かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

1人の新生児でも手いっぱいになるのに

2019-09-25 14:25:15 | ブログ記事
三つ子を育てなければならなかったお母さんの苦労は筆舌に尽くしがたいほどのものだったと思います。

だから殺してもいいというわけではありませんが、
手助けしてくれる人のいない育児の大変さはやった人しかわかりません。

私は、三つ子ではありませんでしたが、
実家からの手助けなしに年子の二人の子を育てるのだけでも、
食事も座って摂れないほど多忙でした。

私達の頃は、おむつも布おむつでしたから、一日中、二人のおむつを洗っては干し、洗っては干しでした。

婚家に行くときも、おむつ持参で出かけました。

帰るときは濡れて重くなったオムツを持ち帰りました。

電車に乗る時も、
現在のようにベビーカーを電車で使うことは許されなかったから、
上の子をおんぶひもでおんぶして、下の子は抱っこして乗ったものでした。

その上、
オムツの入った大きなカバンを肩にかけ、ベビーカーは折りたたんで持って乗るのです。
 
しかも当時住んでいた神戸須磨から川西へは途中乗り換えが三度ありました。

ですから嫁ぎ先の玄関にたどり着いたら既に倒れそうなくらい疲れていたものでした。

が、当時の嫁は、そこで休むことなど許されず、
夕飯の支度を手伝って、夕飯が終わったら家族全員の洗い物をさせられました。

その間に二人の子のおむつを外の水道で洗わなければなりませんでした。

冬の寒い時期など、手がかじかんで、洗ったオムツは干す片端から凍ったものでした。

関西でも、当時の冬は今よりずっと寒かったですから・・・。
 
お風呂場の横においてあった洗濯機や洗濯機の脱水は使わせてもらえませんでした。

実家には年に一度くらいしか帰らせてもらえないから、泣きながらオムツを洗いました。

今は、紙おむつがあるし、父親もイクメンの人が多いから、だいぶん楽にはなっているとは思いますが、
それでも同時に三人はキツイと思います。

育児というのは休みなしですから。

このお母さんは鬱になっていたというから、健康な人の何倍ものしんどさだったと思います。

私も自分がしばしば鬱になる人なので、鬱のときの子供の世話の辛さはよくわかります。

可愛くてたまらないわが子であるのに、自分の感情を抑えられなくて、つい叱ってしまうんですね。

このお母さんは睡眠時間が1,2時間だったというから、それだけでも鬱になります。

私も子育て中は眠くて眠くてたまらなかったことを思い出します。

が、うっかり転寝すると、
その間に子供が外に出て交通事故に遭ったりする危険があったから、一時も目が離せませんでした。

そういう状態になってくると、
どんなにかわいいわが子であっても突発的に子を殺したく気持ちは理解できます。

今回、このお母さんには実刑判決が下りましたが、
私は、この若いお母さんが哀れでたまりません。

それは私であったかもしれないですから。



★生み終えて体力果たしし母親はそのまま乳をやらねばならぬ

★上に子がゐれば乳やる合間には飯を作りてやらねばならぬ

★お勤めのほうが何倍楽かとも思(も)ひつつ育て大きくしたり

★新生児一人育てることさへや新米母には大仕事なり、

★三人(みたり)子に時間差でミルクやりながら襁褓を替へる服も着せ替ふ

★泣かれたら新米ママはパニックになりて泣きたき心地ぞすらむ

★泣いたとて誰も助けてくれざれば思はず叩いてしまふおのが愛児を

★気が付けばおのが産みたるみどりごが変はり果てたる姿になりて

★責めるのはたやすけれども助けなく育児せし母ただに憐れむ

自分が必要とされていないと思うとき

2019-09-25 04:47:58 | ブログ記事
私は50歳までは子育てに専念した。

が、50歳になる前に、まず長女が結婚して家を出た。

翌々年に長男が結婚して家を出た。

が、まだ次男がいたから、それほど寂しくはなかった。

が、次男が大学に入って、
一年間は家から通学したが、二年目から下宿生活を始めたから急に寂しくなった。

当時、夫は東京に単身赴任していた。

5人で暮らしていたのに急に一人になったから、戸惑った。

毎日せっせとご飯づくりに明け暮れていたのに、急に食べてくれる人がいなくなることの寂しさ。

何といえばいいのだろう。

喪失感というか、置いてきぼり感というか。

もう私は要らない人間になったかと思った。

そんなことを考えていると、身体の調子までおかしくなった。

少しでも食べ物を口にすると咳き込む。

しまいには一口も食べられなくなった。

鬱かもしれないと、病院で鬱薬を出してもらったのもこのころだった。

が、四六時中心臓がどきどきするし、脚まで痛くなって歩けなくなった。

体中に蕁麻疹が出た。

毎日大きな病院に行って診てもらうのだが、各科をたらいまわしにされた。

3月から通い始めて心臓の弁が閉じていないということが判明したのは7月9日だった。

病名が判明してホッとした。

病名が判明すると、皆が心配してくれて、入れ替わり立ち代わりお見舞いに来てくれた。

ああ、私も一人じゃないんだと嬉しく思った。

手術が終わっても、家族が交代で詰めてくれた。

これは私の母が日程表を作って当番制にしていたことが後で判明したが、
そのときは、そこまでしてくれなくてもいいのにとさえ思った。

が、あのころが、私の人生の花だったかもしれない。

55歳だった。

その後、おかげ様で手術も成功して健康になれたが、
辛いことはその後もいっぱい勃発した。

だから、あのとき死ねていたらと思うことは多い。

今も、ここには書けないが、死にたいくらい嫌なことがある。

これから私は何年生きるのだろう。

不謹慎かもしれないが、早くお迎えがこないかと思う今日この頃である。