斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

金鎧人とカネ=ディアンについて

2023年08月17日 | 自己満

今日の記事は、めっちゃめちゃ長いです。

VIVAN(ヴィバン)というモンゴルや中央アジアが関わる内容のドラマが始まり、日本のお茶の間でも内陸アジアへの関心が高まるようです。これは本当に感謝すべき事です。毎週楽しんで見させて頂いております。

 

いつもいつもこのネタばっかで読者は飽ききっているか、オマエ何を言っているんだ?と思われるかもしれませんが、様々な論文や書物などの情報を得ていると次々と過去への憶測が沸く。

 

何故こんなに金鎧部落が自分の関心を引き留めるのか?

 

過去の記事

 

金鎧集落について 結論(後編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

テングリ信仰(天神)の金鎧人という遊牧ディアスポラの他に、テングリ信仰とチベット仏教を併せ持つカネ🌹ディアン🌹という遊牧ディアスポラが相模川右岸に宿営していたのではないかと思われる。

カネ🌹ディアン🌹とは金田(カネダ)という部落名から取った。

 

金田=金鎧部落にある天神祠(テングリ祭祀場跡)を囲う地面は円形に形どられている。冬の時期は円の外と内で色が違い夏の時期(7月初旬)は円の外は草が生えているが円の内は草一本も生えていなかった。草を刈りとった跡などもなく、元から生えていないように見受けられた。

 

8月中旬にそこへ行き、円形の内側を確認すると、石や砂利などが埋まっているのが確認出来た。表層の浅い土の上のように根が浅くても生える草や苔があった。円形に積まれた石堆や色々な物が今でも土の中に埋まっているようにも考えられなくもない。

或いは近年人為的に敷いた砂利か。

 

 

 

 

天神祠の円形の外側の雑草が枯れている。これも石堆物が関係しているのであろうか?根が深く張ることが出来なくて根と身の成長と共に結果的に枯れてしまう。これが本当の石堆の範囲なのであろうか?

 

 

この事から、ここが石堆形オボーだったという事がより一層確実になったような気がする。

円の内側には松をはじめとする木が3本植えられている。恐らく石堆に穴を開けて土を入れて植えたのであろう。天神祠は石祠が2塔建てられている。この石祠は倭人の後づけであろう。

松属の多くは浅根性で、深植えすると弱って死ぬケースが多いそうです。

《参照: 園芸相談センターの過去ログ》

 

松の両脇の2本の木は同じ種類の木だが、これらも浅根性だろうと思われる。それらを計算して植えたのだろうと思われる。

 

 

天神祠はこの部落の人々が祀ってきた、私には全く関係ない祠。部外者の私が写真などを撮って良いはずはない。しかしオボーへの好奇心や大陸への憧れに勝てずこのような事をしてしまった事を大変申し訳なく思っています。

後で何か起こらなければ良いが

オボーであれば、オープンマインドなのではないか?と思ったりもする。

しかしこの部落は歴史的な事情もあって、他所者を好まないといった空気があるように思えた。

 

 

金鎧人とカネ🌹ディアン🌹の大まかな違いについて書く。

 

金鎧人: 倭国に移住した大元ウルス(元帝国)時代の遊牧ディアスポラで特定の共同体。テングリズム信者

 

カネ🌹ディアン🌹: 倭国に移住した北元時代の蒙古系のディアスポラ。チベット仏教徒&テングリズム信者

 

カネ🌹ディアン🌹は、ハルハ族の可能性が高い

ハルハ族とは現在のモンゴルの主流民族

北元、タタールともいう。

 

その頃相模川右岸に宿営していたカネ🌹ディアン🌹の出身部族の名称の特定までは出来ない。

 

倭国中にカネ🌹ディアン🌹は散在していたのだろう。

 

カネ🌹ディアン🌹の存在に気づいた理由は石堆形オボーによる。これを築くようになったのは、意外にも新しかった。蒙古人がチベット仏教採用後に始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。

 

一般蒙古人がチベット仏教徒になっていったのは、17世紀以降。ハルハ人はいち早く仏教徒になった。

 

金田の地名の由来になった金鎧人という特定の共同体が相模川右岸辺りに来て、愛知県西尾市に移住したのは1521-1528(16世紀)。時代的にズレがある。金鎧人は相模川右岸に定住していた海賊の村を潰してそこに一時的に宿営していた。金鎧人の部族の大半は愛知県西尾市に移住したが、ここの地利を利用して商売などをするために例外的に残留する者もいたという。

 

金鎧人渡来以降も何波にも遊牧民が倭国に移住する。しかし彼らは蒙古系コミュニティである金鎧集落を頼ってここに移住して来たとは考えにくいのである。

 

かつて残留した金鎧人は商売をしているうちに別の土地へと流れて行ったのだと考えられる。

定住商売ではなく、行商などの流動的なものであったのであろう。考えられるのは馬や牛などの動物の売買。

 

金鎧人とカネ🌹ディアン🌹は同じ集落に混合して住んでいたとはどうしても考えられないのである。金鎧人が仏教徒を受け入れるとは考えにくい。

 

遊牧民がコミュニティーを頼って集住するという話を聞いた事がない。彼らには元々という概念がない。

 

現代のカザン・タタールとは慣習が違うのである。

 

よって、金鎧人とカネ🌹ディアン🌹を別物と考える方が自然である。

 

金鎧人について、以前は蒙古系遊牧民としていたが、詳しくは蒙古系かどうかは解らない。

金鎧人があの場所にテングリ祭祀場を作っていたとすれば、時代的に木柱形のものである可能性が高い。

 

天神祠の脇の立札に書いてある「国土を守護する天乃神」の神観はテングリ信仰で、ソーハン・ゲレルト氏の論文によると蒙古人の信仰観であるようだ。

 

ディアスポラ歴が400年以上の金鎧人が口承で400年以上テングリの神観を子々孫々伝えて来たのではないか?とかつては考えていたが、それは金鎧人のものではなく、カネ🌹ディアン🌹ではないかと考えられる。カネ🌹ディアン🌹の一部が子々孫々に口承で伝えて来た可能性が高い。

 

オボーとは石または木で作られ、平原や平原にある高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多い。チベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリといった宗教的意味を示す役割を持つが、同時に境界標識や道標としての役割を持つ。

《参照: Wikipedia》 

 

カネ🌹ディアン🌹オボーは、川から程近い平地にある。道標としての役割もあるのか、細い道沿いだが少し奥まった場所にあり、田道沿いにある。カネ🌹ディアン🌹オボーの土の下に石堆や色々なものが埋まっているという可能性が高いと書いたが、何故埋まった状態であるのか?

それは長年に渡って相模川の氾濫により土砂が堆積しオボーの下の部分は土に埋まった。相模川は現在の水面の位置よりも高かったと思われる。

川砂利の過剰採取とダム建設による砂利の供給力低下で、橋脚が剥き出しになるほど砂利が少なくなった。川の水位も低下。

 

カネ🌹ディアン🌹オボーにはかつて石が積まれていたのかも知れないと考えられる。

しかし高度経済成長期に、建材の材料として相模川の砂利同様、石堆も一緒に強制的にパクられてしまったのであろうか?

 

今から300年以上前は現在よりも相模川は厚木側に寄っていたのではないかと考えられる。

 

オボーは平地や高所に多数存在するようだが、川や湖の近くにも多数存在している。

 

金田=金鎧部落を含む相模川右岸一帯は、時は違えど金鎧人及びカネ🌹ディアン🌹の宿営地であった可能性が高い。

 

カネ🌹ディアン🌹問題を北大スラ研(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)に取り合って欲しいと思った。日本に絶対いるでしょう。遊牧ディアスポラ。相模川沿岸部以外にもこれらの人々は散在していると考えられる。

研究者が一番困難を極めるのが、聞き取り調査(ヒアリング)だと思われる。ヒアリングは非常にデリケートな問題や、他人には話す事が出来ないプライベートな問題などが含まれている。

プライバシーの侵害や人権問題に抵触する可能性等、フィールドワークをする文化人類学の学者などはこの問題とどのように向き合ってヒアリング調査を行っているのか非常に気になるところだ。

 

他所者の他人である研究者がズカズカと入って行って良いのだろうか?と自問自答する事があるのでは?と思う。いくら仕事といえど

 

研究対象の場所によっては、人心穏やかではない所や他所者を受け付けない所や、行政からの圧や行政からの不当な扱い、外からは見えない、当局からの制度に縛られている所、警察による暴力、部落の周囲の人間からの差別や偏見などの扱いをされているところがある。

 

本当にこれは日本か?と思える場所もある。

 

結構な栄えている街から5kmも離れていないところにその様な現実がある。外からは何も見えない。でもそれは事実。街歩く人はみな幸せそうに見える。

 

日本の平和神話は虚像なのか?と思えたりもする。

 

見えない水面下の戦争….

