今日の記事は、めっちゃめちゃ長いです。
VIVAN(ヴィバン)というモンゴルや中央アジアが関わる内容のドラマが始まり、日本のお茶の間でも内陸アジアへの関心が高まるようです。これは本当に感謝すべき事です。毎週楽しんで見させて頂いております。
いつもいつもこのネタばっかで読者は飽ききっているか、オマエ何を言っているんだ?と思われるかもしれませんが、様々な論文や書物などの情報を得ていると次々と過去への憶測が沸く。
何故こんなに金鎧部落が自分の関心を引き留めるのか?
過去の記事
金鎧集落について 結論(後編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる
テングリ信仰(天神)の金鎧人という遊牧ディアスポラの他に、テングリ信仰とチベット仏教を併せ持つカネ🌹ディアン🌹という遊牧ディアスポラが相模川右岸に宿営していたのではないかと思われる。
カネ🌹ディアン🌹とは金田(カネダ)という部落名から取った。
金田=金鎧部落にある天神祠(テングリ祭祀場跡)を囲う地面は円形に形どられている。冬の時期は円の外と内で色が違い夏の時期(7月初旬)は円の外は草が生えているが円の内は草一本も生えていなかった。草を刈りとった跡などもなく、元から生えていないように見受けられた。
8月中旬にそこへ行き、円形の内側を確認すると、石や砂利などが埋まっているのが確認出来た。表層の浅い土の上のように根が浅くても生える草や苔があった。円形に積まれた石堆や色々な物が今でも土の中に埋まっているようにも考えられなくもない。
或いは近年人為的に敷いた砂利か。
天神祠の円形の外側の雑草が枯れている。これも石堆物が関係しているのであろうか?根が深く張ることが出来なくて根と身の成長と共に結果的に枯れてしまう。これが本当の石堆の範囲なのであろうか?
この事から、ここが石堆形オボーだったという事がより一層確実になったような気がする。
円の内側には松をはじめとする木が3本植えられている。恐らく石堆に穴を開けて土を入れて植えたのであろう。天神祠は石祠が2塔建てられている。この石祠は倭人の後づけであろう。
松属の多くは浅根性で、深植えすると弱って死ぬケースが多いそうです。
《参照: 園芸相談センターの過去ログ》
松の両脇の2本の木は同じ種類の木だが、これらも浅根性だろうと思われる。それらを計算して植えたのだろうと思われる。
天神祠はこの部落の人々が祀ってきた、私には全く関係ない祠。部外者の私が写真などを撮って良いはずはない。しかしオボーへの好奇心や大陸への憧れに勝てずこのような事をしてしまった事を大変申し訳なく思っています。
後で何か起こらなければ良いが…
オボーであれば、オープンマインドなのではないか?と思ったりもする。
しかしこの部落は歴史的な事情もあって、他所者を好まないといった空気があるように思えた。
金鎧人とカネ🌹ディアン🌹の大まかな違いについて書く。
金鎧人: 倭国に移住した大元ウルス(元帝国)時代の遊牧ディアスポラで特定の共同体。テングリズム信者
カネ🌹ディアン🌹: 倭国に移住した北元時代の蒙古系のディアスポラ。チベット仏教徒&テングリズム信者
カネ🌹ディアン🌹は、ハルハ族の可能性が高い
ハルハ族とは現在のモンゴルの主流民族
北元、タタールともいう。
その頃相模川右岸に宿営していたカネ🌹ディアン🌹の出身部族の名称の特定までは出来ない。
倭国中にカネ🌹ディアン🌹は散在していたのだろう。
カネ🌹ディアン🌹の存在に気づいた理由は石堆形オボーによる。これを築くようになったのは、意外にも新しかった。蒙古人がチベット仏教採用後に始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。
一般蒙古人がチベット仏教徒になっていったのは、17世紀以降。ハルハ人はいち早く仏教徒になった。
金田の地名の由来になった金鎧人という特定の共同体が相模川右岸辺りに来て、愛知県西尾市に移住したのは1521-1528(16世紀)。時代的にズレがある。金鎧人は相模川右岸に定住していた海賊の村を潰してそこに一時的に宿営していた。金鎧人の部族の大半は愛知県西尾市に移住したが、ここの地利を利用して商売などをするために例外的に残留する者もいたという。
金鎧人渡来以降も何波にも遊牧民が倭国に移住する。しかし彼らは蒙古系コミュニティである金鎧集落を頼ってここに移住して来たとは考えにくいのである。
