三浦綾子作 「銃口」2(昭和10年代。日中戦争から太平洋戦争へ。学校現場へも戦争の足音が)

 新米の小学校教師北森竜太は21歳。旭川の近くの炭鉱の町の幌志内小学校に勤務。この町には浴場はあるが銭湯がない。初給料は55円。

 おりから日中戦争が始まっている(1937年)。学校教育は軍国主義の傾向をどんどん強めていった。 
例えば、子どもの、教師たちに対する礼は身体45度の角度をもつこと、校舎の前に天皇、皇后などのご真影(写真)を納めておく小さい堂である「奉安殿」への拝礼と宮城(皇居)に向かって行う「遙拝」は共に90度の礼、などが決められた。

(かすかに思い出します。私も小学校に入ったとき奉安殿というのが校門の近くにあって、登下校の際そこに向かって最敬礼をしたことを)。

 竜太は子どもたちと日常の暮らしを綴り方(つづりかた。今でいう作文)の時間を使って書かせる。教頭は綴り方の時間をつぶしてウサギ小屋を埋めるという扱いをする。これに竜太は反発するが、綴り方教育がだんだん「異端視」されてきた。竜太は「教師は鳥だ、辞令一本でとばされる」という『忠告』を受けたりする。

 どんどん学校は軍国化していく。そして竜太が属している「綴り方連盟」はアカだ、とまで言われるようになってきた。1941年春に竜太は単級学校に配置転換された。そしてこの年、竜太は治安維持法違反で逮捕された。「生活綴り方連盟は共産主義とかかわりがある」という名目だった。この年、キリスト教徒の先生方も含めて道内で60名を超える先生方が逮捕された。
※ この生活綴り方連盟事件で逮捕された人たちを弁護したのは、戦後札幌市長になる高田富輿だった。

 警察での生活の状態。歯磨き、ひげそりなし。便器も同じ部屋。異臭。弁当は四角い木製の弁当箱。麦3割のめし。漬物、実のない味噌汁(冷たく塩辛い)。部屋の中で動くことも許されない。体操もできない。拷問状態。
 
 そして退職願を書け、と迫られ「非国民!」と罵倒される。  
 竜太は「ただ一度、芳子(のちの妻になる人)とともに綴り方連盟の小さな集まりに顔を出しただけではないか!」と抗議するが、罪人あつかい。

 警察署の中で10分間だけの時間だったが、竜太の先輩にあたる坂部先生(やはり逮捕されていたが)と話すことができた。
 この短い時間に坂部先生は「しかしな竜太、どんなときにも絶望しちゃいけない。… 私たちの生まれた日本の国は信頼できるはずなのだ。まさか無実の者を有罪とするわけはない。…竜太、絶望してもいい。しかし必ず光りだけは見失うな」。「裁判長は必ず公正な裁判をしてくれる!」と。その坂部先生は留置場の中で死んだ。
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