 

そのような所にも研究者は足を踏み入れる事もあるだろう。

 

 

水面下にある紛争が表面化したのがドンパチだと思える。見える戦争は氷山の一角。

ドンパチの背景は非常に根深い。あの国とあの国の戦争も非常に根深い水面下の紛争があってNATO加盟の件を引き金にある国が侵攻を始めた。兄弟国を侵攻した。

例えるなら、これは生き別れた双子の兄弟が

互いに敵対する里親に引き取られ、その里親同士の代理戦争をさせられている。

というのが私見。

 

とはいえ、実力行使をした方が断然悪いに決まってるので自分は支持も擁護もしない。

 

 

金鎧天神祠。

 

天神様も平和というものが信用出来ない。

 

これとの出会いと、ある国とある国の戦争をきっかけに平和とはどういう事なんだろうと考えさせられるようになった。

 

平和な日常に感謝をする事が一番大切だが、これは容易ではない。

平民として生まれた私には自分が平和である事に気づく事すら容易には出来ないが、新平民や未だに平民になれない人たちに(直接関わってはいないが)関わると、自分は平民に生まれて良かったと気づく事が出来る。残酷だが。

より下にいる人間と比較して自分の境遇は幸せだと感じるのは最低な人間がやる事だと考えていたが、自分の最低さに対する気づきと同時に自分の境遇が恵まれていることへの感謝が生まれるという非常に複雑な感情になった。

 

…………………………………………………………………….

 

この歴史的集落の住民の全てがカネ🌹ディアン🌹の後裔とは限らないが、後裔も存在すると考えられる。彼らは自身のルーツを知っているのか?

オボー祭りやツァガンサールなどが執り行われた形跡は無かった。

 

遊牧文化などはカケラも残っていなかった。ここは日本だから当然と言えば当然に思えるかも知れない。

しかしこれが当然とする事を疑う事を知った。

 

天神祠の立札は

私達は確かにここに居た。あるいは私達は未でもここに居る。という意思表示のために書かれたのでははないかとも思えた。

 

 

ユーラシア大陸と日本の歴史的繋がり、血縁的繋がりが証明されれば、ユーラシア大陸諸国から本当の意味で相手にされる。

日本は孤立無援ではなくなる。

 

英国と北米主導の論は日本語は孤立言語。日本人は大陸のアジア人と血縁のない孤立人種。

日本は孤立文明。精神の孤児。

孤立無援の惑星のような扱いをする。

これらは余りに酷いではないか!!

北米の論文では日本が文明の発祥であり、日本から海外に移住していったが、海外から人は来ていない。という。

日本人は海外に出ない限り世界とは何も繋がりがないらしい。

 

これでは、この歴史的集落のここにいるような人たちの存在や犠牲などがに帰されてしまう。

 

さすが鬼畜米英である。

 

こう書かれると、中露は軍事的な天敵だが、本当の日本と日本人の天敵は英国と北米なのではないかと思うようになってしまうのはしょうがない。

 

英国と北米は日本がユーラシア大陸と繋がってしまうことを懸念しているのだろうかという邪念まで抱いてしまう。英国テイストのものはとても大好きだが英国は大嫌いだ。複雑な気持ちである。

 

カネ🌹ディアン🌹オボーに出会えた事を本当に感謝している。これにスラ研(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)の研究の力があれば、ここにこの人たちが本当に居たのだという事が証明されるのかも知れない。

 

金鎧人と金田人とすべきだが、金田人の田人の漢字が本当によくない。遊牧民族なのにベトナム人のような農耕民族を連想するか、田に縛りつけられ農業従事する農奴を連想させられる。

 

金田人の田人の部分に非常に抵抗があるため横文字化をした。

 

カネ🌹ディアン🌹のネーミング法則は、千葉で発見された地層、チバリアンに着想を得た。

 

田人よりよっっぽどいい🌹

 

 

*余談だがロシア帝政期の農奴制は、日本の徳川幕藩体制下の農民に対する政策を参考にしたという説もある。

 

その他にも帝政ロシアは、徳川家のやり方を参考に民の治め方を見習ったという。

 

 

ここまでのご精読ありがとうございました。

 

遊牧遺構 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

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万が一海外移住するならどこの国?本当に頭おかしくなりそうな問題

2023年07月22日 | 自己満

真剣に真剣に考えて出した答えが

 

オーストラリア🇦🇺

ニュージーランド🇳🇿

ハワイ(🇺🇸)

 

日本が中国共産党の軍事脅威、ロシアにも侵攻される危険性もゼロではない。万が一というほど可能性が低くもない。

 

台湾の若者が、海外移住を計画する者が多いという内容をテレビで見た。

 

理由は中国共産党軍の脅威。

 

台湾がいつウクライナみたいになるか解らない。

 

移住先国についてはテレビで明かされていなかった。

 

 

日本人がWBCに沸いていた233月。日本海上空をロシア軍機が7時間飛行していた。これはYahooニュースのみで、テレビでは報道されていなかった。

これは茶番ではありません。

 

自分が以前の記事で*金鎧集落(蒙古系遊牧民の宿営拠点のひとつ。)

 

金鎧集落について、一番言いたかったのは

 

 

日本海は所詮に過ぎない。

 

 

ということ。

 

モンゴル帝国の時代とそれ以降。元軍は怯んだが一般国民が度々日本海を渡り、何波にも渡って日本列島に来ていた可能性が非常に高いのではないかと考える。

 

自分は平和ボケだが、自分よりは少しだけマシな平和ボケが、日本は海洋に護られているから大丈夫だよ….

と言う。

 

これは、太古の昔から「海」とりわけ「日本海」のお陰で護られて来た。と考えられて来たが、日本が侵略されなかったのは、侵略するほどの価値が無かったからではないかと考える。

 

それは太古の話である。

 

日本史では必ずと言って良いほど、「朝鮮半島を経て」大陸から人や文化が渡って来たと書かれている。

 

玄界灘さえ封鎖すれば、侵略や不法入国を防げられるかのような印象を受ける。

 

しかし、テングリ祭祀場の痕跡を見つけてしまってからは、必ずしも朝鮮半島を経て日本に到達するというわけではないという事に気づいた。

 

民間の遊牧民が直接日本に来ることはまさか無いだろうと以前は安直に考えていた。

 

朝鮮半島を経なければ来られないのであれば、朝鮮人の抵抗に遭って、来日は難しくなる。さもなければ朝鮮王朝を倒して平定してその上でという事になる。これが大元ウルス(元帝国)であるが、

自分が見たものは、元軍遺構でも無ければ、元寇の時代より降るもののようであった。

 

民間のテングリ(天神)信仰の現存する痕跡があるという事は?とよく考えると、モンゴル国土から直に日本に渡って来たのだろう。

 

当時、女真族というツングース系の民族が沿海州沿岸にいた。彼らは造船技術と航海に長けていた。民間の遊牧民は事情があって日本に渡りたかった。女真族に船舶と航海技術者を手配させて沿海州から日本に来たのであろう。

 

当時の日本は入国管理というものが皆無だった。

 

日本海は我々日本人が思っている以上に、彼らにとって渡り易い。

 

世界地図を逆さまにして、ロシア側から日本を見ればわかると思うが、日本海はまるで湖か池である。

 

その気になれば、目と鼻の先。

 

日本もウクライナのように

 

ロシアだけではなく、中国からも目と鼻の先。2つの軍事脅威に晒されている。北朝鮮も含めると更にやばい。

 

さぁ。どうする日本?どうする自分?

