かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

今日は川西市内の石道温泉に行っていました

2019-02-04 17:44:51 | ブログ記事

川西市内と言っても、我が家からはバスで行かなければなりませんでした。

夫とは何度か車で来ましたが、バスで来るのは初めてでした。

なぜ、わざわざバスで来たかというと、

昨日温泉に行こうと調べていると、
川西市内の石道温泉が食事つきで990円というクーポンがあることを知ったからです。

それですぐに購入したのはよかったのですが、
昨日は雨が降っていたこともあって、行く気にはなれませんでした。

今日は雨が上がったし、クーポンを買ったまま使用期限が過ぎるともったいないので、
思い切って行くことにしたのです。

お昼前に到着すると、すでに何人かの人が入浴中でした。

が、その人たちが上がると、あとは貸し切り状態になりました。

ご参考のために写真を写してきました。

「石道口」というバス停から徒歩3分ということでしたが、
バスで来たのは初めてだったので、少し迷いました。


まず入浴することにしました。

上にも書いたように、お昼前だったから、午前中に来た人たちが上がると貸し切り状態でした。

下の写真は温泉から出てから休憩する部屋から撮影したものです。

建物の中に湯舟が4つくらいあって、サウナ室もあり、外に出ると露天風呂もありました。

私は露天風呂にゆっくり入ってから、建物の中の湯舟も全部はいりました。

サウナは、私は暑がりなので、ちょっと入っただけです。

露天風呂は熱からず温からずで、ちょうどよい湯加減でした。

有馬温泉と同じ泉質ということらしいですが、金泉ですね。

どろっとしていて効能のありそうなお湯でした。

私は長時間浸かると逆上せやすいほうなので、冬でも露天風呂が好みです。


温泉を出てから、3階にある、食堂というかレストランに行きました。

写真ではよくわからないと思いますが、

写真の右手の道路は、新名神に入るために新しく作られた道路です。

左側の道路は、川西能勢口駅からくるバスの走っている道路です。

レストランでは、
ホテルのフロントで希望した天丼の食券を受け取っていましたから、それを渡すだけでした。

運ばれてきました。


特においしいというほどではありませんでしたが、
990円で温泉に入って、昼食が食べられるのは破格だと思います。

通常は、温泉入浴だけで1000円です。

食べていると、
前の席に座っていた男性が振り向いて話しかけてきたので、
「私は耳が悪くて聞こえません」と言いました。

知らない人とあまり話したくない気持ちもありましたし・・・。

すると、その人は手話を始めたのです。

顔を見ると、別に感じの悪そうな人でもなかったので、
私は、「私は手話を覚えなければならないくらい聞こえないのですが、手話はできません」
と言ってから補聴器をつけました。
(お風呂上りだったから、補聴器はつけていなかったのです)

すると、その男性は、お盆ごと私のテーブルに運んできて、同じテーブルで食べ始めました。

年齢を聞くと昭和23年生まれだと言われます。

「あら、私も」ということになって、だんだん打ち解けて話ができるようになりました。

「神戸から来ました」と言われます。

やはり私と同じようにクーポンを見つけて来られたようでした。

話していると、お家は私の次男のお嫁さんの実家の近くらしいことがわかりました。

すると、その方の娘さんも薬剤師だと言われます。

あらあらということなり、なおも話していますと、子供さんは5人いて、
男の子が3人、女の子が2人だということもわかりました。

「まあ、そんなにたくさんの子供さんを育てるのは大変でしたね」と言うと、

「実は、あそこあたりに土地と貸家をたくさん持っています」と。

「だから経済的には全然苦労はありませんでした」と言われます。

私は内心、「あら、じゃなぜ、こんな安いクーポンを使って温泉に来られるのかしら」と
思いましたが、言いませんでした。

私ですら、こんな安い料金で温泉と食事までいただけることが恐縮でしたのに・・・。

その方は、あちこちの温泉に行かれているようで、
川西市の隣の池田市の伏尾温泉は入浴料が1500円ということなどもご存知でした。

そして、神戸市のジェームス山の温泉は安いから、
「今度息子さんのところから行かれたら?」と。

その後、私がいまだにスマホに馴れていないことを言うと、
使い方をいろいろ指南してくれました。

食事が終わってからも、1時間くらい話したと思います。

が、急に何か用事を思い出したかのように、帰られました。

誰かと約束でもしていて、それまでの時間つぶしに私の話し相手をしたのでしょうか?

変な人ではありませんでしたが、急にそそくさと帰られたのは変でした。

が、私は、一昨日から誰とも話をしていなかったので、少し楽しませていただけたかな?

