった。「妹にもあげたい」という孤児に対して、竜太は「本当か?」と疑いの心をもった。そのことを思い出して「自分は教師としてふさわしくないのでは、と思ったのだ。

 満州でともに逃避行を行った山田曹長から手紙が来る。故郷の広島は跡形も無くなっていたが、死んだと思っていた母は幸い生きていたと。

 そして竜太は自分の母校だった小学校にもどることができた。6年生の担任。教壇に立った竜太は思い出す。昭和16年1月9日の夜、幌内小学校の校庭で、この町の巡査部長に呼び止められて留置場に入れられたことを。教壇に立った竜太は子どもたちに、これを含めて、「回り道」をテーマとした話しをするのだった。

 1989年2月24日、昭和天皇の大葬の日、昭和が終わった日。71歳になった竜太は、東京、50歳を超えた卒業生たちに囲まれてしみじみと思う(このシリーズNO1に記しているが)。
「本当に終わったと言えるのかなあ。いろんなことが尾をひいているようでねぇ…」。

※ 作者三浦綾子さんがこの小説の中で、竜太の口を借りて言っている「昭和は本当に終わったといえるのだろうか。今もまだ昭和の尾が続いているのではないのだろうか」は、私などの思いでもある。
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