「出会いの機微」を思う

私などもときどきこれまでの人生の中で数え切れない「出会い」があった。「人生とは自分以外の人との多様な出会いの積み上げ」だと言ってもいいのではと思っている。
このことを初めて知ったのは、若いころ鎌倉時代の高僧親鸞に惹かれ、彼に関連する書物などを読んだことがあった。その中で、今でも記憶にあるのは、親鸞がその著「教行信証」の序文の中で言っている次の言葉だ。

「遇(あ)いがたくして 今(いま) 遇(あ)うことを得(え)たり」
 
 それはもちろん彼の師法然との出会いを念頭に置いての言葉だったろう。法然との出会いが、親鸞のその後の宗教人生に決定的な影響を与えた。その感慨を自らの語で示している。
ここには、決定的な出遇いを果たし遂げることができたという、親鸞の喜びがつづられている。親鸞は29歳の時に法然に出遇い、念仏の教えを聞く。そして、その教えを真(まこと)のよりどころとして生涯を生きぬいた。

似たようなことをかつて書いたようにも思うのだが…?
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