かつて残留した金鎧人は商売をしているうちに別の土地へと流れて行ったのだと考えられる。
定住商売ではなく、行商などの流動的なものであったのであろう。考えられるのは馬や牛などの動物の売買。
金鎧人とカネ🌹ディアン🌹は同じ集落に混合して住んでいたとはどうしても考えられないのである。金鎧人が仏教徒を受け入れるとは考えにくい。
遊牧民がコミュニティーを頼って集住するという話を聞いた事がない。彼らには元々“村”という概念がない。
現代のカザン・タタールとは慣習が違うのである。
よって、金鎧人とカネ🌹ディアン🌹を別物と考える方が自然である。
金鎧人について、以前は蒙古系遊牧民としていたが、詳しくは蒙古系かどうかは解らない。
金鎧人があの場所にテングリ祭祀場を作っていたとすれば、時代的に木柱形のものである可能性が高い。
天神祠の脇の立札に書いてある「国土を守護する天乃神」の神観はテングリ信仰で、ソーハン・ゲレルト氏の論文によると蒙古人の信仰観であるようだ。
ディアスポラ歴が400年以上の金鎧人が口承で400年以上テングリの神観を子々孫々伝えて来たのではないか?とかつては考えていたが、それは金鎧人のものではなく、カネ🌹ディアン🌹ではないかと考えられる。カネ🌹ディアン🌹の一部が子々孫々に口承で伝えて来た可能性が高い。
オボーとは石または木で作られ、平原や平原にある高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多い。チベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリといった宗教的意味を示す役割を持つが、同時に境界標識や道標としての役割を持つ。
《参照: Wikipedia》
カネ🌹ディアン🌹オボーは、川から程近い平地にある。道標としての役割もあるのか、細い道沿いだが少し奥まった場所にあり、田道沿いにある。カネ🌹ディアン🌹オボーの土の下に石堆や色々なものが埋まっているという可能性が高いと書いたが、何故埋まった状態であるのか?
それは長年に渡って相模川の氾濫により土砂が堆積しオボーの下の部分は土に埋まった。相模川は現在の水面の位置よりも高かったと思われる。
川砂利の過剰採取とダム建設による砂利の供給力低下で、橋脚が剥き出しになるほど砂利が少なくなった。川の水位も低下。
カネ🌹ディアン🌹オボーにはかつて石が積まれていたのかも知れないと考えられる。
しかし高度経済成長期に、建材の材料として相模川の砂利同様、石堆も一緒に強制的にパクられてしまったのであろうか?
今から300年以上前は現在よりも相模川は厚木側に寄っていたのではないかと考えられる。
オボーは平地や高所に多数存在するようだが、川や湖の近くにも多数存在している。
金田=金鎧部落を含む相模川右岸一帯は、時は違えど金鎧人及びカネ🌹ディアン🌹の宿営地であった可能性が高い。
カネ🌹ディアン🌹問題を北大スラ研(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)に取り合って欲しいと思った。日本に絶対いるでしょう。遊牧ディアスポラ。相模川沿岸部以外にもこれらの人々は散在していると考えられる。
研究者が一番困難を極めるのが、聞き取り調査(ヒアリング)だと思われる。ヒアリングは非常にデリケートな問題や、他人には話す事が出来ないプライベートな問題などが含まれている。
プライバシーの侵害や人権問題に抵触する可能性等、フィールドワークをする文化人類学の学者などはこの問題とどのように向き合ってヒアリング調査を行っているのか非常に気になるところだ。
他所者の他人である研究者がズカズカと入って行って良いのだろうか?と自問自答する事があるのでは?と思う。いくら仕事といえど…
研究対象の場所によっては、人心穏やかではない所や他所者を受け付けない所や、行政からの圧や行政からの不当な扱い、外からは見えない、当局からの制度に縛られている所、警察による暴力、部落の周囲の人間からの差別や偏見などの扱いをされているところがある。
本当にこれは日本か?と思える場所もある。
結構な栄えている街から5kmも離れていないところにその様な現実がある。外からは何も見えない。でもそれは事実。街歩く人はみな幸せそうに見える。
日本の平和神話は虚像なのか?と思えたりもする。
見えない水面下の戦争….
