日教組の教育研究大会での委員長挨拶

標記大会が1月26日~28日に、佐賀県で開催され、全国から、のべ1万人が参加した。その約3000人が参加した全体集会では、加藤良輔委員長があいさつた。

日教組のホームページにある委員長挨拶をそのまま載せる。
 
「この一年、私たちは2人の少年の『死』という事実に直面しました。『いじめ』『体罰』が要因とされる『自死』です。教研集会開催にあたり、教育実践を語るときこの問題から眼をそらすことはできません。今回の2つの報道に触れたとき、私は自らを振り返り、私自身が自らの教員生活のなかで、『いじめ』の本質を見極めることができたのか、苦しむ子どもたちを救うことができたのか、子どもたちに決して手を上げることはなかったのか・・・。そう問い直したとき、それを否定できない自分がいるのです。自らの指導力のなさのなせる業でした。学年や学校全体で、多くの教職員の眼で子どもたちを見守ることができない、自分たちの実践力の弱さ故のことでした。子どもたちが本音でぶつかり合う学校だからこそ、子どもたちの間でトラブルが起こります。仲間はずれやそこから発展して『いじめ』、最終的には暴行や恐喝というような行為に及ぶことも現実に起こってしまいました。問題は、なぜそこにいくまでに周囲の大人、学校や家庭が連携して対処できなかったのかということです。早い段階で子どもたち自身に問題を気づかせ、克服していく道筋をつくれなかったのか。他人の心の痛みを感じ取る、そんな子どもたちに育んでいく教育の営みが、未だ私たちのとりくみでは不十分だといわざるを得ないのではないかと思います。他人の痛みがわかる子に育てるということは、私たち自身が子どもの心の痛みを感じ取るだけの感性と心の豊かさ、寄り添い続ける気持ちと余裕を持っているかどうかが関わります。その思いと条件があれば、『体罰』や『言葉の暴力』の刃を子どもに向けるという行為が起こるはずもありません。『いじめ』を見逃さない教育のあり方と『体罰』を許さない教育のあり方は、ここでつながるのだと思います」。

もう少し教師自身の問題として主体的に意識してほしいという感じがした。「自分の問題」として語るといっていながら、そういう心が伝わらない。もし自分がこの立場で語るならどういう言葉でいうだろうか、と考えさせられている。なぜ「体罰」や「言葉の暴力」がまだ続いているのか、その現場に責任をもつ教師の態度・力量などに痛切に思いを寄せて語るだろう、と思ったのだが…。

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