千姫(徳川家康の孫娘)の人生など(澤田ふじ子「千姫絵姿」から)…1

また少しの昔話。子どものころ、私が暮らしていた田舎の祖父母のウチは、いつか記したことがあるが、昔の雑誌「日の出」とか「家の光」などとともに、蓄音機などもあった。これにレコードを乗せて回転させると歌などが聞こえる。その後このレコードをSP盤と言った。戦後この他にLP盤とかドーナツ盤などもできたが。

当時の流行歌、東海林太郎とか藤山一郎などのレコードがあったが、同時に当時のじいちゃんたちが好んでいたのは浪花節(なにわぶし)だった。(今これを演じる人はいるのだろうか)。この第一人者が寿々木米若(すずきよねわか)だった。この人の「佐渡情話」とか「吉田御殿」などが有名だったが、私のウチにこの「吉田御殿」のSPレコードがあり、私も何度か聞いたことがあった。

前置きはそこまでだが、この吉田御殿の主人公は女性の千姫(せんひめ)
この人は徳川家康の孫娘だったが、いわば政略結婚で豊臣秀吉の息子の秀頼の妻になった。1603年のこと。千姫は7歳、秀頼は11歳だった。
彼女の祖母は、今の世ならいわばミス日本といわれるだろうお市。母はお市の娘のお江(ごう)。そしてお江の夫は徳川2代将軍の秀忠だ。

この千姫を主人公にした小説「千姫絵姿」(澤田ふじ子作。文庫本500ページ)を読んだ。これについてのメモだ。

当初は「夫婦」といってもお互い子ども。ほとんど会うこともなかったようだ。5年経った。12歳と16歳。秀頼にはこのころすでに女がいたようだが、千姫とは食事を共にする程度の関係だった。

この秀頼も秀吉の息子とはいうものの「大野治長めにまことによく似ておられた」と評されていたらしい。秀頼が生まれる前の年のころ秀吉は57歳で体調すこぶる悪く、妻である淀君に妊娠させるほどの「体力」はなかったとされる。そして当時秀吉には10人以上の側室がいて淀君だけが妊娠するというのはいぶかしいといううわさもあったらしい。

秀頼との夫婦仲も冷たかったらしい。そして例の方広寺の大仏問題。1614年に大仏殿の梵鐘が完成した。ところがこの鐘に彫られていた銘文(当時の学識のある僧侶が考案したというが)に、家康は大いなるいちゃもんをつけることになる。もともと家康は、豊臣は秀吉なきあとは消滅さるべき勢力として考えていた。この梵鐘には「国家安康、君臣豊楽、子孫殷昌」の文字を含んで刻まれていた。これを見た家康は「わしの名を二つに切り裂いて呪詛し、豊臣を臣として子孫が繁栄を楽しむ、と読めるではないか」と。

この処理に豊臣側はおたおたしているうちに戦乱が起こる。大坂冬の陣(1614年)、そして翌年「夏の陣」
で豊臣側は滅亡する。秀頼の妻だった千姫は崩れ落ちる大阪城から、坂崎出羽守の活躍で救い出された。

そのとき秀頼には正妻の千姫でない女性との間に二人の子どもがいた、男の子(国松)は市中引き回しの上、上六條河原で細い首をはねられた。もう一人の女の子は後に尼寺である東慶寺(縁切り寺と言われた)の住職になったという。

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