そのような所にも研究者は足を踏み入れる事もあるだろう。
水面下にある紛争が表面化したのがドンパチだと思える。見える戦争は氷山の一角。
ドンパチの背景は非常に根深い。あの国とあの国の戦争も非常に根深い水面下の紛争があってNATO加盟の件を引き金にある国が侵攻を始めた。兄弟国を侵攻した。
例えるなら、これは生き別れた双子の兄弟が
互いに敵対する里親に引き取られ、その里親同士の代理戦争をさせられている。
というのが私見。
とはいえ、実力行使をした方が断然悪いに決まってるので自分は支持も擁護もしない。
金鎧天神祠。
天神様も”平和“というものが信用出来ない。
これとの出会いと、ある国とある国の戦争をきっかけに平和とはどういう事なんだろうと考えさせられるようになった。
平和な日常に感謝をする事が一番大切だが、これは容易ではない。
平民として生まれた私には自分が平和である事に気づく事すら容易には出来ないが、新平民や未だに平民になれない人たちに(直接関わってはいないが)関わると、自分は平民に生まれて良かったと気づく事が出来る。残酷だが。
より下にいる人間と比較して自分の境遇は幸せだと感じるのは最低な人間がやる事だと考えていたが、自分の最低さに対する気づきと同時に自分の境遇が恵まれていることへの感謝が生まれるという非常に複雑な感情になった。
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この歴史的集落の住民の全てがカネ🌹ディアン🌹の後裔とは限らないが、後裔も存在すると考えられる。彼らは自身のルーツを知っているのか?
オボー祭りやツァガンサールなどが執り行われた形跡は無かった。
遊牧文化などはカケラも残っていなかった。ここは日本だから当然と言えば当然に思えるかも知れない。
しかしこれが“当然”とする事を疑う事を知った。
天神祠の立札は
私達は確かに“ここ”に居た。あるいは私達は未でも“ここ”に居る。という意思表示のために書かれたのでははないかとも思えた。
ユーラシア大陸と日本の歴史的繋がり、血縁的繋がりが証明されれば、ユーラシア大陸諸国から本当の意味で相手にされる。
日本は孤立無援ではなくなる。
英国と北米主導の論は日本語は孤立言語。日本人は大陸のアジア人と血縁のない孤立人種。
日本は孤立文明。精神の孤児。
孤立無援の惑星のような扱いをする。
これらは余りに酷いではないか!!
北米の論文では日本が文明の発祥であり、日本から海外に移住していったが、海外から人は来ていない。という。
日本人は海外に出ない限り世界とは何も繋がりがないらしい。
これでは、この歴史的集落の“ここ”にいるような人たちの存在や犠牲などが“無”に帰されてしまう。
さすが鬼畜米英である。
こう書かれると、中露は軍事的な天敵だが、本当の日本と日本人の天敵は英国と北米なのではないかと思うようになってしまうのはしょうがない。
英国と北米は日本がユーラシア大陸と繋がってしまうことを懸念しているのだろうかという邪念まで抱いてしまう。英国テイストのものはとても大好きだが英国は大嫌いだ。複雑な気持ちである。
カネ🌹ディアン🌹オボーに出会えた事を本当に感謝している。これにスラ研(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター)の研究の力があれば、ここにこの人たちが本当に居たのだという事が証明されるのかも知れない。
金鎧人と金田人とすべきだが、金田人の“田人”の漢字が本当によくない。遊牧民族なのにベトナム人のような農耕民族を連想するか、田に縛りつけられ農業従事する“農奴”を連想させられる。
金田人の“田人”の部分に非常に抵抗があるため横文字化をした。
カネ🌹ディアン🌹のネーミング法則は、千葉で発見された地層、チバリアンに着想を得た。
“田人”よりよっっぽどいい🌹
*余談だがロシア帝政期の“農奴制”は、日本の徳川幕藩体制下の農民に対する政策を参考にしたという説もある。
その他にも帝政ロシアは、徳川家のやり方を参考に民の治め方を見習ったという。
ここまでのご精読ありがとうございました。