同性のほうが安心して話せるけれど、
異性のほうが話題が広がるかもしれないと思いました。

*

★温泉で話しかけこし人のゐて聞こえぬと言へば手話はじめたり

★聞こえぬが手話もできぬと伝へればわがテーブルにお盆ごと来し

★異性とは親しくしたくなきわれに親しく話しかけくる異性

★この歳になりて異性も同性もなきがいまだに異性に馴れず

★中高は女子のみなれば卒業をしてもいまだに異性が苦手

★人見知りするわたくしは同性も異性も苦手ひとりでゐたい

★難聴であることわれを臆病にして初対面は特に苦手で

*
追記

1月に三重県の「なばなの里」のイルミネーションを見に行ったことを話すと、
川西市の日生中央駅のイルミネーションがきれいなこととか、
三田市のなんとか(聞き取れなかった)のイルミネーションがきれいだということを
ご自分のスマホの写真を見せながら教えてくれました。

ということで、たまには知らない人と話すことも情報が得られていいかもと思いました。

「自死も老後の選択肢のひとつ」2月1日産経新聞より

2019-02-04 03:27:27 | ブログ記事
という見出しのついた記事が2月1日金曜日の産経新聞にあったから、

「これは読まなければ」と思いながら、読めないまま、枕元においてあった。

それを昨夜読んだ。

書いているのは産経新聞文化部の桑原聡という人だが、

この記事の元となっているのは、早稲田大学の学生、大瀧真生子さん(21歳)の弁論である。

大瀧真生子さんは、「私の百歳時代のプロジェクト」をテーマにした今年の土光杯弁論大会で、
産経新聞社杯を受けた大学生であるらしい。

彼女は、こう述べたらしい。

≪認知症によって自らの意思伝達手段を失った状態になってまで生き続けたいとは思いません。また寿命が延びるといっても、経済的に困窮し余裕のない人生の最期は望んでいません≫

さらに、

≪私は自分らしく生き、自分らしく人生の幕引きを図るという点で、安楽死という制度が、これからの日本にとって必要な選択肢だと考えます≫

と。

それに対して桑原聡氏は、

「私とて、『自死』という選択肢に踏み切ることができず、ベッドに縛り付けられ、痛みに苦しみながら死を待つだけの状態になってしまったら安楽死を望むだろう。その点では、安楽死を権利として認めることには賛成だ。ただ、認知症になった場合はやっかいだ。理性的判断ができる事情鯛の時に、家族あてに『そうなったときには安楽死を望む』と一筆書きおいていたとしても、その最終判断は家族が下すことになる。そんなやっかいなことはとてもじゃないがお願いできない。頼めるのは、せいぜい『延命治療は不要』ということぐらいだ。」

と書かれているが、私もそう思う。

が、桑原聡氏の言い分は、この後も続く。

大瀧さんの

≪私たちの世代は、施設に入るお金すらもらえるかわからない≫

という言い分に対して、

「年金制度は廃止すべきだと私は考えている。もちろん即座にできることではない。30年先にソフトランディングできるよう知恵を絞ってゆくのだ。老後は国に頼らず、自力で生きる。それが無理なら自分の子供に面倒を見てもらえばよい。一人で親を支えるのは重荷だろうから最低2人、できれば3人の子供を育てておきたい。肝心なのは子育てをしながら、老いた親を子供が扶養するのは当たり前という空気を醸成してゆくことだ。同時にこれから建てる家は2世帯が暮らせる間取りを基本とする」

と書かれている。

私は、これも桑原氏の言い分に賛同する。

私たちの親の世代は、それが当たり前であった。

私たちの世代でも、そうしてきた人たちが多かった。

核家族が当たり前になった現在、それを元に戻すのだ。

年取って、子の世話にならなければならなくなった世代の私が言うと説得力に欠けるが、

しかし、2世代、3世帯同居は、理に適っていると、

自分の現在おかれている立場から離れても、そう思う。

なぜなら、
食事も、2人分つくるより、4、5人分を作るほうが一人当たりの食費は断然経済的である。

それから、3世代同居だと、親と子が助け合って暮らせる。

すなわち

子供が、その子供たちを育てる時期は、親である祖父母が助けてやれるし、

親が年老いて自分の身の回りのことをするのも覚束なくなってきたら、

今度は、子供世代、あるいは孫世代が、その老親の面倒を、自然に看ることができる。

理想的だと思うのである。

私のように難聴で玄関のインターホンも聞き取りがたい老人でも、
若い人が一緒に暮らしてくれれば難なく解決する。

が、問題は、やはり嫁姑の問題であろう。

私は、同居ではなかったが、それでも、たびたび来てくれる姑には苦労させられた。

これが同居だと、お嫁さんのほうが息抜きもできないかもしれない。

また、私のように、それほど掃除に力を注がない姑さんには、
きれい好きのお嫁さんに不満が溜まるということも考えられる。

逆もあるだろう。

実の親子でも、一緒にいると、互いのアラが見えてくるのだから、
これが違う環境で育った者同士だったら。

そんな問題はありながらも、
これからの時代を考えたら桑原氏の言い分は、もっともだと思わせられる。


*

★三世代同居でありしころ祖母は母は苦労してきたしかし

★同居してよきことありても掻き消さる嫁側不満の大きくあれば

★三世代同居は理想かもしれぬ嫁姑の問題なくば

*

以上、
タイトルにした「自死も老後の選択肢のひとつ」からは論点がずれてしまったが、

これからますます高齢化していく自分たちの世代の生き方としての選択肢として、

私は、安楽死も視野に入れてもいいと思うし、

これからの高齢化社会を考える上で、桑原氏の言われる「2世代、3世代同居」も
視野に入れたらと思う。

自分が老人世代になってしまったから、我田引水に受け取られそうな恐れはあるが、
考え方としては理に適っていると思うのだ。