「時間を守る」こと、「先生」という呼び方

最近あった会議で気になったことをふたつ。ひとつは、発言の時間を守ること、あるいは守らせること、についてである。昨日の札幌市教委の会議で当初発言を予定されていたのは私を含めて二人。所要時間は15分から20分。これを気にして私は時計をにらみながら17分で発言を終えた。
今一人の人は「発言はとまりませんので」と断りながら25分を超えたので、私が(僭越ながら)「もう時間ですよ」というヤジを入れさせてもらった。司会が本来は言うべきだとは思ったのだが。全体の時間は2時間であり、2人の発言に続いて討論が必要だったから、一人15~20分は当然であったと思う。ヤジ終えて少々心苦しい思いもしたし「オレも大人げない」と心中ザンゲしたが。

11月23日に行われた「不登校等の高校説明会」で、参加学校1つの発言は4分であったが、これを無視して延々と発言する学校がいくつかあった。
当たり前のことができない「教師」がいることが嘆かわしい。子ども・生徒に対して「時間は守りましょう」というのに、自分は別という顔をする非常識な人が少なくない。

もう一つ、ウチの学校の職員会議で非常勤のある人が生徒も「○○先生」という呼び方をしない意味を質問してくれた。私は「学校から『先生』と生徒という『身分関係』をなくしたい。これが『○○先生』といわなくてもいいという意味です」という趣旨の説明をした。
昨日の市教委の会議では、私のようなフリースクールの立場の者、PTAの関係者、役所の人、校長会の会長、など多様な層の代表があつまった。司会が、ある人を「◎◎先生」と呼び、別の人を「△△さん」という言って敬称を区別する。私は「先生」と呼ばれたり「さん」づけで呼ばれたり一様ではない。

いっそみんな「さん」で統一したらいいのではないか、あるいは全員「先生」づけで呼ぶということもあるだろう。どちらにしても、ある会議の平等な構成員に、さんグループと先生グループが併存することは少々不自然ではないだろうか。
今度、「ここではどういう人に対しても『さん』づけで呼びましょう」と提案してみようか。これも大人げないか。

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