 

中国、ロシア、北朝鮮から出来るだけ離れたい。

 

となると、より南へ南へ移動するしかない。

 

なぜ南太平洋かというと、消去法で

 

ユーラシア大陸インドや東欧やフィンランドまでは中露の脅威がある

 

東南アジア中国の南シナ海への脅威

 

西欧アジア蔑視と大量の移民難民まみれ

 

中東・アフリカ政情不安、治安

 

北米

米国銃社会、アジア蔑視

 

カナダ米国の脅威、アジア蔑視

 

アラスカロシアの脅威、寒すぎる

 

中南米

中米治安

 

南米気候が年間を通して高温多湿、治安

 

グリーンランド寒すぎる

 

残された選択肢は南太平洋

 

ハワイは米国だが、銃規制が本土より厳しく、比較的富裕層が多い為治安がそんなに悪くはない。日系移民も多く、アジア蔑視も少ない。

 

しかし、ツバルなどの島嶼温暖化により海没

 

中露課題の次は温暖化問題。それ考えると南進するのはどうかと思う。

 

温暖化が進む事によって海没もそうだが、元々温暖な地域は砂漠化とか、日本に於いても米や桃など日本の特産物が取れなくなる。そして食糧難。

 

そうなるとロシアとか中央アジア、モンゴル、トゥバ共和国辺りの緯度の方が住みやすくなるのかも知れない。逆にこっちの方が作物が取れるようになる可能性が高い。

 

結局内陸アジアに戻って来る。

 

そうすると中露の脅威が!

ってなる。結局一番マトモな移住先は

 

グリーンランド🇬🇱一択という結論に至る。

 

寒すぎるグリーンランド🥶

 

でも逆に、極端に北極圏で氷が溶けたり永久凍土が溶けて地面ズタズタになったりする可能性がある。

 

しかし、ネットで調べてみるとグリーンランドは温暖化による恩恵もあるのだとか。

 

 

グリーンランド「温暖化の恩恵」を先進国は非難できるか:秌場聖治(あきば・きよはる) | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト

グリーンランドではいま、温暖化によって毎秒1万トンの氷が消えるという。だが、温暖化が漁業や資源開発にプラスに働き、グリーンランドに恩恵をもたらすとともにその地政学...

新潮社 Foresight(フォーサイト)

 

 

という事で、とりあえずこの問題は一件落着。

 

 

《金鎧人хуаран》モンゴル帝国民(チベット仏教以前)の宿営地

 

《カネディアンхуаран》アルタンハーンが皇帝の北元の人民の宿営地

 

とよぶことにしたがこれはややこしいので後に書く

 

モンゴル帝国に金鎧て名前勝手につけるな!と言われそうですが、あの辺り、金国だの金帳汗国だの、アルタン・ハーンだの、アルタン・ドプチだの、とにかくがつくものが多く、紛らわしい。

 

金国は金(キン)。女真族が建てた国。モンゴルが潰した。

 

モンゴル帝国チベット仏教以前は金鎧(キンガイ)

 

アルタン・ハーン皇帝時代のチベット仏教浸透後は金(カネ)とする。

 

☀︎カネ🌹ディアン🌹の。これは

カネディアンは、中国北部で定住化し、一説によると田従事していたという話もある為、でも問題はない。漢人に田従事させられていたものだと考えられる。

 

カネ🌹ディアン🌹(アルタンハーンが皇帝の頃の北元(モンゴル帝国の続き)の人民)は、中国では明の時代。漢人からは北虜と呼ばれ、カネディアン本人らは、自称東タタールと言う。

 

また出て来た

 

タタール

 

そしたら金帳汗国の主要民族であるタタールは

西タタールなのか??以前の記事で、タタール人がタタールという名前に嫌悪を覚えるという事を書いた。モンゴルを連想するから自称ブルガールと言う

 

以前の記事

ロシアユーラシア文化交流講演会、チャリティー企画材料市、東京ジャーミー、天幕のジャードゥーガル - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

カルガリーという名前について朗報! - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

そういう事なのか??

 

しかし、いったいタタールとは何なのか?

 

という称号や国号やその他もタタールと関係しているのだろうか?

 

後日書く。

弘安の役の件も書く書く言ってまだ書いてない。

 

結局自分は蒙古の事ばっか考えているのだ。

 

金田陸橋を金帳陸橋に空目してしまい、2度見しても金帳陸橋。金帳?帳って蚊帳の?

何て読む?

そして3度目見で金田陸橋、もう一度確認しても金田陸橋。しかし今の何だったんだ?どっちが正しいんだ?

 

金帳ってどう読むんだろう?

 

その頃はまだキプチャク汗国を金帳汗国と読む事を知らなかった。

 

忘れもしない。初めて金帳交差点で金帳陸橋と出会した時。

 

そして他の場面、青い標識でも2度金帳を空目した。

 

何なんだろ?

 

私って異能力ある??それかタタールに呪われているのか?それか単に蒙古のコトばっか考えてるからこうなるのだろうか?

 

後日書く

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黄金原(こがねばら)。ここももしかして?!

2023年07月10日 | 自己満

地名にが入るバス停を発見。これも蒙古と関連ある?

厚木市黄金原(こがねばら)

これぞАлтан Талбар(アルタンタルバル)

黄金(Алтан) (Талбар)

Талбарというのはというよりも原野の方がニュアンスがとても近い

黄金原という地名はなく、バス停のみ存在する。

その隣のバス停は小金(こがね)という。

現在の黄金原と小金の住所は緑ヶ丘である。

それらは昔の地名なのだろうか?

もしかしたらここも金田と同じように蒙古集落だったのかも知れない。

黄金原と金田は意味が全く同じような気がする。

 

がしかし、金田は元々はではなく金なんとかという、別の名前の集落であった。

 

江戸中期に幕藩体制という、人間が人間を徹底管理、支配するという治世が始まり金なんとか集落に大量の倭人を強制移住させ、蒙古人たちと強制的に政略結婚をさせて倭人化し、それらを田に縛りつけ農業従事させ、遊牧民の主要な宿営拠点のひとつを田地に変えた結果が金田の由来だ。

日本全国の異民族集落は、倭人化をさせられた。

 

黄金原はそれとは違うニュアンス。

 

天下統一を果たした徳川家はその後人民の奴隷化、家畜化を徹底した。

 

厚木市黄金原の地名の由来をググったが、何もヒットしなかった。

おそらく黄金原、元々は小金原。小金というバス停もある。

 

小金が黄金になった。

小金の範囲が広大でバス停を2個使う距離なので、もうひとつを黄金原にした印象である。

厚木市小金の地名の由来もググったが、何もヒットせず。

 

勝手に類推すると、砂金か砂鉄か、製鉄、冶金、鍛治、鉄工に関するものだろうか?

 

黄金原、小金、共に(カネ)と読むので砂金の可能性がある。それか蒙古に多いアルタンという地名の名残り。カネとは、お金や金(きん)のようにそれだけで価値のあるものを指す。

 

これが(カナ)であれば砂鉄、製鉄、冶金、鍛治、鉄工の可能性がある。

 

仮に金田がカネダではなくKanadaと読むのであれば、製鉄に関する所が多い(産鉄)

 

金田と書いてKanadaと読む人は製鉄奴隷の後裔であると金田の地名・姓の由来に書いてあった。

 

読みがなひとつで意味が変わる。

しかし、稀にカネと読んでもカナと同じく産鉄である場合もある。

 

黄金原のバス停を降りて少し歩いた所に武部鉄工所があった。

黄金原バス停付近は工場が沢山ある。

鉄工所は工場に便乗して建てたものなのか、古来より鉄工業が盛んな場所で武部鉄工所が現存するのか?

