かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

今日はたった一人の兄弟であった兄の6回目の命日

2019-09-12 07:23:56 | ブログ記事

兄は平成13年の9月12日に亡くなった。

その日は、高校時代のブラスバンド部のOB会で、

兄はサキソフォンを吹いて帰宅してシャワーを浴びて、

そのまま「うっ」と言って倒れて昇天したらしい。

もうすぐ68歳になる直前の67歳であった。

すぐに救急車を呼んで蘇生措置をしてもらったらしいが蘇らなかったという。

兄は、高知県の男らしく酒好きであった。

最後のほうはアルコール依存症ではないかというくらい飲んでいた。

いくら健康に恵まれていても、

あそこまで飲めば身体を壊すのも無理はなかった。

亡くなる前の数年は腎臓を悪くして人工透析をしてもらっていた。

それなのに、OB会で力の限りサキソフォンを吹いたものだから、

それが命取りになった。

兄は音楽が好きで、慶応大学に入学したときもすぐにジャズクラブに入ろうとしたらしい。

が、入部するには楽器を買わないといけなかったらしい。

我が家は父が国家公務員だったから、そんな高い楽器は買ってもらえなかった。

それで兄はジャズバンドに入部することは諦めた。

その代わり、卒業して就職して最初のボーナスでサキソフォンを買った。

そんな兄のことを思い出す。

兄は昭和20年9月生まれなので、終戦直後に生まれたことになる。

終戦直後ではあったが、父の実家は比較的裕福だったから、

母も栄養が足りていたのであろう。

兄は赤ちゃん大会でも好成績を収めたらしい。

子供の頃の兄はガキ大将で、近所の子供達を引き連れてよく遠征をするから、

一度などは暗くなっても帰宅せず、町中大騒ぎになったこともあったらしい。

幼いころの思い出として、

兄が家の柱に縛り付けられている場面とか、

長持ちという着物などを入れる大きな木の箱に入れられて、

その上に母が座って編み物をしていた場面とかを思い出す。

今なら幼児虐待で通報される?(笑)

小学校に入学してもわんぱくだったので、

あるとき、私が職員室に行こうとすると、

兄が職員室前の廊下に立たされていたこともあった。

が、勉強だけはとてもよくできて、いつもクラスのトップであった。

机に向かって勉強することなどは全くなかったが、

授業中聞いたことは、そのまま頭に入っていたのであろう。

兄が6年生になったとき、

父の転勤が決まって私達は香川県高松市に引っ越すことになった。

が、兄は卒業するまで転校したくないと、

小学校の卒業まで父の長兄である伯父の家に下宿させてもらっていた。

中学からは高松の中学に入学するという約束だったが、

兄は、小学校を卒業する前に

高知県で一番の進学校であった土佐中学を受験してみたいと言い出した。

母は、兄に合格しても行かないという約束をさせて受験させた。

塾にも通っていなかった兄が合格するとは母も思っていなかったから、

記念受験のつもりだった。

が、兄は合格してしまった。

それでも、約束通り高松の中学に入学の予定だったが、

小学校6年のときの担任の先生の「もったいない」のひとことで、

兄は引き続き、伯父の家においてもらって土佐中学に通うことになった。

もう今から60年以上昔の話である。

兄が生きていれば、今年74歳になったはずである。

わんぱくだったけれど、妹思いだった兄。

私の難聴を心配して、

「びこには財産をいっぱいやらないといけない」と言ってくれていたと聞く。

それを聞いた、私を溺愛してくれていた母方の祖母は嬉し泣きをしたとも。

今は皆、故人になってしまったが、

たくさんの人に、たくさんの愛情をかけてもらった自分とも思う。

兄の命日の今日は、一日、兄のことを思っていよう。

 

★健康に生まれし兄は死にけり酒のみすぎて身体こはして

★母に肖(に)てハンサムなりし兄は死に父似のわれは残されにけり

★父に似て頭よかりし兄は死に頭よからぬわれのみ残る

★難聴の我を心配してくれし兄は死にけりわれを残して

★終戦の翌月うまれしわが兄の享年六十七歳なりし