斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

今年を振り返って🐇

2023年12月27日 | 自己満

今朝目覚めたときから何故だか分からないが、とても悲しい気分にさいなまれていた。

覚えてないがとても悲しい夢を見たような気がする。

 

強いて言えば蒙古斑(仮)というバンドに関する夢を見たような気がするが。

 

頭がハッキリしてもまだ悲しみは治らなかった。

個人的な身の周りに不幸などは無いのに本当になんだったのか。悲しい気分は通勤時にはいつの間にか消えてなくなっていました。

🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹

 

前回のブログで、鎖国後にキリシタン弾圧、島原の乱という誤った情報を書いてしまい、申し訳ありませんでした。

 

島原の乱(島原・天草一揆) 1637-38年

 

1639年 ポルトガル船の来航禁止

1641年 平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す

その後 鎖国

 

前回の記事は、○○市の郷土史、金田地区の郷土史、江戸期に関する様々な文献、部落問題に詳しいYouTubeなどを時系列を追ってまとめました。

 

郷土史には「遊牧民」「夏営地・冬営地」などという言葉はありませんでしたが、「定期的に拠点を移す人々」という表記を見つける事が出来ました。

 

前回書いた記事の内容は学校の教科書には絶対に載っていない内容。

マスコミも絶対に放送しない内容です。

本屋などに一般的に売ってる本にも載っていないと思われる内容です。

このような内容を教育したり報道すると、外交問題に発展したり、子供が自分の国を嫌いになってしまうなどの問題が起きるためだと思われます。

前回のブログ↓

カネディアン🔱はモンゴル人🇲🇳になれるのか? - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

今年は、ロシアvsウクライナの戦争がまだ終結しないまま、イスラエルによるガザ地区の侵攻が始まり、更に円安と物価高、増税メガネ、政治とカネ問題、阪神優勝など色々ありました。

 

兎年は飛躍の年だと言われたが、何が飛躍したのか?

 

今年から冬の門が開くと昨年の年の瀬に言われたが、どこが冬の門だと思うくらい、酷暑、沸騰、記録的暖冬。何が冬の門だと思う。

 

今年は意外な方向に転がってしまった年だった。

 

自分にとって今年は月日が経つのがとても早く、ただただ日々ルーティンをこなすだけの一年でした。自分から人との出会いを探すことが出来なかった一年でした。

 

昨年の暮れに占いで2023年の運勢は、新たな出会いがあるかも知れない。

 

但し、自分から行動する必要があり、待っていては何も起こらない。

 

時が経つのが早く、一歩も踏み出せないまま、また一年が過ぎてしまった。

 

2024年は趣味のひとつでも作らなければならない。

 

中央アジア活に於いても、計画通りにはならなかった。中央アジアのステップロード(草原の道)沿線について正しく調べて、その歴史とか観光の見どころをブログに上げる

 

遊牧民の国家興亡の歴史を上げる

 

中央アジア料理のレシピの続き(暫くサボってたから)を上げる。

 

など、頭の中でなんとなく計画を練っていたが、あるモノに足を引っ張られて、計画通りに出来なかった。

 

あるモノとは、オボーとテングリ信仰の痕跡のある、日本国内にある蒙古集落とでくわしてしまった事。

 

自分はこれと出くわした事で、人生観がまるっきり変わった。日本国内の平和について疑問を持つようになってしまった。それと「性善説」が完全に崩壊。

 

これと出くわす前は、ただ漫然と「平和」とは「戦争」が起こらない事。喧騒のないまったりとしたさま。とだけしか認識出来なかった。

 

それも正しいが、日本の平和の成り立ちの裏に深い闇がある事。それに気づいた。

 

日本は単一民族であると言われることや、「*同和精神」だけで、人間と人間が「和」すことが出来るという事にも疑問を持った。

 

「平和」や「平定する」という意味や「多様性」について深く考える機会にもなった。

 

「平和」という言葉の裏には色々な意味が隠されている。

 

あの蒙古集落には、部落の家に貼ってありがちだと勝手に言われている共○党のポスターが無かった。

 

部落問題に詳しいYouTuber先生は、部落の特徴として共○党ポスターが多いという。(あの先生は少し下品だ。。。)

 

なぜあの蒙古集落には無いのか?

理由は分からない。私が勝手に憶測すると、「平和」を掲げる政党は恐ろしいものだという彼らの遺伝子に刻まれた思いがある。

 

かつて徳川幕府に「平和」という大義名分があった。これは徳川でなくても誰もが願う事だ。戦乱は嫌いだ。

 

徳川の「平和政策」が、民族的多様性や、人の生き方を極端に否定してきた。

 

「平和」というと一見聞こえは良いようだが、徳川家は「平和」と「多様性」は共存しえない。と考えていたようだった。多様性を肯定すれば争いになり、生き方を肯定すれば争いになる。

 

徳川は争いを無くすために苦悩してきたと思うが、それの最終手段が、民族の均一化、価値観の均一化であったのだろうか。

 

「平和」の難しさという事をこの一年、考えさせられた。

 

ただ仲良くすればいいという単純な問題ではない。

 

「平和の為の○○」という言葉をよく耳にする。日本の一般論からは○○をせずに、ただ仲良くして平和になるというのは無理なの?という質問をよく聞くが、これはパレスチナの人やウクライナの人にこの質問をすれば愚問だと鼻であしらわれるだろう。

○○とは戦争などの平和とは相容れない言葉。

 

「平和というのは力の均衡」だと*プが言ってたが、認めたくはないが、一理あるのではないか?とも思う。これは外乱(外交)の問題である。

 

プ: 元気過ぎる、自分から戦争起こした張本人問題爺。本当糞だ。

 

「多様性」と言われるようなサステナブル、ダイバーシティなどSDGsやLGBTQなどの話をテレビやラジオから聞いているだけでは決して気づかない、民族問題という観点の「多様性」。

 

マスコミや政府に多様性の時代だからそのようにしろと言われても、よく分からない。

 

徳川的に言えば「平和」の対義語といわれる「多様性」

 

マスコミや政府は、日本国内の民族問題や同和部落問題を誤魔化し、すげ替えるようにSDGsやLGBTQなどの西側から直輸入した言葉を濫用する。それが「多様性」という。

 

政府はどんな国にしたいのか?遊牧部落を弾圧しておきながら性的マイノリティが生きやすい社会を目指すのか?これでは徳川の時代と同じかそれ以下。

 

マスコミの言うことは鵜呑みに出来ない。

 

「平和」と「多様性」の均衡は必要だと思う。「多様性」ばかりをやたらと認めても、一部の少数派のやりたい放題の世になって結局また争いが起こる。

 

日本は「単一民族」で「平和」である。

よく考えなくても分かるが、「単一民族」だから平和である。

 

外乱は国と国の利害関係とか、覇権主義など複雑怪奇な理由で戦争が起こる。

 

内乱の理由は、覇権主義や利害関係や意見や思想の対立などもある。内戦の話を見ていると「民族問題」などが出て来る。

民族問題というのが一番ややこしく、惨たらしいものにさせる。

多くの日本人のツイートを見ていると、民族問題なんて下らない。という声が多い。確かに下らないと思う。個人的過ぎて大義ではない。しかし自分の家族や氏族が他人(他の民族)の犠牲になっているとなれば傍観していられないのが人として普通の感情だと思う。