 

小金、黄金原の由来は鉄工業からきているという仮説が立つ。

 

そこら辺を実踏して、天神杜を探したが見当たらなかった。

 

自然の川(恩曽川)が流れていて、川沿いを実踏。川沿いは田地である。

 

川のほとりに、墳丘のような盛り土があり、石で囲われ、天辺に木が植えられている一画があった。

 

 

何の文字表記も無かった。何なのか全くわからない。

 

金田(金鎧)集落のようなテングリ祭祀場なのか、後期古墳時代の円墳なのか何も解らない。

 

その後も川沿いの田地を実踏。目立つところにテングリ祭祀場はないか探したが見当たらなかった。

 

鉄工業の可能性が濃い気がした。

でも実際、鉄工業なのか?蒙古集落なのか全く解らない。

 

*金鎧のようにテングリ祭祀場に関する、モンゴル帝国時代そのままの神観、信仰観を子々孫々に口承で伝えられ、立札に神観、信仰観を記しているという場所は無かった。

 

金鎧: 以降金田を金鎧とする。

という漢字は農耕民の土地を現し、金鎧集落民の誇りを損なうものなので以降とする。

 

金鎧のようなケースは全国的にも大変珍しいのであろう。

 

例えテングリ祭祀場があっても何の表記もなければ、全く解らない。

 

テングリ祭祀場は、通常ひとつの共同体にひとつである。道理でここにもある筈はない。

 

 

黄金原は金鎧とは違い黄金原からは金帳汗国を連想することが出来ないし、空目する事も無かった。

 

金鎧集落のような、砂漠みたいで人心荒い感じは全く無かった。

 

集落の人間がその土地を創り出すものなのか?と思える。緑地であっても砂漠出身の民が宿営、入植すれば砂漠のようになる。

 

昔の漢人がよく言ったように、内蒙古の砂漠化は過剰放牧による。を連想してしまったが、

 

それは荒唐無稽な言いがかりである。

遊牧民は元来砂漠のような土地に住む。内蒙古地域は始めから砂漠地帯であった。

 

これ以降の内容は尋常な人間であるほど理解し難い為、神や仏などを否定する者は読まなくても良い。

 

金鎧のテングリ祭祀場に関わった事が原因かどうか良く解らないが蒙古斑()とスフバートルコーヒー()と縁が切れてしまった。

 

無関係だと思うが、完全に無関係とも思えない。

聞き取った神はテングリなのか、アルタンジャルガル神なのか、ダルハチン神なのか、よく解らないが、私が気にくわない国を見抜かれてるのか?

 

出来れば取り上げたくもない非常に気に食わない国に関わるであろうバンドを終わりに追い込んだり、気に食わない国の都市名の店を遠ざけたりされているような気がした。

 

スフバートルコーヒー()は、()というように全くを持って正式な名称ではない。

 

スフバートルコーヒーの本名はバンクーバー・コーヒーという。

バンクーバーという店名が気に食わなかったが、店自体はとても素晴らしかった。これのどこがバンクーバーと関係があるのか目を疑う店舗名だった。

 

そのため、素晴らしい英雄の名前を自分が勝手につけてスフバートルコーヒーと呼んでいる。

 

 

バンドについていえば、解散を惜しむ人はめちゃめちゃ多く、自分だけではない。自分はニワカに過ぎない。しかしそのような意味では同志である。

 

某都市名店も、沢山の人に惜しまれながら移転していった。自分は常連でもヘビーユーザーでもなく、たまにしか行かない客であった。しかしそのような意味では同志であった。

 

その2つが被っているのは自分だけかもしれない。

 

金鎧に関わると暫くは蒙古タンメンにありつけないという不思議な現象が続いたが、これも無関係だと思うが、完全に無関係とも思えない。

 

蒙古タンメンが会社にある自販機で3(満タン)であっても売り切れ表示が出たりと、奇妙な怪奇現象が続いた。

 

強制的に買えないように工作されている気もした。ダルハチン神に力づくでされているのか。

 

知らんけど。

 

 

そのうち蒙古タンメンが自販機から消え、別の商品に変わってしまった。

 

神にそんな強制力はないだろう?と思った。

 

モンゴル人は蒙古タンメンの存在が気に食わないという話はよく聞く。金鎧神も蒙古タンメンを非常に気に食わないのかも知れない。

 

 

金鎧神は遊牧神だ。モンゴル帝国時代を経た神である。モンゴル帝国の人々と共にあった。遊牧民が信仰してきた神だからどういう性質の神なのかよく考えてみる必要がある。と思った。

 

 

先日、ロシア・ウクライナ戦争の件で非常に胸糞の悪い事件を聞き、金鎧テングリ祭祀場にロシア、ウクライナ問題について持って行き場のない想いを伝えに行った。そして世界平和を祈った。

 

金鎧神にとって、ロシア、ウクライナ問題よりも祈祷者の気に食わない国の方が目について仕方無かったのか?

 

祈祷者の気に食わない国の奴を遠ざける事の方が優先事項だと思ったのか知らんけど、その国の奴らは遠ざかってしまった。

 

それがバンクーバーと蒙古斑()

 

モンゴル帝国、チンギスハーンは、気に食わない国を次々と潰して拡大した。

 

そういう指導者を導いた神だからなのか?祈祷者が今祈っている内容よりも、祈祷者が気に食わない国などに過敏に反応してしまったのかも知れない。そういうものにいち早く気づきやすい性質なのかも知れない。

 

気に食わない奴を遠ざける。心の安泰。という意味で個人的な平和は保障される。

 

 

でも自分は蒙古斑()を非常に気に食わない国の奴だとは微塵も思っていない。それは此れからも変わる事はない。

 

蒙古斑()はトゥバ系モンゴル籍の人間が牛耳るバンドだと思っている。昔とは違い、現在は気に食わない国の奴らはトゥバ人に隷属している。

 

蒙古斑()2度捨てたりはしない。

 

遊牧民は、自分が気に食わない相手の人生などぶっ壊しても構わない。潰す事を優先する。

 

そういう神である可能性が高い。

 

さすがシャーマニズムの神である。

 

ただ、バンクーバーにしろ蒙古斑()にしろ殺すところまでは行かなかった。

 

 

でも自分は、自分の推しが例え非常に気に食わない国の奴であっても構わない。

 

推しは推し。国は国。分けて考えている。推しがもし気に食わない国の奴という事柄が事実だとしても、それを信じない。絶対に信じてはならない。

 

推しのカフェが気に食わない国の都市名だったとしても、店名と店は関係ないと考えている。

 

非常に複雑で、沢山の矛盾を孕むことになるが、極力それを見ない。たまにその情報が顔を覗かせ苦痛になる事はあるが、早く忘れるように努力をする。

 

もうひとつ考えられるのは、金鎧神自体が気に食わない存在を遠ざけたという事。

 

スフバートルコーヒー()についていえばバートルとは英雄を意味する。金鎧神にしてみれば、英雄というのがチンギス・ハーン以外に存在するという事が非常に気に食わなかった。

 

蒙古斑()についていえば、金鎧神と金鎧人からすれば気に食わないトゥバ人の英雄の存在。

トゥバ人の英雄を頂点とするバンドを解散に追い込んだ。

 

考え得るのはそれだけ。テングリ祭祀場と関わった事とは全て無関係だったのかも知れない。

 

テングリ祭祀場に相模川の河原の丸石を備えたのは2度。一度目は挨拶と世界平和で二度目は日本と大陸の繋がりが強化する事を願った。

 

金鎧テングリ祭祀場は、実際に日本と大陸の繋がりの拠点だと信じている。金鎧人はディアスポラ歴が400-500年ある。日本の土を初めて踏んでから約400年以上経つ。幕藩体制や鎖国以前は、彼らの宗主国とのやり取りはあったのだろうか?

