長岡藩には「峠・最後のサムライ」の他に「米百俵」の理念もあった

昨日、「峠・最後のサムライ」を書いたが、これを書き終えて、「そういえばこの話の他に『米百俵』のエピソードもあったナ」と思い出した。この「米百俵」も非常に教訓的な話。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用だが、紹介しよう。

 河井継之助が率いた北越戦争(戊辰戦争の一つ)で敗れた長岡藩は、7万4000石から2万4000石に減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。
 藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
と諭し、自らの政策を押しきった。

 この米百俵の売却金によって開校したのが「国漢学校」であり、洋学局と医学局が設置された。この学校は士族によって建てられた学校であるが、一定の学力に達した庶民の入学も許可された。国漢学校は、現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校の前身となった。なお長岡藩江戸上屋敷にも国漢学校があり、長崎に医術の修行のため内地留学も出していた。

昔というほどでもないが、以前米の量を量る単位は、一俵だった。重さで60キロ(15貫)。これを持ち上げることができれば「いちにんまえ」とされた。二俵半を一石(いっこく)とした。

一回に喰う米が一合、一日は三合、一年間の量は約1000合だ。これを一石とした。江戸期の日本の米の生産量はおおよそ三千万石。江戸期の人口が三千万人を越えていないのは米の生産量と関連している。
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