私も含む日本人には民族問題が理解し難い。

 

日本人は単一民族問題について(琉球王国とアイヌ民族は除く)強く疑問に思うようになったのも、蒙古集落と出くわしてしまったのがきっかけになった。

 

日本は中国みたいにデカくなく、国土が凄く小さいから、日本には日本人ぐらいしかいないのは不思議ではないと昔は考えていた。語族というものを知るようになってから、日本人は孤立語族だという事が分かった。少し前まではアルタイ語族だと考えていたが、言語構造などを比較すると、語順だけ同じで、全く違っていた。朝鮮語はアルタイ語族の構造に当てはまるそうである。満州語と近いツングース語族である。

 

日本語族という孤立語族がいれば、太古の昔に単一の種族が一度に日本に渡って来たということになる。それ以降閉ざされたように外部から来ず、そのまま産み増えて今の人口になったのか?しかし倭国(日本)という地理的条件から考えても、一つの種族が純血を保ちやすい環境とは到底思えない。自分は日本人種だという強い自覚を持ち、皇室のように頑なに血統を守る努力をしても実際に皇室でなければそのような事は難しい。氏族内で婚姻するしか純血は保たれない。

 

日本に様々な技術や文化が渡って来ているので当然、シルクロードの人間も日本に渡って根付いていると思われる。大陸や半島の人も日本に根付いている。周辺諸国の国際情勢を考えても、戦争に負けて逃げて来たり、亡命したり、島流しにされたりと、日本に来る用事はあるはずである。まとまって集住化したというのも充分考えられる。日本には日本語族人種だけしかいないというのが不思議である。ましてや四方を海に囲まれているので地続きの国よりは入国しやすい。地続きだと関所だの検問だのと、越境が難しい。

 

ロシア人YouTuberの言ってる事や、中央アジアに関わる人の話を聞いていると、日本が日本人だけというのが、なんだか不自然なことのように思えた。それが昨年の終わり頃。

 

文献や郷土資料を読んで分かった事は、日本の江戸時代中頃ぐらいまでは、倭民族の他に雑多な民族がバラバラにそこら辺にいたらしい。氏族単位で生活をし、封建制度の仕組みに入る人もいれば入らない人もいたらしい。

 

だから蒙古集落が存在してもおかしくはない。

 

今年は大河ドラマで家康がテーマだったから余計徳川を意識してしまった。

 

家康は天下人として最強の、素晴らしい武将である。

 

問題なのは家康ではなく、一部を除く後の将軍。

家康は素晴らしかった。しかし江戸の世を実際に統治しなければならなかったのは、後の歴代将軍である。

大名の覇権主義争いよりも実際頭を痛めていたのは倭国内における「民族問題」だったであろう。本気で世を平定し、争い事のない平和の世にするためには民族問題をどうにかしなければならない。

鎖国をした理由のひとつにもこの「民族問題」の為に、国内にいるディアスポラと祖国との関係を断絶することが目的だったのかも知れない。

倭族の慣習を以て倭族化をしたというよりは徳川イズムの植民地支配のようであったと思う。

 

中国、朝鮮を除くディアスポラの文化はなぜ断絶されたのか?

の答えは、鎖国による文化断絶によるもの。そして庶民各々の民族的アイディンティは消滅させられた。

 

しかし、平和が何より貴重である。平和については考えれば考えるほど難しく、一概に答えが出ない。平和というものはとても脆く、維持することが非常に難しい。

🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱🔱

 

今年の初めには、寺社仏閣巡りが流行った。それで自分も流行りに乗ろうとして、手当たり次第寺社巡りに赴いた。ただ拝むのもあれかと思って、寺社の由来を調べてから巡る事にした。

 

その頃スフバートルコーヒーがまだあって、そこで勉強などをしていた。暗くて危険なのでバスを利用して駅まで帰る途中の、ある神社も気にはなっていた。それが金田神社。

 

金田神社についてググルと色々なサイトが出て来たがその中の一つに「中世に“長距離競馬神事”が催されていた」

上依知から金田までの10km強の競馬。

ナーダムみたい。

 

それが気になって気になって仕方がなかった。

神社というのは集落毎にあるものなので、金田集落はもしかして…..

 

金田、頭文字が「金」!アルタン!!!

モンゴルには「アルタン〜」という地名が多数あって、頭文字「金」地名が目についた。

アルタンとナーダム的な祭り。それだけで、実踏しようか。となった。

 

それがコトの始まり。

 

カナダホト🎪(蒙古集落)を見つけるだいぶ昔から、川の左岸の台地には、昔、牧民が暮らしていたのではなかろうか?という気がなんとなくしていた。牧民が暮らしやすそうな環境であるような気はしていた。

中央アジア北部の風を感じるもの - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

川の両岸の台地は、良馬の産地であると聞いていたので、余計にそういうふうに思えていた。

 

カナダホト🎪(蒙古集落)はいくら探そうと思って探しても見つかるものでは無いと思う。

スフバートルコーヒー店や、バス路線や、神社仏閣ブームなどの諸条件が重なって奇跡的に出くわせた。

 

意外にも川の右岸だった。

 

どうやらこのカナダホト🎪とやら集落は本物の蒙古集落らしい!

 

「中央アジアの風」の記事の中の、我々日本人は遊牧ディアスポラ….

とあるが、これは一部しか当てはまらない。

 

本物の蒙古集落は、自分が想像していたものと全然違っていた。本当にこういう人々が川中流の内陸の台地で動き回っていたんだ!と実感しました。

 

カナダホト🎪と出くわせた事に感謝しております🔱

 

という事で長文のご精読ありがとうございます。

 

 

同和:「同和」という言葉は、昭和天皇即位の際の詔勅にある。生まれ、家柄・血筋、社会的身分の別なく、国民は等しく、慈しみあわねばならないという発想に基づくと言われています。

 

弾圧部落に「蒙古集落」など「蒙古」という国の名を冠するが、国際問題に発展しないか心配です。蒙古集落の事を指す「カナダホト🎪」のワードを使用すべきですかね。これなら蒙古とは言っていないのです。だから外交問題にはなりません。容易に、特定の国の名前を冠するのはよろしくないのではと思います。

 

部落名丸出しにするのも余り良くはないのでカタカナ表記にしました。キリル文字表記の方が平穏ですかね”Канада Хот🎪”これなら外交問題が起こらない。モンゴルに実際ありそうな気がします。しかしGoogle翻訳機によればモンゴル語でКанадаって意味がなかった。

国際問題云々より、まず意味わからん🤯

せっかくモンゴル語化したのに、モンゴル語で意味がないなんて哀しすぎる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネディアン🔱はモンゴル人🇲🇳になれるのか?