 

テングリ祭祀場から相模川の河原まではとても近いが、河原に辿り着く事が困難を極める。テングリ信仰は異民族信仰なので、それを知る幕府か新政府から地味な嫌がらせを受けているようにも取れる。テングリ祭祀場と河原の間に意図的に、様々な障害物が設けられている。

 

農民の畑とか、背の高い草で作られた迷路のような細い危険な路。河原から、広いマトモな道に直通する道や階段などは一切存在せず、一度細い路に迷い込んだらどうやって戻れば良いのか分からなくなる仕組みのようだ。

4月の頃より草の背丈が伸び、一層困難になった。

テングリ祭り(通称、オボー祭り)は宗主国であるモンゴルでは夏の終わりにやると言われる。

 

夏の終わり。当時では多分8月下旬ぐらいだと思うが、その時期に合わせて障害物として植えた草の背丈がピークに達するように計算されているかのようだ。

 

多分この薮や草は人為的に植えられている。

 

オボー祭りにはたくさんの丸石が供えられる。簡単に河原の石が持って来られないように妨害したらしい。

 

先日、上郷水管橋の撮影に行った際、橋の袂のベストスポットで撮る為に厚木市金鎧のその河原に行った。

 

以前行った時のように、河原の小路の山のような不法投棄は全て片付いていた。

憶測の域は出られないが良心的な清掃工場の人が見かねて引き取ったのだと思われる。

 

この河川敷は尋常とは全く違う。

 

草の中の危険な路を延々迷っているとき、幕藩体制以降の金鎧人の気持ちの一部を追体験出来る。

 

小路にはバイクの轍があり、非常に危険である。そもそもこの集落は治安が悪い。

 

このような危険地帯には、危険な暑さの日など悪い奴が出歩く可能性の少ない日を選んで足を運ぶしかなかった。

 

人は馬上で過ごす時間の方が長い…“

(モンゴルの諺)

 

そんな言葉がよぎる。人ひとりしか通れない小路にバイクか。この集落民なのか、外部から来た人なのか?

 

この土地の記憶なのか?徒歩人より馬上の人(バイク上の人)を呼び寄せる。

 

その日は橋の用事で金鎧に来たのでテングリ祭祀場に寄る予定は無かったが、気になったので立ち寄る。

 

ブログでテングリ祭祀場の事を書き過ぎたので天神杜の説明書きが撤去されてしまったのではないか気になったのだ。

 

天神杜の説明は依然、撤去されていなかった。

 

驚くべき事実が判明。

 

天神杜の範囲が円形に形どられている。円の内側は、長年、円形に重い物が置いてあったかのように、土の色が変色している。

 

円錐形の石堆積が長年置かれていたかのように。

 

驚いたのは、円形の内側の土に雑草の一本も生えていなかった。草を毟りとった跡はない。円の外には草が生い茂っていた。

 

円の内側に草が一本もないという事は、この円の下には石堆積の礎が埋まっているのでは!!!

 

これは単なる私の妄想ではなく…..

本物のチベット形石堆積オボーが、ここに実在していた!!!

 

凄い!!ビリビリビリビリする!!!

 

いや”----- ここに遊牧帝国の名残りが本当にあった😱

 

円の外の草は人為的に植えられた草のようであった。

 

皮肉にもそれは、金鎧相模川の河原に人為的に植えられている草と同じ種類の草だった。

 

ここの住民が皮肉を込めて人為的に植えたのだろう。

 

金鎧集落についての記事↓

 

金鎧集落について 結論(後編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

スフバートルコーヒー(仮)について↓

スフバートルコーヒーの移転💔 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

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蒙古斑(仮)の解散宣言💔

2023年06月07日 | 自己満

本当に自己満足な記事。糞長いので、読まなくても良い。

 

ただ吐き出したいから書く。それだけ。蒙古斑()というパンクバンドが誰なのか知ることも詮索も共感も必要がない。

ただこの記事では、モンゴルと向き合いモンゴルへの先入観を覆し、好意を抱いていく過程にも触れている。好意を増す為に“蒙古班(仮)”というパンクバンドという存在は大きな手助けとなった。

 

蒙古斑()が、5月吉日(この場合吉日として良いのか。)解散宣言を報じた。蒙古斑()とはモンゴル🇲🇳エルデネト出身で、トロントに拠点を置いていた。現在はロサンゼルスに拠点を置いている。2000年台に一斉を風靡した、世界的超人気のパンクバンドである。日本にも十数回から20数回来日している。

日本でまず、知らない人はいない。

 

彼らの言葉を借りれば

1996年から蒙古斑()で活動し、私たちは人生で最高の瞬間を迎える事が出来ました。

(中略)

蒙古斑()は解散する事になりました。

まだ、現在予定されている全てのツアー日程を終え、最後のアルバムをリリースし、それを祝う最後の世界的ツアーを行います。

(以下略)

 

という解散宣言を、吉日の朝蒙古斑()のツイートにより知る。

 

解散宣言をしたらパッと解散して、以後のツアー予定も辞めて、アルバムも辞めてそのまま解散するバンドも決して少なくはない。全て予定通り約束を達成してから解散する。この姿勢はとても誠実な在り方。外国人にしては日本人のように律儀である。

 

「蒙古斑」という名称は、正しくはない。一斉を風靡しただけあって恐らく、市井で知らない人はいないであろう。その為、蒙古斑のアンチも非常に多い為、正式名称を伏せる。

 

の時点で、蒙古斑とは誰なのかバレてるかも知れない。全く伏せ字になっていない。

 

自分は蒙古斑のファンではない。ファンという資格がない。俄かだ。

 

ただのニワカ。

それだけ。

 

ただのニワカのくせにアンチから攻撃を受けるのを予防する。アンチは非常に面倒くさい。ガチ勢から攻撃される可能性もゼロではない。ガチ勢も面倒くさい。

 

自分は本当にニワカで、蒙古斑の曲を購入し、積極的に聞き始めたのは2020年の11月頃からである。

 

実は2015年暮れに、ラジオで蒙古斑の「底辺の英雄」という曲が流れた。この曲にビビッと来て、一目惚れ購入。

 

後で「蒙古斑()」について検索した。多分ウィキペディアではないものだった。

当時の自分としては衝撃的な事が書いてあった。

蒙古斑()は、モンゴル国エルデネトという第2の都市出身である。

 

「底辺の英雄」という曲は歌詞が全英語歌詞である。英語曲なのに何故モンゴル?!

めちゃめちゃカッコイイ曲なのにこれを平たい顔族が作って、一重瞼の力士みたいな男が英語で歌ってるのか❤️‍🩹

ショック😨

 

メンバーの顔を見たいという気にもならなかった。どうせお相撲さんみたいなんやろ??

曲はカッコよくも美しくもあるのに、夢が台無し😑

「底辺の英雄」という曲は、確かにアメリカ的というか、洋楽的、更にいえば西洋的には聞こえない。やっぱモンゴルか。。。蒙古か💧

 

当時の自分は、日本という東洋国の産まれ育ちながら、同じ東洋国であるモンゴルを忌避していた。

 

それは多々理由があって、当時は今とは真逆だった。モンゴルが大嫌いだった。

モンゴルに対してはステレオタイプしか無かった。

不細工なお相撲さんと、はんにゃみたいな見た目、ムクリコクリの鬼、一重瞼、*蒙古斑が消えずに一生ついてる。女も日本人よりも可愛くない。めちゃくちゃ性格がキツい。男女共に血生臭い肉を好む。などの偏見だらけだった。

 

*ちなみに自分は赤ん坊の頃、蒙古斑が無かった。妹にも無かった。父もその兄弟にも無かった。母にも無かった。母方の祖母にも無かったらしい。他所の赤ん坊を預かった時に生まれて初めて蒙古斑を見て、虐待の痣かと思い、家族中で驚き、児童相談所に連絡しようか悩んだ。蒙古斑が成長に従って消えると知ったのは20歳を過ぎてからである。

 