2023年12月20日 | 自己満

 

ある人のXで

「こんな署名がながれてきた

🇲🇳国外のモンゴル系住民に「モンゴル民族カードを配布し、🇲🇳への移住や就労をスムーズに行えるようにさせて、という嘆願を🇲🇳国家大会議へもちこむための署名らしい

 

12月15日に署目が始まって本日19日1:30時点で目標の半分すぎくらいの人数の署名があつまっている模様

 

署名の詳細は下記リンク🔗から

 

あなたの声がチカラになります

Друзья поддержите внесение законопроекта «МОНГОЛ ҮНДЭСТНИЙ КАРТ» в Великий Хурал Монголии

Change.org

 

 

 

🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳

 

太字部分の訳:

友人の皆さん、モンゴル大フラルにおける「モンゴル国民カード」法案の導入を支持してください

 

この署名で変えたいこと

署名の発信者Card Mongol

 

細字部の訳:

 

友人の皆さん、私たちは外国部族民に関する法律の採択を目的としたモンゴル大クラルでの法案「モンゴル国民カード」を導入するための請願へのあなたの支援を必要としています。

 

モンゴルは世界の民主的で人道的な国となるよう努めています。 モンゴル偉大な人民クラルは、人類の発展と人権の保護を目的とした法律を可決します。

 

しかし、モンゴルは、外国の同胞を支援する法律を受け入れていない、ユーラシア大陸で唯一の奇妙な国のままである。

 

大小を問わず、すべての近隣諸国には、外国の同胞を支援または送還するための法律があります。 中国、ロシア、カザフスタンなどの国にはそれぞれ100万人以上の外国同胞が集まっている。

 

キルギスと韓国は、歴史的な祖国における外国人部族民の権利と利益を認める文書の発行を支援する法律を採択した。

 

偉大な歴史の継承者であるモンゴルには、その遺産とは裏腹に、残念なことに、外国の部族民が歴史的な祖国の共通の歴史、伝統、公共生活に参加することを許可する法律がありません。

 

この状況は変えられなければならず、モンゴルは外国部族を支援し誘致する法律を持つ文明国の仲間入りをしなければならない。

 

したがって、私たちは、すべての外国部族にモンゴル民族の帰属証明書を受け取り、言語、歴史、共通の伝統に慣れる機会を与える法律草案「MONGOL UNDESTNIY CARD」または単に「モンゴルカード」を作成しました。 。 モンゴルに来て、追加費用や官僚的な問題なく、合法的に生活し、働いてください。

 

皆さん、モンゴル大クラルに「MONGOL UNDESTNIY KART」という法律を採択してもらうことをお勧めします。 そのためには、「MONGOL UNDESTNIY KART」法案をモンゴル大クラルに提出し、外国部族民に関する法律の欠如の問題に注意を向けることを可能にする請願書への皆様のご支援が必要です。 私たちの数が増えれば増えるほど、モンゴルの偉大な人民制度によってこの法律が採択される可能性が高まります。

 

この嘆願書を友人や知人と共有し、私たちに参加するよう依頼してください。

 

私たちをサポートしてください - 請願書に署名してください。

 

法案「MONGOL UNDESTNIY CARD」に関する詳細情報は電報で: @mncard_bot

🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳

 

急いでGoogle 翻訳した。

 

Xの発信者はロシア連邦🇷🇺ブリヤート共和国在住である。

 

ブリヤート共和国とは、ロシア連邦の構成共和国の一つで、モンゴル系民族のひとつであるブリヤート族の自治体である。

 

モンゴル系民族は、モンゴル国国外にいくつか散在している。

 

代表的な例を挙げると

ロシア連邦 ブリヤート共和国

ロシア連邦 カルムイク共和国

中華人民共和国 内蒙古自治区

 

カルムイク共和国もモンゴル系民族のカルムイク族の自治体。

ロシア革命のウラジーミル・レーニンのお母様がカルムイク出身。

 

その他にも「外国部族民」とここで言われている「外国同胞」は世界中にたくさんいる。

 

大クラルとは、モンゴルで国会に当たるものだろう。

 

ここで言うモンゴルの「外国部族民」「外国同胞」は、カルガリー(斑爾里)のブログでも扱っている。

 

カネディアン🔱はそのひとつである。

 

カネディアン🔱とは元帝国滅亡後、北元時代になってチベット仏教を信仰するようになったモンゴル系民族で、約400年前に沿海州の海洋民に船を手配して、身と移動式テント、家財道具一式のみ携えて倭国(当時の日本)に渡来して来た民。

 

日本海側に着いたが、紆余曲折あって太平洋側の内陸に移住し、とある山塊が見える平原あたりで主に活動していた。

 

掠奪した馬と牛と山羊で遊牧生活を行ない、更に、製鉄も行なっていたと考えられる。

 

某県某市金田地区周辺は、牧民の移動式住居が集中しやすい場所だったのか、金田地区にはモンゴル人が川の近くなどに建てる「オボー」の痕跡がある。そこにある立札には、モンゴル人のテングリ信仰を示す一文も書かれている。

 

この地区の近くにある金田神社の中世に行われていた神事には「長距離競馬神事」があったとされ、ナーダム(オボー祭り)だとすぐに分かる。

 

金田という地名は「産鉄地名」であるが、これは「鉄を量産する場所」という意味である事が判明。

ここは風通しの良い川に近い平地である。その山塊から赤鉄鉱や磁鉄鉱を露天採掘し、金田地区で製鉄していたのか。掘った穴は埋め戻していた。

 

倭国古代製鉄であるタタラ製鉄の鉄穴流しに使われる「崖」「谷戸」地形ではない。金田は匈奴やモンゴル帝国の製鉄遺跡群のある地形に似ている。

 

面白いのは、牧民の夏営地と製鉄の場所が近い事。

 

カネディアン🔱という名は私が勝手に銘名した。これは金田(カネダ)をありのままに、何も考えずに、カネダの和製英語のようにカネディアンとしてしまった。これは、チバリアン(千葉の地層)と同じ銘名方式。

 

カネディアン🔱とは、モンゴル系の牧民である。

 

それが江戸期の幕藩体制下で、強制定住させられ、そこら辺に夏営していた牧民も金田地区に強制移住させられ、牧民の居留地となった。そして倭人と一緒くたに囲われ、最もやりたくはない「農業・田従事」にて強制労働をさせられて土地に縛りつけられた。

 

家畜や武器、製鉄炉、鉱石、製鉄道具、鉄器製品、家財道具一式等、全ての財産は幕府に没収された。

 

鎖国が始まり、キリシタン弾圧が始まり、国外と倭国との往来や貿易が不可能となる。

 

寺子屋とは徳川の思想で統一する教育機関である。徳川は、鎖国後「倭人化」による平定を目論んでいた。寺子屋で蒙古語を迂闊に喋っているところを先生に見つかると、子供でも容赦なく厳しい体罰や、場合によって刑場に送られてしまう事もあった…

 

大人も子供も関係なく、倭人以外の民族は自国の言語を話す事を許されなくなった。

チベット仏教も、日蓮宗と幕府に弾圧されていた。チベット仏教徒は日蓮宗に強制的に改宗された。

 

金田地区に無住職寺があるが、近年、住職が地域住民によって殺害されたという。夜中寝ている時、住職宅に放火し殺害。

 

赤ヅラ疱瘡という病気は真っ赤な嘘。

 

昔の日本では、男しか血を残さないと考えられていた。幕府は、お家断絶政策(断種政策)を打ち出していたのではないかと言われているが、これが赤顔疱瘡の正体であるとする文献もあった。

 

明らかに異民族に見える男や、自称「倭人ではない」という男という男は皆殺し。たとえ子供でも容赦しなかった。江戸期では、倭人に同化しない者は罪人(ザイニン)であった。

 

これが侍の世というものである。

 

侍の世はそんなものだから仕方ない。侍の世は遠くなり、現代は維新から始まった世だから俺たちには関係ないのか?

 

中世も現代も同じだと考え、深刻に捉えるべきか?

 

「どうする家康」がこの前、最終回を終えたばかりだが、家康そのものは悪くない。その後の運営が問題である。世を平定するとは?平和とはどういう事か?それをよく考えなければならない。

 

ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ地区爆撃などを見ていると、中世と現代の境目なんか存在しないと実感する。

 

モンゴル系のカネディアン🔱は江戸期の財産没収、強制労働、農民による支配、倭人との不平等、言語弾圧、宗教弾圧、文化断絶、断種政策を経て、遂に討幕の時代を迎える。

 

討幕後、解放されると思っていたが、維新政府から部落認定をされ、人権の弾圧は続く。

 

居住地の制限、婚姻の制限、警官による暴力、婦女暴行、環境汚染(清掃工場2基建設後、将来的には2基稼働予定)、行政によるゴミ不回収、公立の学校を敢えて建てない(幼稚園、小、中)

子供たちは遠い通学を余儀なくされる。

被差別部落の為、全国展開の大手企業は進出して来ない。その住所に置くと、心象や評判が下がるとのことらしい。

(但しコンビニやトヨタや白洋舎などのフランチャイズチェーンとローカル企業の本店は除く)

被差別部落の為、この地域に住民票を置く住民は、日勤の仕事に就けない。まともな企業が採用を見送るなどの理由のようだ。など挙げていけばキリがない。

 

部落が解放されると、隣保館(リンポ)が児童館に変わり、「差別をなくそう」などの立て看板が撤去されるなど表向きの対応のみ施行される。

 

部落差別は、調べれば調べるほど、想像より遥かに過酷である事が分かった。

 

 

ここの住民は何百年差別されてるのか。

 

これを見ても分かるように、これが「外国部族民」「外国同胞」とされる、ディアスポラという人達の実態である。これは日本の事例だが、世界には日本のここよりもっと酷い扱いを受けているディアスポラがいることが考えられる。

 

賛同しろとは言わないが、政界にアクションを起こす鍵となるサイトがあるという事だけでも知っておくと良いかもとは思います。

 

カネディアン🔱は長い年月をかけてモンゴル人としてのアイディンティや文化を壊され続けてもテングリ信仰の痕跡だけは残っている。

 

カネディアン🔱は日本国民としての充分な扱いを受けていない可能性が高い。

部落民は部落によっては旅券を発行されない所もある。

 

モンゴル大使館は、ここの集落を認知しているのか?

 

カネディアン🔱自身、自分のルーツを認識しているのか?先祖伝来の口伝でテングリ信仰は残っているが自らのアイディンティは分かっているのか?

 

それが当事者でないと分からない。自分は聞き取り調査など出来ない。ここは研究者の力がないと非常に難しい。

 

彼らはなぜ金田集落が差別されているのか分かっているのだろうか?

 

もしカネディアン🔱が自分のアイディンティの認知があるのなら、モンゴルでこの法案が通れば生きる道が開けてくるのではないかと思われる。

日本では動きが取れない。普通に仕事をして、家庭を持つことは出来たとしてもそこに自由はない。この法案が通ってモンゴルに帰って自由な人生が送れる事を祈る。

 

旅券を発行されない民だとしても、低所得のカネディアン🔱がモンゴル国から経済的な援助を受けられる。

 

日本はこういう人達を縛りつけて国内の平和を保っている。

 

徳川幕府は、多様性と平和は共存しえないという前提であるようだった。中華思想と何ら変わらない。

 

自分はカネディアン🔱当事者でも何でもない、ただの日本人なので、カネディアン🔱の気持ちは微塵も分からない。しかしテングリ信仰やオボーの痕跡の残るこの集落の存在との出会いによって、ディアスポラ問題と日本の平和について考えるようになった。

 

この法案の提案者は、モンゴル系のディアスポラの置かれている実態についてよく分かっているのかも知れない。

 

モンゴルに限らず、世界中には歴史的に古いディアスポラが多数存在する。

日本に於いて、社会通念的に存在が認められている歴史的なディアスポラは在日朝鮮&韓国人。華僑。埼玉の高麗、新座。これは古代朝鮮半島系の国(高句麗、新羅)

 

日本の歴史は長い。その割に存在が認められているのはこのぐらいである。

 

在外邦人、日系移民というのはたくさんいる。

 

日本は世界中でも奇妙な国である。日本は日本人だけ。という認識で成り立っている。

 

歴史的ディアスポラが多数移り住んで来ているとの認識が無い。

 

郷土史や文献には書いてあるが、学校の教科書では日本人は縄文人と弥生人の交雑した純粋単一血統の民族だと教えられる。

 

マスコミでも似たようなもので、その件もそうだし、徳川幕府の悪口なんか言わない。

 

だから一般の国民はこのような事実に関心が全く無いし、自分自身に、自分でも知らない由来(バックグラウンド)がある事を知らない。

 

日本人はそんな事を考えない。

 

カネディアン🔱が自身らのルーツが分かるなら、モンゴル民族カードは一縷の光かも知れない。

 

祖国と繋がっているだけでも、心強い。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬営地

2023年12月08日 | 自己満

遂に*カネディアン冬営地だと踏んだ場所のひとつを訪問した。

 

カネディアン: 金田地区という*テングリ信仰とチベット仏教自体は残っていないが、痕跡が残る集落に定住する人達の祖先。

 

テングリ信仰: 遊牧民が信仰する天の神

 

前回の記事

カネディアン宿営地3 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

遊牧は結局は水だ!

という事がわかり、水を意識してカネディアン牧民の宿営地をさがす。

 

冬営地候補に挙げられる所は、山あいの低地の川沿い。あのもみじクッキー🍁の葉先の方。もみじクッキーは、丹沢界隈の牧地を分かりやすく表している。

 

今回、見つけたい遊牧遺構は冬営地にあると云われる石囲い。どうやらこの石囲いは家畜の糞や燃料を囲うものである可能性もある。家畜の糞は家畜の防寒用の燃料になる。

 

冬営地候補は夏営地候補より数が多い為、一度で全てを実踏する事は不可能。

 

今日は愛川町。

 

上三増(カミミマセ)というバスの終点迄行く。

 

 

この系統は金田(カナダホト)も通る。○○バスセンター→カナダホト→上三増

夏営地から冬営地へ向かうのか。秋営地はどこにあるのだろう?

 

カナダホト(夏営地)から上三増まで20km強。バスからの景色。川べりは河岸段丘で深い樹木林に覆われ、それ以外は平坦な台地で、草地が多いように思えた。所々に森が点在するようにも思えた。

 

途中に「中荻原(ナカオギハラ)」とか「中平(ナカヒラ)」というバス停があるぐらいなので、土地の痩せた開けた草地だったのだろう。(民家や倉庫やガソリンスタンドや中古車販売店なども存在する。)

 

400年前もこのような植生だったのだろうか?