容姿や食習慣などに対する偏見よりも更に強い偏見があった。それは、歴史的なもの。

モンゴル帝国による支配のやり方は、共産主義支配の原型。戦勝史観。頭の中が未開で、世界平和は気に食わない奴を殲滅する事から始まるとしか考えてないのではないか?頭の中身がネイティブアメリカンと同じで、大量虐殺とか民族浄化とか文化大虐殺とか、子殺し、断種手術etc….など、ありとあらゆる戦争犯罪しか考えてないのではないか?とにかく、野蛮極まりない人種で、同じ人間だとは思いたくなかった。

 

とにかく、モンゴルと向き合う事に異常な抵抗があった。

 

5年もの間、蒙古斑()を見ないように見ないようにしていた。

当時、自分がもっと賢ければ「国は国、音楽は音楽」と分けて考えられたのかも知れない。

 

蒙古斑()は、モンゴル人であるという事実を絶対に認めず(じゃあ蒙古斑はなに人?)別の国の人間だとバイアスが掛けられる程の知恵が欲しかった。

 

そんな知恵、あるはずも無く、音楽とかカッコよさよりも気に食わない真実が勝った。

 

そんなモンゴル嫌いが、好きに転換する迄にはきっかけがあった。5年経っていきなり治癒した訳ではない。

 

チンギス・ハーンという元凶のやり方が、思ったより人道的だと思えた事が、転換する契機となった。ネイティブアメリカンと同じ頭の中身かと思ってたが、それは誤解だった。

 

抵抗する者は徹底的にぶっ潰すが、服属する者には許し、手厚くする。

捕虜も皆殺しをしない場合がある。ハーン一族は戦争犯罪をする事しか頭にない訳ではなく、国の発展に貢献した。

 

書くとキリがなくなるので今は割愛する。

 

その他に英米諸国の偽善と比較した、モンゴル帝国の露悪

これも長くなるので今は割愛するが、英米諸国の悪行の積み重ねはそもそもモンゴル帝国のそれよりも数多く、質悪く、それを偽善で以て隠すという行為の方が、モンゴル帝国の露悪より、一層罪深いという事を知った為。

英米諸国と比較した結果、モンゴル帝国の方が善良だった事を知る。

そして、余りにも酷い事をネイティブアメリカンに書いたが、あれは有名な話で、世界一戦ってはいけない相手だ。それは、事実のようだ。しかしそれは仕方のない事で、ネイティブアメリカンは、長い時間そのような生活をしていた為に、そうなってしまった。ネイティブアメリカンは露悪にしては、悪過ぎるが、英米加に比べても少しはましである。英米加は近代国家を樹立してからこっちの世界線である。ネイティブアメリカンは、言って良いのか分からないが、長い時間を石器時代とあまり変わらない生活をしてきた。罪の意識なども近代国と比べて、違うのは当然。他部族を浄化する事は罪ではない。殺らなければ殺られるという、国境なき世界で生きている。彼らは先祖に物凄く感謝をする。

 

それに比べて英米加はどうか?という問題。

ネイティブアメリカンは、人様に偽善などを説いてはいない。

英米加は、殺るか殺されるかというほど深刻な状況下ではない。近代的な宗教や法の概念があり、その上で悪行を重ねに重ねている。寧ろ猟奇的で面白半分罪を犯している様にも思え、本当にサイコパスだ。アングロサクソンはどういう生き方をして来たらこんなになるのか。遺伝的なものに起因しているとしか思えない。同じ人間とは思いたくない。

 

そしてコロナ禍に突入。コロナ禍からこっちは、遊牧民のように縛られない生き方をしなければこの先、生きてはいけないという風潮と、

フリーランスがカッコいい。みたいな風潮になる。

 

世間が遊牧民の生き方に注目し始める。遊牧民は戦争だけではない。という事を知る。今まで遊牧民の生き方に着目するという発想は無かった。

 

コロナ禍真っ只中の202011月。モンゴルを意識し始める。嫌という程忌避した反動か、今まで負の方向に過剰な意識を向けていただけあって、正に向かうのも早かった。

 

モンゴルといえば蒙古斑()やん!!

 

という事で蒙古斑()の曲をダウンロードして聴き始める。めちゃめちゃカッコいい!!ビリビリ来る!蒙古斑()て全体的に神曲ばっかやん!!

 

1曲だけ当たりで、あとは糞というワケでは決してなく、神曲が多く耳も心も気持ちがいい。遊び心の要素もあり、青春が羨ましいという想いにもなり、聴いてて清々しい曲から、病んだ曲迄あり、振り幅がとても広い。

 

曲は全て英語、否、一曲だけフランス語の曲もある。こいつは言語モンスターか?!と思う。発音が蒙古訛りがあるのか、洋楽の米語などの発音とはやや違う。

 

何より騎馬民族らしい。ザッザカ、ザッザカ、ザッザカ、ザッザカという馬が駆けるリズムとホーミーになる手前の歌い方をする。歌い手のダミ声が大好きだ❤️

 

蒙古斑()のフロントマンは、貧困出身のアル中の男だ。現在はだいぶましになったという情報を元に、初めてYouTubeでお目にかかる。どんな姿でもと覚悟を決めて見た。

 

妄想してたのと全然違う。貧困出身アルコール依存症男は、若い頃は白鵬関のまだ若くて痩せていた頃の容姿に何となく似ていた。この容姿であのダミ声を出す。

 

彼も含め、蒙古斑()というグループの容姿は、巨デブはいなくて全員がスッキリとした出たちだ。ド東洋モンゴル人という容貌ではなかった。むしろ露人ミックスか露人に見える。うち3(アル中男含む)は、ブロンド髪や金髪だとタタール人に見え、1人は、コテコテの露人に見え、残り1人は浅黒く、中東人かトルクメン人かウイグル人のようにも見えた。

 

懸念していたド東洋はいなかった。ただ、タタール人的な3人は黒髪にした状態の時はモンゴル人に見える。不思議だ。

言ってみれば全員イケメンの部類である。顔というより佇まいが。

 

YouTubeでライブ映像を見ると本当に面白そうであった。客がどのライブでも満員。

日本でのライブ映像も結構ある。客が満員。2000年台に日本で一斉を風靡したというのはどうやら本当だったらしい。日本でもまず彼らを知らない人は誰もいないだろう。

 

知らないのは自分だけであった。

 

自分が知ったのは2015年に初めてその存在を知った。

 

例えるなら、ジャニーズの嵐の存在を知らないのと同じであった。

 

それくらい蒙古斑()は超有名だったらしい。全盛期にはテレビでも芸能・エンタメニュースでほぼ毎日報道されて、ラジオでもほぼ毎日かかっていたらしい。映画音楽にも結構使われていたらしい。

 

パンク好き界隈だけでの人気ではなく、全国的に一般的な知名度だったらしい。

 

それだけマスコミで取り上げられても、なぜ全く気にも留まらず、目に留まらず、存在自体知らなかったのであろう?

 

2015年になって蒙古斑()の話をしても、もう終わったコンテンツとして、懐かしいと語られていたのかも知れない。蒙古斑()カッコ良かったね。今どうしてるんだろう?まだ存続してるの?

 

と。

 

拠点を置くトロントなどの北米では更に人気であったらしい。

 

ロシアやウクライナでも超有名であった。世界中でも超有名で、知名度はビートルズ級の大御所だったらしい。

 

非常に哀しい。出来る事なら2000年頃に戻って蒙古斑を推したい。知る機会が欲しかった。

知る機会は幾らでもあったのだが。

無かったのは、縁。

 

蒙古斑()と本当に縁が無いと思えるのは、知れなかったという事よりも、下らない理由で5年間も避けていた事だった。

 

コロナも明け、昨2022年は全米ツアーなどの北米ツアーや欧州ツアーもおこなった。昨年、自分は仕事や試験勉強などで忙しかった為、ろくに蒙古斑()に向き合えなかった。コロナ中も、就職活動や片付け、整理、試験勉強などで、ろくに蒙古斑()に向き合えなかった。20233月に試験に合格し、さあこれから蒙古斑()に向き合うぞ!

 

233月にパンクの春の祭典に参戦した。

しかし蒙古斑()はキャンセルをした。蒙古斑()の生の演奏を聴きたかった。やっぱ自分は蒙古斑()とは縁がない。来年こそはパンクの春祭りに出演してくれる。と思い、安閑としていたら5月吉日、解散宣言。

 

推しは推せる時に推せとはよく言うが、あの5年間は無駄だった。

 

解散は、解散宣言をした時点で既に解散である。

 

もっと早く出会いたかった。

 

解散に伴うツイートのコメントを見ると

 

「青春をありがとう」

 

という声があり、非常に羨ましかった。自分も蒙古斑()と共に青春を過ごしたかったし、人生を歩みたかった。

 

アルバムを発売した年を見ては、この頃自分は何をしていて何を考えていたのだろうと感慨に耽る。

 

解散後、もう遅いが、蒙古斑()の歌詞の訳に真剣に向き合い始める。

 

売れてる曲の歌詞の多くは、戦争を連想させられるものが多かった。その次は、自分たちの置かれた貧困層という環境について。貧困層出身の親友のHIV感染、別の貧困層出身の親友の自殺。自身の家出。自身のアルコール依存症。などについて書かれていた。それと、彼女の浮気、不信、別れ。米国非難。

 

現在も終わらないロシアとウクライナの戦時下のロシアという国について書いた曲かと思えるようなものもある。

 

歌詞の中には若さ特有の苦悩なるものがあり、自分が若い頃に悩んでいた事とも重なる。

若い時に蒙古斑()に出会っていれば、リアルタイムで共感出来たかも知れない。

 

彼らは、貧困から抜け出す為にロックの道を歩んだ。だからか解らないが、日本のロックのような、大の男が愛だの恋だのノロケだの、そんなのの繰り返しではない。それが良い。何より「僕が君を守る」などという束縛的な気に食わない発言をしない。

 

それが良い。

 

蒙古斑()のフロントマンは波瀾万丈に富んだ人生だった。*生まれた国からして波瀾万丈だが、バンドを始めてからの人生も過酷である。蒙古斑()の曲は、フロントマンの人生を実にリアルに再現している。決して夢や妄想ではない。

 

*社会主義時代や、ソ連崩壊後の自由主義への過渡期・混乱期

 

今、解散してしまった後のこのグループの足跡(ソクセキ)とフロントマンの人生を、順を追って追っている。

早くに出会ってリアルタイムで追いたかった。

 

解散後、閉店セールに赴くように、グッズを買い込んでいる。こないだは、可愛いTシャツを日本のロックTシャツ屋で購入した。そして公式ショップではもみじ🍁をあしらった蒙古斑()という文字の入ったキャップ帽を購入。そして昨日は初期の初期のDVDを購入した。

自分は以前、蒙古斑パズルを購入している。

 

彼らがデザインした絵などは、遊び心に満ちていてとても可愛いらしい。

 

ところで何故、蒙古斑と言うに至ったのか?

 

彼らの好青年ぶりから着想を得た。気のいい奴らで、人からモノを頂いた時の反応が良かった。公式の場での誠実な対応。

 

蒙古の好青年。青年や青二才という言葉の語源は蒙古斑から来ているという説がある。

モンゴルの好青年蒙古斑

となった。

 

兎にも角にも、蒙古斑の曲もデザインも、中毒性がある。

 

自分が、遊牧世界にハマってしまう契機となった大きな要因のひとつが、蒙古斑のサウンド。

 

その美しい旋律とリズムの虜になる。神曲!

良いものはいい!!世界中に受けるに決まっていると思えるほど、素晴らしく聴こえた。

 

蒙古斑の旋律の民族的ルーツは何処なんだろう?

という歴史アディクト的な疑問を持つ。

蒙古斑の他にモンゴルの音楽を多数聴いたが、ハルハ族の紡ぎ出す旋律は、演歌調が多く、同じモンゴリアンロックでも、演歌ロックになっているものが多すぎる。

 

蒙古斑はパンクスなので、もしかすれば英国に寄せているのかも知れない。何故なら、古き良き英国がそこにあるようにも感じられた。

 

そういう曲もあれば、蒙古斑らしい曲もある。初期の頃はポップパンクらしかった。

ただその頃はドレミ音階に当てはまらない曲も多かった。蒙古斑の紡ぎ出す旋律はあまりにハルハからかけ離れていたが、曲のノリはモンゴルらしかった。

 

蒙古斑の旋律の民族的ルーツを探して、モンゴルやブリヤート、カザフ、アルタイ、トゥバ、ハカシア、タタール、バシコルトスタン、ウイグル、ウズベク、チュバシetc…の音楽を聴きまくった。

 

その為か中央ユーラシアにも明るくなってしまった。

 

そして辿り着いた自分なりの結論が、蒙古斑の旋律の民族的ルーツは、トゥバ音楽に最も近い。

 

トゥバのフーメイ:喉歌(ホーミーと同じ意)の旋律と、蒙古斑の歌のパートの旋律は酷似している。

トゥバ民謡での歌唱の和音が素晴らしいが、蒙古斑はそれを受け継いでいるように思える。似ている。

 

これは本当に私観だが、蒙古斑のフロントマンと、長身のベース担当はトゥバ人なのではないかと思う。この2人は、元々黒髪なのかブロンドなのか解らないが、ブロンドの時はタタール人に、黒髪の時はモンゴル人に見える。その上、トゥバ人の顔にそっくりである。ハルハ系の顔には見えない。

 

以下は私観ではなく、プロフィールにあった情報。

メタルギターの浅黒いトルクメン人に見える人は、実はインド系カナダ人である。

ドラム担当のコテコテの露人に見える人はアメリカ人である。

ギター担当は、白系カナダ人である(カナダ白人)

 

ワケわかんねーバンドである。

 

蒙古斑の出身地は、トロント近辺であるとしている記事もあり、そのように報じるラジオもある。

 

蒙古斑の出身地はモンゴルのエルデネトでは??

 

エルデネトと記された記事はまだ存在しているのかは不明だが、空白の5年間は帰って来ない。

 

さあ、どうしてくれる?

 

ウィキペディアでも、出身地はトロント近郊という内容である。

 

実際にはどっちなんだろう?

 

トロントに拠点を置き、このアジアヘイト・クライムが非常に盛んで危険な国で安全に生きていく為には、自らの出身国を隠す必要があったのかも知れない。

 

という以前にモンゴル人は様々な事情で己の出身地を誤魔化したり嘘を言う人が多いという。

 

とはいえあの2人は見てくれ的に、ド東洋の顔立ちではない。比較的安全だとは思うが、見てくれではなく肩書きなのかもしれない。

 

それで、蒙古斑は自称カナダ出身としてしまったのではないかと思われる。公的な人物だからしょうがないのかも知れない。

 

彼らの中には哀しいトゥバの血が流れていると思うと非常に感慨深い。

 

短い間でしたが、素晴らしい時間を共に過ごすことが出来て感謝しかありません。新アルバムを記念したワールドツアーを楽しみにしています。

 

まだまだ若くまだ全然やれると思うので解散しなくても良い気がするが、余りにも急な解散宣告だったので残念でなりません。

さようなら蒙古斑(仮)👋

 

これで、蒙古斑の話は終わりです

 

🔚

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金鎧集落について 結論(後編)

2023年05月19日 | 自己満

日本国に於いて、遊牧集落の痕跡と、遊牧遺構を探している。

 

結論を出す事は非常に早いと思うが、いくら探してもこれ以上の物は出てこないという結論に至った。

 

*金鎧 : 金田集落

金田のが農耕民族的で非常に気に食わなかったので極力別の字を充てた。遊牧民に農耕民族のような呼び名をつけるのは余りに失礼なので、金田人を金鎧人と呼ぶ事にし、金鎧集落と呼ぶ事にした。

 

郷土博物館で係員に資料を見せて頂き、金鎧集落に関するもの大まかにまとめてみたが、資料には、蒙古とか突厥とか遊牧民とか放牧など一切書かれていなかった。更にテングリ”“天神”“国土を守護する天乃神””オボー““石堆積等も一切書かれていない為、ここは本当に蒙古集落だったのか?決定打はない。

 

2023/5/17の記事

 

金鎧集落について 結論(前編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

先日の記事を元に、蒙古系渡来人がいたと仮定して同じ事を書いてみた。

 

戦国時代かその前、この地に野盗か野武士だと思われる者たちが現れる。彼らは村々に襲撃や掠奪を繰り返していた。

彼らは当時のモンゴル帝国の民で、ゾド(雪害)などで家畜を失った元々遊牧民だった人たちである。内陸では生きていけない。沿海州に辿りつき、女真族などに船頭と舶を手配して、日本海をわたり倭国へ。倭国を流浪し、相模国へ。

そして彼らはこの船田村(海賊の村)を襲撃し、潰し、川と川に挟まれたこの地に宿営した。

彼らはこの土地の現在の名称、金鎧の由来となった民、金鎧人である。

 

戦国時代には金なにがしかという地名だったという記録がある。”*アルタンなんとかという特定の個人名を集落につけた可能性も考えられる。

 

*アルタン :

 

金鎧人は掠奪や狩猟や商売などで生計を立てていた。シャーマニズムの精神を伝統的に守り続けたいと考える金鎧人は、元遊牧民。土を掘り起こす事を頑なに拒み、農業従事をしなかった。

 

金鎧人の主流、族長などが率いる大半は大永年間(1521-1528)にこの地を離れて流浪し、愛知県西尾市一色町に移住する。

遊牧民はこうあるべき。と保守的な蒙古人は、残留より流浪を選んだ。しかし、一部はここに残留した。

 

残留金鎧人は、この地の利は商売に適していると判断した為残留した。

 

しかし残留金鎧人の中には特定の武将に投降し、正式な武士になる者もいた。

 

金鎧集落という、倭国の中の蒙古集落のひとつとなる。

 

木柱のテングリ(天神)祭祀場を建てる。自分達はモンゴル帝国の民であるという意識が高い。ハーンの建てた国を想う心が強かった。

 

海賊や倭人の生き残りは、マイノリティとして同じ集落の中にいた。船来田明神が維持されたのも彼らに依るところが大きい。

 

数度に渡り、大陸から蒙古系民族が倭国に漂着する。彼らは蒙古系コミュニティー(集落)を頼って金鎧集落に移住。

 

17世紀以降、モンゴルがチベット仏教導入後、来日した蒙古人が金鎧集落に移住。そして木柱テングリ(天神)祭祀場に影響を与え、祭祀場は石堆型になる。

 

江戸時代中期に、幕藩体制が確立した後、中央から倭人の管理者が派遣され、金鎧集落も倭人の管理下に置かれる。人間が人間を徹底管理、支配するという治世が始まり、金鎧集落には農業従事用の土地を幕府から与えられた倭人が流入し、稲作が再開される。幕府は、蒙古人たちと倭人を強制的に政略結婚をさせ倭人化し、それらを田に縛りつけ農業従事させ、蒙古人のコミュニティを田地に変えた結果が金田の由来だ。

 

金鎧は金田となった。

 

その過程に紆余曲折あり、幕府軍と戦い犠牲となった蒙古人も数多くいたと考えられる。

 

金鎧以外でも、日本全国の異民族集落は倭人化をさせられた。

 

テングリ祭祀場は元々、金鎧人(蒙古人)が信仰していた「国土を守護する天乃神」を中心に「地神」「雷神」「龍神」など色々な神を祀り、集落の鎮守としていた。

 

倭人化後、倭人の天神「学問を奉ずる神」「田神」や「五穀豊穰の神」「地母神」などの雑多な神もそこに祀られるようになる。

 

昭和に入り、第二次世界大戦勃発や、高度経済成長期などがあり、石堆積天神祭祀場の大量の石は、他の河原の石同様にセメントの材料などとして、強制的に買収される。

 

現在も金鎧人の後裔が、厚木市金鎧に住む。その後裔の誰かが、石堆積天神祭祀場の跡に天神杜を作り、あの立札を書く。金鎧の古くから居住している住民は天神杜に石を置き、再び石堆積化させようとしている。

 

古地図や歴史書にある集落、部落、大字、小字の名前は江戸期に固定された。

江戸期以前の地名は、倭人にとって重要視されなければ実はよく分かっていないものが多い。

 

憶測の域を出ないが、和病の起源は江戸幕府による倭人化。江戸期を境に倭国から日本になったという感じだ。

 

江戸期まで倭国には野放図に移民がそこらへんに集落を作っていたが、天下統一した、徳川家中央集権独裁軍事国家である江戸幕府の政治体制下では、人民も統制される。全ての日本の人民は徳川の隷属民。今までの世界線とはガラリと変わる。江戸期が現代日本の世界線の礎となる。鎖国だの単一民族だのと言い出したのも江戸期から始まる。

 

先日、斬首動画を上げたロシア兵士がいたという非常に胸糞の悪い事件を聞き、金鎧天神祭祀場にロシア、ウクライナ問題について持って行き場のない想いを伝えに行った。

 

天神祭祀場に供える石を相模川河川敷で拾って来たかったが、河川敷に通じる道が,ない。。。当局の意地悪??すぐそこに川が見えてるのに🥹

 

金鎧天神祭祀場から相模川河川敷までの距離は本当に近い。

天神祭祀場から河川敷は直接行く事が出来ず、間に畑や、樹木林などがあり、容易に行く事が出来ない。

 

これは政府や倭人による妨害なのでは?

天神祭祀場に供えるための丸石は河川敷にたくさんある。丸石を容易に天神祭祀用に持って来られないようにわざと河川敷から天神祭祀場までの道のりを遠くしている意図を感じとれる。

 

遊牧信仰(倭人にとっての異教)を嫌らしく妨げるという意図が感じ取れた。

 

とはいえ、倭人も一概に言えず、蒙古人と共存する倭人もいれば差別する倭人もいる。

 

旧金鎧集落の、新ごみ焼却場建設に反対する会の立て札に書いてある「金田はもう充分協力してきた 建設反対」というのが、色々と考えさせられる。

 

 

河川敷まで遠い遠い道のりであった。その途中には水道橋かガス橋か、管の橋がある。

 

 

 

ようやく河川敷に出られる。

 

 

人が渡れない橋ではあるが、美しい。

自分はこれを、金鎧橋(キンガイキョウ)と勝手に名づける。本当の名称はあるのだろうけど。

 

そして、天神祭祀場に持って行き、手を合わせ、持って行き場のない想いを伝え、世界平和を祈るのだが

 

この金鎧()集落は蒙古集落であったのか?の真相は闇の中。

 

蒙古集落の決定打と思えるものは、天神杜の立て札に書いてある「国土を守護する天の神」という神観。これはモンゴル帝国時代そのものの神観である。倭人は到底こんな発想には至らない。倭人にとって国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(国津神)である。

 

遊牧民は適当に移動して、土地などに執着が無いと思われ勝ちだが、国を築くとなれば何より「領土」を重要視する。つまり国土だ。

 

テングリ祭祀場に関する、モンゴル帝国時代そのままの神観、信仰観を子々孫々に口承で伝えられ、立札に神観、信仰観を記しているというのは、モンゴルの歴史からすれば非常に凄いことではないか。日本という異国にモンゴル帝国の一部がそのままある。

 

口承というものの凄さを知る。金鎧人が日本に来て400-500年経つが、今だ口承が残っている。書物であれば、火災などで焼失してしまえば終わりである。

 

もうひとつは頭文字が「金」で始まっているという事。

 

頭文字が金である金田と、国土を守護する天神の組み合わせというのが、ここは蒙古集落であると決定づけられる。

 

他は何も出て来なかった。遊牧民は足跡を残さない。ゲル地区のような入り組んだ道は、船田人(海賊)と倭人が作ったが、金鎧人は何も手をつけていなかった。後世に残るような建物を建てる事も無かった。

 

 

 

長文のご精読と、今まで蒙古集落跡(金田集落)の記事に付き合って下さいましてありがとうございました。

金鎧集落に出会えた事に感謝致します。

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