 

 

上三増で降りる。川の源流を目指して歩く。結構な急斜面を登る。

 

冬の北西の風を避けられそうな低い山がたくさんある。そして小川は崖のような急斜面の下の低地を流れる。文献によれば冬営地に適している。

 

上三増を実踏した感想。

 

川の源流はいくつもあるが、全て深い樹木林の中だった。ジャングル。湧水があるといえども、蒙古出身の牧民がこんなジャングルに宿営したいと思うか?一世帯だとしても、家畜の数を考慮すれば、難しい。

 

モンゴルと日本、こんなにも違いすぎる植生で、どのように営地選定していったのか?農業は絶対にしたがらない人達だ。

 

多分こんなジャングルの中には、家畜の糞や薪などの燃料を囲う石囲いなんかあるわけない。

 

 

三増峠ハイキングコース。

 

 

 

川の源流はダムらしい場所の先だが、ジャングルすぎて行かれない。あと、急斜面。

 

 

しかし一箇所だけ怪しいのがあった。

 

 

 

 

木の周辺に石がゴロゴロ。これはもしかして、石囲いに使われてた石かも知れん。

 

 

 

モンゴルのハンガイ地域、森林や山中で遊牧する牧民もいると聞く。彼らはどうやって遊牧してるんだろ?

 

ラップランドのサーミはタイガ樹林の中でトナカイ放牧をしている。

タイガはこの暖温帯の湿潤なジャングルほど鬱蒼としてないか。

 

 

 

カネディアンはどのような土地出身なのだろう?こんな日本の山林地域、どうやって適応したのだろうか?

 

薪を集めて溜めた場所があった。まさか400年前からあのままなワケねぇ。家畜の糞だってあるワケない。

 

探しているのは、不自然に石囲いそのままの形で残っている遺構。

 

 

 

天神沢。これは天満宮(菅原道真を天神として祀ったもの)が奥にある為、天神の名が付く。カネディアンの*テングリ信仰ではない。

 

テングリ信仰: 遊牧民の天神信仰

 

天神沢沿いの道の奥まで行くと「この先ワナあり(中略)  害猟会」とあるので断念せざるを得ない。自分が罠に掛かってもしょうがない。

 

熊や亥が出る。

 

県道65号。よく考えると、現在はアスファルトで舗装された道路であるが、ここも元来、山中でジャングルである。

野生のもみじ🍁や銀杏がある事自体、深い山中で標高もそれなりに高い?!

 

木の切り株が多く開墾の跡がある。そして杉の植林。

 

杉の植林。杉が無ければ鬱蒼としていなくてまばらな感じなのだろうか?

 

 

 

開墾の跡

 

もみじみっけ🍁

 

 

 

 

 

 

石囲いを求めているため、石や岩などが沢山置いてある場所などが目に入ると全て遊牧遺構だったかも知れない石に見える。

 

 

 

 

 

ここは元は石材店だったのか、土管や岩が多い。

 

ここは川沿いと違い、山間の開けた土地である。

川に沿った樹木林の深い場所ではない。

ここには切り株などは無かった。

 

この道はダンプの通り道で人が通れる道が無いため断念せざるを得なかった。農民が作業をしていたので撮影はしなかった。

 

 

川からそんなに遠くない場所でそれなりに広い土地。家畜を囲い、一つの世帯が冬籠りするには充分な平地面積がありそうだ。現在は畑地となっている。

 

その隣に小道があり、そこを入っていく。

 

 

ここも切り株など開墾の跡なし。空き地にはススキやブタクサなどが多く痩せた土地で、畑作などに元来適していない。

 

ただこの辺りはダンプの通り道なだけあって「残土」問題があるらしく「残土埋立反対」の立て看板がある。元々痩せた農業に適していない平地なのではなくて、樹木林を開墾後、残土で埋めて整地した可能性も考えられる。そのため土地が痩せている。

 

石が多い問題については、この辺りには墓地が多いから石材店が多く、畑などでも余った石を使う傾向にあるのか?

 

三増峠ハイキングコース入口の看板にあるように江戸時代に長野や清川村から石工を呼んで仏像彫刻などを彫らせていたので、その影響で石文化があるのではないかと考えた。

 

上三増のバス停あたりは、山中で以外と山の上すぎるのでもう少し平地に近い、山の麓を求めて○○バスセンターやカナダホト方面に歩く。

結構キツイ下り坂だった。やっぱここはド山中だなー。日が陰ると肌寒くなって来た。北西からの風が寒い。ここは北西の風は避けられない。

 

このような場所は少し角度が違うだけで北西の風が寒い場所があったり、寒くない場所があったりした。

 

遊牧って難しい!

 

この辺り、バス停でいえば「三増」辺りが本当の山麓のような気がする。今日はもう時間ないし、バスなかなか来ないのでここで終わり。また機会があれば実踏して、また、なにか発見があれば書く。

 

 

 

 

 

 

川からほど遠くない開けた土地は冬営地候補だ。残土、整地問題と関わりが無ければ冬営地として充分やっていけるだろう。ただ、異様な石囲いの形をなしているものは見当たらなかった。

 

バスを待つ。

 

このバス会社はこの系統のバスの「金田(カナダホト)」というバス停をを重要視している。どのバス停にも「金田」と書いてある。

 

金田(カナダホト)は、要衝のように通行の利便性が良い。

 

前読んだ文献に、ゲルが集中化しやすい夏営地の要素に「交通の利便性」という社会的条件もある。と書いてあった。それを考えるとなるほどなーと思う。カナダホトは昔から要衝のような場所だったのだろう。

 

夕方のこの時間16:00から19:00台、カナダホトとカナダ下宿(シモジュク)のバス停から駅に向かう乗客が、毎度毎度、異常に多い。ホトと下宿からの乗客で満員になる。

 

他のバス停から乗り込む人間がせいぜい1人、多くても2人。この系統はこの時間帯、多くのバス停を通過する。ホトと下宿からの乗客はこれから通勤する人達のようで、会社帰りではない感じだ。ホトと下宿のバス停の最寄りに企業などはない。

 

民家と美容室と飲食店のみ。何故こうなのか本当に不思議だ。ホト集落民は夜勤勤務に制限されているのか?他のバス停にも民家が多くある。夜勤勤務の人もいるはずだと思うが、それがホトと下宿にやたら集中している。非常に気になる。

 

 

農耕は定住をして、水を川などの自然から取水し灌漑用水など、人の手でコントロールする。

 

遊牧は水を求めて自分が移動し、人の手を加えるとすれば井戸を掘る事ぐらいである。

 

その井戸も移動する際には埋められて元に戻されてしまう為、井戸の遺構も残ってはいない。

 

牧民は足跡を殆ど残さない。

 

 

遊牧遺構があるとすれば、テングリ信仰(天神信仰)の石堆形オボー、家畜の糞や燃料を囲うための石囲い。

 

遺構に頼ってはならない。アキドチャンネルのように“あった!”という世界ではなかった。

 

牧民の足跡(ソクセキ)を追うというのは、地形と水と植生と災害の情報を頼りにするしかない。

 

そして妄想を巡らす。

 

“あった!”とか“ビンゴ!”というのは本当に奇跡である。

 

カネディアンは、倭国という蒙古帝国から全く別の国に来てしまったため、蒙古帝国の制度に縛られる事はなかったと思うが、制度ではなく「慣習」「しきたり」に縛られる事はあったのかも知れない。

 

モンゴルの牧民は社会主義時代には、封建時代(清帝国時代)の遺制に縛られている者がいたという。それは遊牧宿営地遠方移動のしきたりなどである。

 

社会主義崩壊後の現代モンゴル牧民も、制度に縛られているようで、ある郡では移動範囲は通常、所属するバグ(村に当たる)の内部に制限されている。特に冬営地・春営地は基本的にバグ長が認可した一定の場所で行うよう、行政側より定められている。

 

行政側より比較的厳しく管理されている冬営地・春営地に対して、夏営地・秋営地はバグ内であれば場所は自由であり、毎年バグ長に営地の場所を申告するだけで構わない制度になっている。

 

様々な文献に、モンゴルの牧民の冬営地固定論が多いのはこのためではないか?冬営地と春営地が近接していると云われるのもこのためではないかと思われる。

 

現代の文献なども100%あてになるわけではない。カネディアンは400年前の牧民だ。

 

バスの中からの景色。丹沢山塊を臨む。

 

バスに乗りながら、

 

ここは夏営地だ。

ここはオボー祭りで長距離競馬で走った道だろうか?

これから冬営地へ向かう。

あの山麓まで引っ越しをしていた。

この平原のそこかしこに家畜がいて、草食ってた…..

 

などと想像しながら車窓を見る旅は面白い。ここは日本だけど昔はこのような光景があったのだと思う。

 

ということで長文のご精読ありがとうございます。

 

次はいつ行けるのか分かりませんが、暇があれば実踏に充てたいと思います。

 

家の最寄り駅(平地)に帰って来てわかった事。

平地は風が凄く強い。山あいの上三増や三増では風を受けなかった。

 

少しの時間で風が強くなったのか?

 

で無ければ、冬営地選定の予想は間違いではなかった?

 

多分カナダホト(夏営地)は風がもの凄く強いのだろうと思われる。

 

夏営地と冬営地は逆にすることが出来ないというのが分かった。

 

 

夕暮れの防災無線のような曲。

彼はロシア連邦・トゥバ共和国在住のシンガーソングライターである。

夕方にこんな曲が流れたらいいなぁ

 

布団干しっぱなしで家を出て来た。取り込むのがユウウツ😓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倭国の製鉄・産鉄地名

2023年12月01日 | 自己満

頭の中が金属探知機になっている。

 

北欧のラップランドの一部、オーロラの名所にまで「産鉄」を感知するレベルになってしまいました。

 

倭国(日本)にも産鉄地名というのが多数存在する。

 

その前に*倭国の製鉄について。

 

倭国: 私の使う倭国とは、維新前の日本の総称。維新前は倭国であった。倒幕後新政府から日本となった。

 

倭国での産鉄方法は主に「野ダタラ」「タタラ」

 

・野ダタラは縄文時代からやっていた。地中の隕鉄(隕石の中に含まれる磁鉄鉱)を自然の風を利用して加工する方法。

 

・タタラは弥生時代になって朝鮮半島経由で渡来した集団が伝えた技術。砂鉄を採取し「炉」や「ふいご」を使って人工的に加工する方法。

 

タタラ製鉄は砂鉄を得るため、砂鉄を含む山や風化した花崗岩などを切り崩して水流を流し、比重を利用して選り分けて砂鉄を採取する「鉄穴流し」(カンナナガシ)が行われた。切り崩された山の形を鉄穴地形という。選鉱後、土砂を下流に流した。

 

大量の土砂を川に流すことにより、川底が上がり洪水が起こりやすい「天井川」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水路が埋まることがよくあった。

その一方で先人は鉄穴流しの跡地を棚田に造成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、有効利用してきた。

 

タタラとは踏鞴吹(タタラブキ)のことで大きな鞴(フイゴ)を足で踏んで空気を送り、砂鉄や木炭を原料として製鉄する我が国独自の技法であり、その精錬場をタタラ場と呼んでいた。

 

 

日本の産鉄地名は

「鑪(タタラ)」「オドロ」「稲(イネ)(イナ)」「黒(クロ)」「星(ホシ)」「須賀・菅・洲処(スカ・スガ)」「諏訪(スワ)」「真(サナ)」「寒(サム)」「佐倉・桜(サクラ)」「笹(ササ)」

 

鉄が砂(サ・ス)から派生するためでしょうか、比較的サ行に集中する傾向がみられます。

 

「杉(スギ)」「丹(タン)」「崖(カケ)」「龍」「芦」「七里」「釜・鎌(カマ)」「金(カナ・カネ)」「梶(カジ)」

《参照: ブログ 鎌倉遺構探索》

 

今回は、神奈川県の産鉄地名の一部について書く📝

 

神奈川県には産鉄地名が多く、鎌倉市内には産鉄地名が多いのは有名。

 

「鎌倉」自体が産鉄地名で、鎌はカマという刃物、或いは釜という金物、いずれも鉄製品である。倉はクロ(黒)。つまり黒とは砂鉄の色、黒を表しているという。

 

神奈川県の「神奈川」自体が「金川(カナガワ)」と書かれていた説。神奈川宿付近の川で砂鉄が採れたという説があるが、それが現在のどの川なのかよく分からない。

 

横浜市「金沢」区のカナザワも金川と同じ意味で砂鉄が採れた川がかつて存在していたと云われている。

 

「横須賀」「丹沢」「稲城」「梶ヶ谷」「寒川」なども産鉄地名と言われる。

 

(稲城市は神奈川県ではありませんでした。申し訳ございませんでした。)稲城市や狛江市は、自分の頭の中では神奈川県である。

 

神奈川県内にある「金」や「釜」などが着く地名は産鉄地名と言って良い。

 

金田(カナダ・カネダ)、金程(カナホド)、金目川、金目村(カナメ)、釜田(カマダ)なども存在する。

 

川崎市麻生区の「金程(カナホド)」の地名が歴史にあらわれるのは15世紀の室町時代の中期の記録からのようです。金程の金(カナ)とは金属を意味し、「金っ気(カナッケ)」の多い水が流れる所とか、鉄分の多い砂鉄の取れる所の地名によくつけられるようです。

 

また、「ホト」は「ホド」と読み、「火床(ホド)」を意味する言葉とも取れます。「火床」とは鍛冶屋の製鉄・鍛錬の火のことで、中世には鍛冶屋集団の単位として使われました。

 

一つは鉄分の多い水が流れる奥深い谷間の地。

もう一つは、鍛冶屋集団の金属鍛錬が行われた所。

 

これらが金程の由来かもしれません。

 

もう一つは

「もともとは細山村の枝郷的な地域で、多摩川と鶴見川の分水嶺に位置づく。多摩丘陵の台地上に開けた村で、畑作を主とした地域であった。

金程の地名は、村の中心が東に開けた地域で鑪(タタラ)の火口(ホド)のように見立てて、カナホドとしたと思われる。」

《参照: Yahoo JAPAN》

 

コレは多分、完全に産鉄地名やで!!

 

奥深い谷間は、産鉄地に多い。川で砂鉄を採って鍛治集団の金属鍛錬がそこで行われていた。

鑪の火口に見立てて、カナホドとつけること自体が鍛冶屋の発想だと思われる。

 

金程という場所は元々台地から谷間まで広範囲を指していた可能性がある。

 

厚木市「金田(カネダ)」も中世・戦国時代には存在した。元々は金田ではなく「船田」という地名だった。

 

神奈川県厚木市金田は経由地。戦国時代に記録のある地名。同地を経て1521年から1528年(大永年間)に愛知県西尾市の一色町に移ったと伝える。

 

ここに関してはこれ以外には情報がありません。

 

だから何とも言えないのですが、自分が思うに、鍛冶集団が様々な所を経由して最終的には愛知県西尾市に定着したという事だろう。

 

戦国時代という時代背景から、この鍛治集団は戦時下、逃走しながら分散し、逃走と分散を繰り返し、愛知県西尾市に辿り着けたのは一部の人だけだと思える。

 

横浜市青葉区「鉄町(クロガネチョウ)」だけは産鉄と関係なく例外であると云われているが……

鉄町は産鉄地名と解釈する人もいる。

 

丹沢の“丹”とは水銀や鉄を意味し、丹のつく地名ではかつて製鉄が盛んだったり、よく砂鉄が採れたことがわかっています。丹沢山地、丹沢湖、奥多摩の奥にも丹沢山村があるので、この一帯の山は鉄が採れたことが推測できます。」

 

「秦野市に流れる金目川(カナメガワ)や、丹沢山地を流れる神之川などの“かな”は金属や鉄を意味していると考えられます。それらは山からの川の水流を利用して砂鉄を比重分けする“かんな流し“(鉄穴流し)に使われていた川かもしれません。」

《参照: ブログ 馬の駆ける速度で地球旅|神話から歴史を開放》

 

産鉄地名をググっていると、「谷戸」という言葉とよくぶつかる。

これは倭製鉄であるタタラ製鉄の特徴であるかのように思える。

鉄穴流しで人為的に作られた鉄穴地形か、天然の谷戸地形を鉄穴流しに利用したのだろうか。

川で採れた砂鉄を谷間である谷戸で鋳造や鍛治を行ったとも考えられる。

 

谷戸とは、丘陵台地の雨水や湧水等の侵食による谷を指し、三方(両側、後背)に丘陵台地部、樹木林を抱え、湿地、湧水、水路、水田等の農耕地、ため池などを構成要素に形成される地形のことです。」

《参照: Wikipedia》

 

産鉄地名の場所は製鉄がしやすい条件が揃っている。

 

倭産鉄と神について。ここからは、製鉄民の信仰について書きたいと思います。

 

 

・勝手明神

勝手明神様。戦に勝つ、頭と視力が良くなるご利益がある。権力者などが所有した鉱山などで働かされた鉱夫が鉱山病の失明改善祈願に祭ったそうです。

 

勝手明神信仰が残るところには周辺に鉱山があったということかもしれません。

 

三佛寺本堂秘蔵蔵王権現立像の左には文殊菩薩様が日本の神様に姿を変えてこの世に現れたという物語を持つ勝手明神様です。

鳥取県東伯郡三朝町三朝895

木屋旅館

《参照: 木屋旅館のHP》

 

・虚空蔵菩薩

虚空蔵菩薩は製鉄民の星神明星天子ともいう。

日本全国の虚空蔵山または妙見山と名称される山は全て鉱山である。

 

・北辰妙見尊

房総に仏教が伝播される以前から忌部族の産鉄信仰は星神を拝した。古神道ではその星神を天御中主命と称した。

北極星(北辰)の産鉄エネルギーを一番星に見出した時、その星神は虚空蔵菩薩・明星天子と表現される。

 

妙見は北極星、虚空蔵は金星。全国的に見ても妙見・虚空蔵が製鉄に関わることはほぼ間違いのないところである。

 

・竜蛇信仰

竜蛇信仰はもちろん製鉄民のものといってよいだろう。

熱海の走り湯温泉には地中に竜が住み、湯や煙を吐き出していると言われており、その尾は箱根の芦ノ湖まで続いていると言われている。

 

三浦半島のたたら浜からも近い観音崎の権現洞穴には大蛇が住んでいたと伝えられている。

 

江の島からも近い龍口明神社(旧跡)には五頭竜が祀られている。

 

・出雲地方の八大竜王

 

・出雲・因幡・伯耆地方では「楽々福」と書いて「ササフク」と読む鉄の神がいる。

 

・稲荷社

稲荷社の「稲」も鉄。「イナリ」は「鋳成」ともかく。

 

往時の鎌倉には谷戸ごとにお寺があったといわれていますが、もしかしたら鍛治師や鋳物師も谷戸ごとにいたのかもしれません。

《参照:ブログ 鎌倉遺構探索》

 

タタラ製鉄(倭製鉄)は「谷戸」

 

私が産鉄ネタに目覚めたきっかけは、トラス橋という鉄橋。

 

以降、タタールとアイアンロード(鉄の道・ステップロード)の関係

タタラ製鉄とタタールの関係

チンギス・ハーンと鉄の関係

厚木市金田地区と製鉄の関係

スキタイ人と金属加工

円墳(馬塚)と金工装飾馬具など

 

何かにつけて牧民と鉄の関係性が気になるようになった。

 

脳が金属探知機のようになり、ラップランドの産鉄地名に反応するようになり、倭国における産鉄地名にも手を伸ばすようになった。

 

長文のご精読ありがとうございます。

 

 

参照

《木屋旅館 公式ブログ》

《ブログ 鎌倉遺構探索》

《ブログ 馬の駆ける速度で地球旅|神話から歴史を開放》

《ブログ 谷戸めぐり》

《新百合ヶ丘が好きになる発見サイト ロコっち新百合ヶ丘》

《出雲國たたら風土記 鉄の道文化圏》

《Yahoo JAPAN》

《金田・姓、地名の由来》

《Wikipedia》

🔚

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

産鉄地名

2023年11月24日 | 自己満

冬営地にはなかなか行かれない。

冬営地の候補のひとつである愛川町は遠過ぎるのと、休日に用事があるため、遠出出来ない。季節的に熊の問題があるので躊躇している。

 

先日オーロラの記事を書いた後、オーロラを実際に見に行ったことがある人達のブログを読み漁っていた。

 

どうやら「イエローナイフ」というオーロラの観光地があるらしいのだが、「イエローナイフ」って産鉄地名かも?とかテキトーな事考え始めた。

 

勿論、イエローナイフについてはまだ何も検索してないので、ロシア上空を飛べない今、日本からどのぐらい時間が掛かるとか全然解りません。そんな検索する暇もないが、暇人のようにアホな考えが勝手に巡っている。

 

「イエローナイフ」この地名を初めて目にしたが、直感的に「鉄」だと思った。

 

「ナイフ」は刀剣や鏃と同様に鉄器。黄色い刀剣を鍛造していたのではないかと思われる。

黄色の金属ということは黄金色。黄金色の刀剣だ。しかし黄金色なのにゴールドとはならない。

黄金(ゴールド)製ではないから、わざわざ黄色(イエロー)と称した?

 

てことは黄色い鉄🟡

 

これは少し考えた。

 

黄鉄鉱?!

 

黄鉄鉱で刀剣を鍛造していたのではと思われる。

て事は、イエローナイフは黄鉄鉱の産出地で鉱脈もある可能性がある?

 

違うかもしれない。鍛造だけしていた場所かも。

 

と下らない妄想は止まらない。

 

単なる妄想なので多分全然違うと思う。

 

黄金は鍛造には向かない。

 

 

もしかしたら採掘や鍛造ではなく、サーミ人の伝統的呪術みたいなもので「黄色い鉄器」を使用するなどのスピリチュアル的な由来かも知れないし、比喩かも知れない。

 

しかし「鉄器」地名がここにあるという事はここに「鉄」文化があるという証拠だ。

 

以前書いた、産鉄の記事

遊牧民と産鉄について - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

トルコのアナトリア地方で人類初の製鉄が始まった。そしてヒッタイト人へ伝わりスキタイ匈奴と漢に分かれる。

 

アナトリア地方では、「鉄」に関する姓が多く存在する。祖先が製鉄に関わってきたとの由来。

 

サーミ人はフィン・ウゴル系言語を話す。三角テントに住むトナカイ遊牧民である。

 

実際にオーロラを見に行った人のブログの写真によると、オーロラの元でサーミの三角テントが軒を連ている。

 

「かつてサーミ人は夜空に輝くオーロラは、北極ギツネが夜空を猛ダッシュで駆け巡り火花を放つことでできていると信じていたそうです」

 

X参照: Nomadic Soul ノマディックソウル》

 

サーミ諸語は、ウラル・アルタイ語族ウラル語族フィン・ウゴル語派ボルガ・フィン諸語サーミ諸語

 

匈奴の中で北極圏に行った者は現在のフィン人、サーミ人であり、西に向かった者はフン族(マジャール人)になり、現在のハンガリー人であると、昔は言われていた。

 

ハンガリーの「ハン」、つまりフン族の「フン」。これは匈奴(フンヌ)の「フン」由来であるとも昔は言われていた。

 

サーミ人も匈奴の末裔であるとも言われていた。

 

フィン語もサーミ語もハンガリー語(マジャール語)も、ウラル・アルタイ語族のウラル語族である。

そしてかつては匈奴も、ウラル・アルタイ語族のウラル語族と考えられていた。

 

現代では研究が進められている。マジャール、フィン、サーミは匈奴の子孫とする文献もあれば、彼らは匈奴とは全く関係がないとする文献もある。匈奴はそもそもウラル・アルタイ語族ですらなく、デネ・エニセイ語族だったとする説もあった。

 

実際のところ「諸説ある」というのが現代の解釈である。

 

もしこのイエローナイフ=黄鉄鉱という妄想が外れていなかったなら、以下の事が言える。

 

サーミ人は匈奴の鉄器文化を受け継いでいる。サーミは世界初の遊牧帝国の後裔!その痕跡が残っている!イメージが両者で余りにも違うからそのギャップがかえってアツい🔥

 


サーミ人写真

《参照:Nomadic Soul ノマディックソウル》

 

 

サーミ人写真

《参照: Wikipedia

 

サーミ人が鍛造する姿。想像出来ない。

 

サーミは見ての通り白人であり、匈奴は東洋人の見た目であっただろうと想像出来る。

サーミは元々匈奴だが西洋人と交雑してこのような見た目になったとしか思えない。

例え東洋語を話してても西に行けば行く程、見た目が白人になる。これはしょうがない。

ロシアにいるタタール人なんて、東洋語であるテュルク語(突厥語)を話していたが、見た目はロシアの白人との違いが全く分からない。

黄鉄鉱写真

《参照: Yahooショッピング》

 

黄鉄鉱についてググると、黄鉄鉱は硫黄と鉄で出来ている。加熱すると亜硫酸ガスが出るのと、硫黄を完全に除去するのが困難なために製鉄の材料としては適してないらしい。

 

硫酸の原料として使用される事は多かったらしい。

 

黄鉄鉱は、製鉄の材料などに適していないが、金属の精錬などに使われていたという記事もある。正確にいえば硫酸が金属の精錬に使われたという。

 

銅の精錬に硫酸が使われていたようです。

 

銅の湿式精錬では、採掘した鉱石を積み上げるなどして、上部から希硫酸を散布することで銅を浸出し、溶媒抽出電解採取というプロセスで銅が生産されてるようですが、匈奴の時代、電解はどういう事なんだろうかと思う。

 

硫酸はチタン鉱石も溶解するという。あとニッケルの湿式精錬。匈奴の時代にニッケルやチタンはどうだったのだろう?

 

銅は鉄より昔から製銅されていた。匈奴にも勿論製銅技術はあった。硫酸を使い銅を浸出させていたという事はありえる。ただ「電解採取」に当たるものは何かしらあったのだろうが、どうやっていたのかは謎。

 

匈奴も、スキタイ人や後の蒙古帝国と同じように地下資源を求めて彷徨っていたのだと思う。製銅に使う硫酸を求めて、オーロラの北極圏のイエローナイフにまで足を伸ばした可能性もある。

 

 

サーミ人は匈奴帝国の中心を担って漢と戦ったりはしなかったのかもしれない。硫酸を求めて彷徨った結果、イエローナイフに辿り着き、採掘し、そのままその匈奴が定着しトナカイ牧民・狩猟民となり西洋人と混交し今に至るのかも知れない。

 

 

黄鉄鉱は硫黄を回収した残りかすを、製鉄の原料としていたこともあったらしい。製鉄の主力はただの鉄鉱石だったが、黄鉄鉱のカスもついでに使おうとなったのかも。だからサーミの経緯については一概にいえない。

 

 

イエローナイフ=黄鉄鉱という妄想はロマンあるけど多分めちゃくちゃ間違いかも知れない。

 

 

でも「ナイフ」という名称が凄く気になる。刃物というと即「鉄」を想像してしまう。

 

今日はオーロラからの、産鉄地名からの、倭国産鉄地名の事まで書こうかと思ったが、結局はイエローナイフと匈奴とサーミ人で終わった。

 

これらはあくまでも、自分が勝手に妄想で言ってるだけなので。

 

サーミと黄鉄鉱(硫酸)は関係あってもサーミと鉄器文化は関係ないかも知れない。匈奴の冒頓単于とサーミ人は遠い血縁関係はあっても、匈奴帝国を築くずっとずっと前に分かれた遠い親戚関係であって、サーミと匈奴帝国は関係無いかも知れない。

 

これらをググる暇が本当になくてテキトーな事を言ってるので鵜呑みにしないで下さい。

 

金属の事ばっかに偏ってしまい、歴史の話が疎かになった。こういう話は長い時間をかけての取り組みがいる。いきなり手を出すとデタラメなことを書いてしまう可能性がある。

 

 

また惰性で長々と書いてしまいました。

 

次回は倭国産鉄地名の事を書きたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする