斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

金鎧集落について 結論(前編)

2023年05月17日 | 自己満

日本国に於いて、遊牧集落の痕跡と、遊牧遺構を探している。

 

結論を出す事は非常に早いと思いますが、いくら探してもこれ以上の物は出てこないという結論に至った。

 

*金鎧集落がなぜ蒙古集落と思うに至ってしまったのか?

 

*金鎧 : 金田を意味する。

 

・活動圏内に「金鎧」という地名の場所を発見。

 

スフバートルコーヒー店から駅までのバスの途中。「金鎧神社前」「金鎧」「金鎧下宿」というバス停があった。「金」はモンゴル語でアルタンという。

アルタンから始まる蒙古地名や人名は山のようにある為、モンゴルを連想させられた。

 

・金鎧(ホントのこと言うと金田という)の漢語表記は何故か「金帳汗国」を連想させられる。これは20223月頃の散歩で座架依橋の途中の道路標識による。(←これは常人には説明出来ない)

 

2023年の初詣。事前に調べた情報の、金田神社で中世に行われていた競馬神事による。

上依知から金鎧までの長距離競馬神事をしていた。それがナーダムのように思えた。

 

・その日のノリで上依知から金鎧までバスに乗って移動してその後、金鎧集落にあるローソンで月餅が食べたくなってくまなく探したが月餅が見当たらない。取り扱いすらない。

そしてあるネタを思い出した。蒙古人に月餅をあげてはいけない。

金鎧集落だから月餅を忌避しているのか?

 

・金鎧集落を実踏。穀倉地帯の目立つ場所に天神杜がある。「国土を守護する天乃神」という神観が倭人のものとは到底思えない。

菅原道真と相殿している。この天神杜はソーハン・ゲレルト氏による宇宙三界観の論文と照らし合わせると、テングリ信仰に思える🪯

 

・金鎧集落は川と川に挟まれたところである。遊牧民は水の近くに宿営する慣習がある。

 

・金鎧の地名の由来は、移動する民による。との事。

 

金鎧集落を蒙古系と特定する理由が、ソーハン・ゲレルト氏の宇宙三界観の論文による。

 

2023/5/15の記事の続き

 

金鎧集落について。訂正。 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

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郷土博物館で係員に資料を見せて頂き、金鎧集落に関するものを以下に大まかにまとめてみた。

 

戦国時代かその前、この地に野盗か野武士だと思われる者たちが現れる。彼らは村々に襲撃や掠奪を繰り返していた。

 

彼らは*船田村を襲撃し、潰し、川と川に挟まれたこの地を拠点にし、活動していた。

 

*船田村 : 船来田明神に豊玉姫を祀る、鎌倉時代にルーツを持つ集落。海洋民族と倭人などの構成員。本間氏族が代々領主を務める。

 

そして彼らは掠奪や狩猟や商売などで生計を立てていた。農業従事はしなかったそうだ。

 

この共同体の長が率いる大半は大永年間(1521-1528)にこの地を離れて流浪し、愛知県西尾市一色町に移住する。

 

しかし一部はここに残留した。

 

残留した人達は、この地の利は商売に適していると判断した為残留した。

 

しかしその中には武将に投降し、武将の正式な武士になる者もいた。

 

金鎧の地名の元となる名称は、戦国時代にはあったそうだ。

 

船田村が潰された時の元村民の生き残りは、少数ながら同じ村に居住していた。船来田明神(後の金鎧神社)が維持されたのも彼らに依るところが大きい。

 

江戸中期、幕藩体制が確立される。中央から管理者が派遣され、金鎧集落も管理下に置かれる。集落には農業従事をする為に土地を与えられた民が流入し、稲作が再開される。

 

金鎧集落の金鎧は、金田となる。

 

明治期に船木田明神は、金田神社となる。

 

戦国時代から江戸中期迄の金鎧集落についてでした。

 

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資料には、蒙古とか突厥とか遊牧民とか放牧など一切書かれていなかった。更にテングリ”“天神”“国土を守護する天乃神オボー石堆積等も一切書かれていない。

 

ここは本当に蒙古集落なのか?

 

船田人と金鎧集落の金鎧の由来となった民は全くの別物だったという予想は当たった。

 

金鎧集落の由来となった民金鎧人と呼ぶが、金鎧人が元々遊牧民だったかどうかは解らない。

 

戦国時代当初は野盗などに村が襲撃され、略奪される事はよくある事だった。それに、この時代は移動する人々が沢山いた。農民が本格的に土地に縛りつけられ移動の自由が無くなったのは江戸時代以降。

 

金鎧の呼び名について。この金鎧というのは正確ではなく、資料館の本には金が頭につく《金なにがしか》といった、よくわかっていない地名だったという。

 

金鎧という呼称は、自分が勝手につけた。金なにがしかといちいち呼んではいられないので金鎧とつけた。

金田となったのは江戸中期以降。

 

当時はキンダと呼ばれていたらしい。

 

自分が金田という漢語表記を極力したがらないのは、といえば農耕民族。それが嫌で嫌で仕方無かった。金なのになぜ田なんだ?この組み合わせの悪さがかえって目を引いたのではないかと思われる。

 

アルタン なのに何故農耕民族の字を充てる?

 

江戸中期以降、蒙古コミュニティーが田化された。

 

放牧地が田化されるという胸糞な話は世界中でよく聞く。

 

誇り高き民が、農奴に転落してしまったかのようだ。

 

よくよく考えてみれば

金田はキンタとも読める。言うまでもないが男性器を連想させられて、フイというロシアで使われる最悪の罵詈雑言を連想する。フイとはロシア語で男性器を意味する。

 

金田と書いてかねだではなく、かなだと読む場合がある。金田(かなだ)のケースではタタラ製鉄などの製鉄業や、冶金(やきん。ちきんではない)などの金属加工の場であったという事例が多い。Kanadaと読む名前の人は製鉄奴隷の後裔である。

 

ウクライナのアゾフスタリや中国新疆のジュンガル盆地をも連想させられる。それは良いとして、どうやらフイと製鉄も関係があるらしい。

フイゴという製鉄に使う道具があるらしく、フイゴという物は馬鹿というニュアンスにも繋がるという…..

 

タタラ製鉄はタタールと関係があるらしく、タタール人はジョチ=ウルス(金帳汗国)の主流民族だった。

 

道路標識の厚木市金田と金田陸橋の金田からは不思議な事に金帳汗国というものを連想してしまう。

 

ロシアもウクライナもジョチ=ウルスの範囲。タタール軛の被害地域。

 

製鉄奴隷は、過去のハザール王国を連想する。製鉄奴隷国家だったらしい。それもウクライナの位置にあった。アゾフスタリ製鉄地域はハザールの系譜を引き継いでいるのか…..

 

ここまで一気に書いてしまった。

いづれにせよ、狭い日本のに縛りつけられるのは良くない。

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金鎧集落について。訂正。

2023年05月15日 | 自己満

⋆金鎧集落。訂正。

⋆金鎧とは金田を意味する

2023/1/23の記事

遊牧アディクトだからしょうがない - カルガリーちゃんねる

で、アルタン神社(金鎧神社)”遊牧神社として説明したが、訂正する。

 

🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊

アルタン神社(金鎧神社)の説明書きで、元々の祭神が解らない、神号は「舶来」

 

祭神を知らない民がこの地に舶で来て定住

 

祭神を知らないという事は倭人ではないという仮説。

 

舶という大型船舶で来日という事は家畜、一族郎党を載せた船舶が倭国日本海側に着いたという仮説。

 

そして船田という地名を舶来牧民が金鎧に改変。

 

という事はここには家畜を飼育している状態の牧民が来日し定住したという仮説。

 

舶来牧民が倭国のそこに辿りついたのは平安から鎌倉。

 

金鎧神社は元は船来田明神といった。

 

金鎧神社と呼ぶのは明治以降。

 

船来田神社の祭神は、牧民集落のシャーマンや族長の先祖霊。

 

船来田明神は遊牧神社

 

明治以降、海神の豊玉姫が祀られる。

🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊🌊

これを訂正する。

 

訂正後

 

🌊金鎧神社は海賊神社であった可能性が高い🌊

 

🌊船来田明神は遊牧神社と書いたが、船田郷に住んでいた民は海洋民族「海賊」だった可能性がある。

 

 

「金鎧という地名・姓の由来」の記事の金鎧を経由し、大永年間(1521-1528)に愛知県西尾市一色町に移住した民。

 

この民が、金鎧の由来。

 

参照記事 2023/3/18の記事

遊牧遺構 - カルガリーちゃんねる

 

によると、鎌倉時代かそれ以前から船田郷に住む、船来田明神を鎮守として祀る集落の民と、戦国時代にこの地に現れ大永年間に愛知県西尾市に移住した民とは別々の民ではないかと思う。

 

船田郷に住む、船来田明神を祀る民を船田人と呼ぶ。

戦国時代にこの地に現れ現在の金鎧の由来となった民を金鎧人と呼ぶ。

 

人のブログ記事によれば、船来田明神の祭神は元々解らなかったのではなく、元から海神を祀っていたという説があった。思うに、船田人は海洋民族(海賊)の可能性がある。神号は「舶来」

 

船来田明神を海賊神社と捉える方が収まる。

 

 

訂正その2

2023/2/25の記事

テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!! - カルガリーちゃんねる

 

🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠

本間氏とは、金鎧神社(当時船来田神社)を建てた地頭という役人である。金鎧に750年間も代々居住し続けている本間氏という者がいるらしい。

おそらくそれが、それだと思う。

地頭は鎌倉時代の警察のような暴力機関と言われていたが、この本間という人物は集落の人民の敵ではなかったようだ。

定住生活を始め、時を経るに従って定住の知恵がついてくるようで、本間氏宅を衛る為に複雑な道が作られたらしい。城下町のように。

 

本間氏はここらへんの領主だったらしい。

 

本間氏という人物は多分、金鎧牧民の首長であったのではないかと思われる。遊牧首長は、世襲制なのか?役人などのように一代限りで終わりなのか?

 

遊牧社会の首長と、倭国の領主と、非常によく似ていると言っても過言ではないようです。

遊牧してれば首長。定住してれば領主。

 

鎌倉幕府は、船田地区の一画に遊牧民を集積しただけだろう。その為か首長制が途絶えず、長年続いたのではないかと思われた。

 

もしも本間氏が遊牧民首長で、強制移民後金鎧地区の領主だったとしたら?!厚木市金鎧という部落は、日本の定住社会におけるガチの遊牧部落である。

 

🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠🐠

これを訂正する。

 

先日、金鎧の健徳寺を実踏した時、本間氏の墓の横の看板に書いてあった。

 

・健徳寺の本間氏累代の墓

本間氏は蒙古から舶来した金鎧人(遊牧民)の首長などではなく、鎌倉時代から室町時代にかけて相模国に勢力を誇っていた武士。先祖は海老名に住んだ海老原源八季定の次男・能忠とされ、依知郷に本拠を移し活躍したと考えられています。

との事。

 

大いなる勘違いだった。

 

鎌倉時代になって、幕府は船田郷の有力豪族(武士)本間重連をこの地に派遣し、本間氏は領主となる。そこでは倭人と海洋民族(海賊)の領民を統治している。

 

以上

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アルタンボラグの意味について。

2023年04月08日 | 自己満

アルタンボラグの意味について。

アルタンボラグの意味は金泉であって金田ではありませんでした。

 

金田は“アルタンバグ”……………です。

ていうかアルタンバグという解釈をして良いですか?

アルタンボラグではありません。

直訳は金の村。

 

日本の地名に使用される〜田とは実際に穀倉地帯という意味の他に、集落や部落といった地域単位を意味する場合もある。村と言う意味でもある。

 

村という意味のモンゴル語訳は「バグ」

それで金田はアルタンバグ。

(Алтан) (Баг)

 

で、現存するであろう蒙古集落金田に最初に定着した*金田人は、何の部族なのだろうか?という事が最近では疑問になっている。答えが出るのはまだまだ先になるのだろう。

こないだ書いた天神杜についての記事にある、論文の宇宙三界観によると、金田人はトルコ系ではなく、モンゴル系のような気がする。

 

*金田人:家畜を飼育していれば金田牧民と表記しているが、家畜を失った牧民は、その時点で牧民ではないのでただの人。それで金田人と称する。

☆因みに金田人は金帳汗国民を意味するものではない。紛らわしくて大変申し訳ございません。

 

 

「モンゴル地名 アルタン」でググってみたらAltanbulag/Алтанбулаг(アルタンブラク)の意味・使い方-goo辞書。

 

いっそこの際 ●●県☆☆市金泉にしてしまえばいい。

 

アルタンボラグ

金田

金泉⭕️

 

 

自分のブログgooですが、多分誰かがモンゴルのアルタンボラグの由来をgoo辞書に載せてくれた。

自分も知らなかったのでありがとうございました♪

 

 

アルタンバグのオボー(←天神杜)言う奴は完全にアタマ、イカれてるよな!☆☆市内に異世界。大陸と同じ世界線!

 

金帳汗国(キプチャク汗国)は世間一般に認知が普及されてないと、こないだDMで言われた。

 

自分しか理解して無かった。完全に自己満足で独善的な事を言ってしまった。

 

しかも金田という酷くローカルなネタ、地元の民以外誰が理解出来て誰が面白がるんだろう?

 

酷く自己満足で独善的なネタだ。

 

金田の天神杜という祠は信仰の方向性から倭人の神観ではない。宇宙三界観の記事と照らし合わせるとテングリ信仰に思える。金田は川に近い集落。

遊牧民は川や湖などの水に近い位置に宿営する傾向があるらしい。これは家畜を飼育していようがしていまいが、そのような慣習は簡単に抜けないように思える。

 

地名の頭文字にがあると遊牧と関わりがあるのではないか?非常に気になる。遊牧大好き界隈なら、その気持ちを理解出来る人が他にもいると思う。

 

川崎市麻生区金程(キンテイ)って読むの?

金程には金帳汗国を連想する事は出来ない。実に不思議だ。

そしてググった結果

 

川崎市麻生区金程(かなほど)の由来

頭文字だからといっても、アルタンとは何の関係も無かった。しかしタタラ製鉄のネタが触り程度にあるので嬉しかった。

 

モンゴル語の漢字音写一覧

 

モンゴル(蒙古)

アルタン(阿勒坦)

チンギス(成吉思)

ダルガチ(達魯花赤)

タンマチ(探馬赤)

カン、ハン()

カガン 、カアン、ハーン(可汗)

 

丹町(タンマチ)という町があったらそれも多分現存する蒙古集落だろう。これは金田(カネダ)とは違って、読みとか響きの分野。

 

金田のある場所が、金田という漢語表記ではなく阿勒坦という漢語音写で書かれていたらもう完全に蒙古集落の線が強い!しかし、バグってどう漢語音写で書くのだろう?

 

カネダというワード、モンゴル語、満州語、タタール語等はあるのだろうか?

 

モンゴル語、満州語、タタール語はアルタイ型言語といいます。日本語と語順だけは同じだが、日本語はアルタイ型言語とは言い切れないそうである。

 

“カネダ”と似たもので、昔高校の図書館にあった大地図で沿海州にカナタという地名を発見して学校の同期と「遥かカナタ」とか言うてロシア弄りをして面白がっていたが、あれは今考えると絶対ロシア語ではないよな。多分デルスウ・ウザーラ語?!沿海州少数民族の言語。

 

学校で授業の為に購入する世界地図にはカナタは記載されていなかった。「遥かカナタ」とは、モスクワから沿海州は遥か「彼方」と「カナタ」という地名と掛けて勝手におもろがっていた。

 

当時はロシアというだけで、ただただ面白かった。若かった。今はそんなコドモっぽい冗談で嬉しくなったりは出来ない。その当時からロシアとか大陸とかそんなとこばっかの地図を好んで見ていた。

 

いつまでも見ていられた。

そんなMy Russiaはもういなくなってしまった。頼もしいロシアももういなくなってしまった。

 

ロシアを弄るには「ロシアおそろしあ」の方がダジャレだけど良い。定番のネタは最強。

 

バスで金田を通過する際には、TheDelkhii band - Uuhaiを聞こう。敬意を込めて。

 

そしてその日、そのつもりで昨年のハワリンバヤルで購入したマスクをつけて来た。遊牧遺構(天神杜)は、オボー跡地(天神祭祀場の石堆跡地)のようだ。バスにクラクション鳴らせと要求するわけにはいかない。

 

モンゴルではオボーを通過する際、クラクションを鳴らすだけでも参拝した事になる。

 

しかし遊牧遺構なんて、こんなじじむさい内容誰が関心持つんだろう?

 

そもそも日本では、海賊アニメは人気出ても今まで遊牧アニメなんか皆無に等しかった。乙嫁語りと、天幕のジャードゥーガルに期待するしか無い。

 

遊牧遺構転がってるのに、探す気になれば見つかる気がする。

↓モンゴルのオボーの歴史

234067019.pdf (core.ac.uk)

天神祭祀に石堆を使うのは、意外にも新しかった?!チベット仏教採用後から始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。

 

もし金田人がほんとにあのあたりに来たとして、シャーマニズムの祭祀場などを作っていたとすれば、それは時代的に石堆ではなく木柱の祭祀場だったであろうと思える。金田人は1521-1528年頃(16世紀)には厚木から愛知県西尾市へ移動してしまった。

 

日本国内遊牧遺構がある!なんて声を大にして言ったところで、誰に相手にされようか??

素晴らしいものを発見しても、宇宙人とかUMAとか超能力と言わない限り都市伝説からも取り上げられない。

さて、この件誰に掛け合おう。市報?

 

という事でこんな自己満な記事をご精読ありがとうございました。

 

パカパカー

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遊牧遺構

2023年03月18日 | 自己満

日本に於ける遊牧部落の跡地を探している。

 

遊牧部落とは、家畜を携えた遊牧民や、家畜を失った遊牧民が大陸から日本海を越えて日本に辿り着き、首長を筆頭に定住した集落を指す。

 

今までに書いた金田神社のネタと金田集落のネタは、自分の頭で描いた妄想、ファンタジーの要素が非常に強い説である。

 

遊牧アディクトだからしょうがない - カルガリーたん

 

アルタン部落についての続きと、古墳について、舶来牧民に関するもの - カルガリーたん

 

テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!! - カルガリーたん

 

 

今日のこの記事、遊牧遺構については妄想やファンタジーをほとんどせず「モンゴル帝国のハーンたちの世界観」の記事と「金田という地名・姓の由来」の記事に則して書いた。

 

「テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見」の記事。「天神杜」の写真の中の立札に説明書として書かれていた、

 

「国土を守護する天乃神」という一文が非常に気になった。

 

「五穀豊穣を祈願して創設された杜」はこの杜を作る理由である。

 

「天乃神」と学問を奉ずる「天神」とを別々のものとして扱い、相殿にしているという点について違和感を覚えた。

 

何故この天神杜を、テングリ信仰と結びつけられたのかは自分でもよく解らない。多分だが、菅原道真を指す天神以外の天神が出てきたので、違和感を覚え、これはもしかしたら、テングリ信仰の可能性もあるのではないか?と考えたのかもしれない。

 

お天道様説も考えたが、あれは太陽を指すので天乃神ではない。

 

テングリ信仰とは国土を守護するという要素があるのか?という疑問が湧いたので

「テングリとは?」でググった。

「モンゴル帝国時代における ハーンたちの世界観について」ソーハン・ゲレルト

https://wako.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3047&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

その中にある7ページ目から始まる「宇宙三界観」

その中での図2 モンゴル人の宇宙三界観で、天神は地上界に保護と善と幸福をもたらすという。

13ページ目の内容では、天神の子とされる英雄は、悪魔を退治し、理想的な国を立て、自らハーンとなって人間社会の秩序を保護し、人びとの幸せな生活を保障する。

 

国土を守護する天乃神......

 

国土というものが、地上界=人間界 黄金の世界(Altan delkei)を指すと同時に、天神の子、ハーンが立てた理想的な国をも指すと解釈してもよろしいでしょうか?

 

それがハーンと天神によって守護される。

 

それを信仰した人々がこの地にかつて存在したと解釈しかねない。

 

 

 

 

撮影地 : 金田

 

 

テングリ信仰では、テングリの儀式がある。平原や、平原にある小高い丘、山頂や峠のような高所に儀式(祭事)を行う場所が多いと言われている。

儀式の最後に自分が持ってきた石を石積みの好きな所に置き、手を合わせる。

カルムイク人幸せの秘訣

 

この、金田の天神杜には何故か石ばかりが置かれている。天神杜の付近を見回したが、このような丸い石は見当たらなかった。置くためにわざわざ自分で持って来たのか。

 

天神杜が天神杜として作られたのはいつの事なのか?全く解らない。この天神杜についての説明書もいつ誰が書いたのか全く解らない。

天神と天乃神の両方いるとすれば、どちらの信仰が古い、新しいなどの、時間的差があるのか?とても気になる。

 

仮に「国土を守護する天神」の方が古く、石積みが本当にあったとすればその石積みは誰かが引き取って持って行ってしまったのだろうか?

(石や砂利は様々な用途に使える)

 

後に「国土を守護する天神」の事情を知る者が、その跡地に「学問を奉ずる神」と「国土を守護する天神」とを相殿にし、五穀豊穣の為の杜にしたのだろうか?

 

憶測の域は出られない。

 

祠や道祖神などで、持って来たような石がたくさん置いてある所は他に見た事がない。自分の知る限りでは。

 

この天神杜のある「金田」という地名。

 

 

この写真を見て、色々考えさせられるものがあるが、金田という地名の由来について、勝手な事を言わせて貰うと天神(テングリ)信仰、宇宙三界観の影響があり、ハーンが立てた国を想う心から来ている。テングリの祭典では、本場モンゴルでは「金(きん)」を供える者もいるという。

 

ここは何故「金田」というのか?

 

金田という地名について「☆☆市 金田 地名 由来」とググった。

 

金田という地名は、由来はバラバラだが日本各地にある。全てがハーン由来・テングリ信仰由来だとは考え難い。(全てがそれだったら、元寇は来る必要がなく無血併合なんかも出来たかも知れない)

 

 

これは日本全国の金田という地名・姓の由来について書かれた記事だが、そこに関する箇所だけを抜き出した。

この文章で見る限りでは、由来が取り上げられていない。金田氏族の話をしてるのか?地名の由来の話をしているのかさえよく解らない。

 

経由地だという。そして大永年間に愛知県西尾市一色町に移動。

 

発祥も取り上げられていない。

 

これを調べる人は、聞き取り調査なんかもしたと思うが、愛知県西尾市一色町に住む、この人達の末裔に聞き取り調査をし、答える側が、自分のルーツを他人に話す事を拒み、ぼかしたのかも知れない。自分でも向き合うのが非常に気まずいという人は世の中には多くいる。

 

これを読む限りで得られるものは

 

☆☆市金田を経由し、大永年間(1521-1528)に愛知県西尾市一色町に移住した民。

 

それだけ。

 

この民が、そこの金田の由来。

 

末裔に聞き取り調査をしたかも怪しい。末裔がどこにいてどうなったかなんて、分かるわけがない。

 

愛知県西尾市一色町に移ったが、その後何処へ行ってしまったのか、そのまま定住したのか、殺されてしまったのかは不明。

 

遊牧部落を探そうと思ったが、その前に、遊牧民の足取りを掴むのが非常に困難を極めると思った。遊牧民は文字を持たない場合が多く、口頭伝承で全てを伝える為、足跡がつかない。

遊牧民は、家畜を持とうが、失おうが、定住をしない場合が多いと考えた方が無難。

 

定住をしない為、不動産を持たない。ということ。色々と足がつかない。

 

遊牧民は土を掘り起こす事を頑なに拒むため、農耕生活をしないので定住する理由がない。だとすれば、家畜を失って日本に来た牧民は掠奪や商売や狩猟などで生計を立てる。土地に縛られない。中世日本に於いて、土地に縛られない人民がいたという事実でもある。この金田問題。

 

遊牧部落という定住的な生活の痕跡の特定は素人の自分には不可能。

 

金田の天神杜は、遊牧遺構だと認識して良いのでしょうか?

 

立て札に書かれている「この祠は国土を守護する天乃神」という箇所がとても重要。

 

「この祠は国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神とを相殿にし」という一文も大事である。

口承だけで伝えられた天乃神(テングリ)信仰の事実を、この立て札に文字として残して頂いた事に感謝致します。

そこの金田という地名も遊牧遺構と認識しても良いのでしょうか?

 

金田人は高麗人とは違う。高麗人は定住をし、農耕生活を行う。金田人がもしいたとすれば彼らは農耕に従事する事を拒んだ。

それらは宇宙三界観、シャーマニズムの精神を伝統的に守り続けたという証だろう。

 

元遊牧民だったとおぼしき人達が闊歩してたと想うと日本も大陸と同じ世界線で生きてたのかも知れないと思える。

 

という事で今日はここまで。長文、しかもまとまらない文章をご精読ありがとうございました。

パカパカー

 

金田人は金張汗国民ではありません。金田を見ると金張汗国を連想されるかと思い、大変紛らわしくて申し訳ございません。

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テングリ信仰の跡地だと思える場所を発見!!

2023年02月25日 | 自己満

これは、日本での話です。

日本国、アルタンボラグ。この集落内で、テングリ信仰の跡地だと思える聖地と邂逅しました!

テングリとは、トルコ、モンゴル族における天神。天の神。

 

先日の記事でアルタンボラグのコンビニ寄った時、月餅の取り扱いが無かった問題で「ここはアルタンボラグだから月餅を忌避するのか?!」と書いた。

 

先日、アルタンボラグ地区に月餅という月餅が売っているのか大変気になり、わざわざ確かめに行ったのと、フィールドワークのつもりで実踏した。

 

月餅は売っていたので購入してしまいました。美味しかったです。

 

 

日本国アルタンボラグ。これがどうしても知りたい方は、モンゴル語のАлтという単語をGoogle翻訳機で翻訳すると一文字の漢字が出て来るので、その漢字が頭文字の日本国内の場所です。

 

ここは、鎌倉時代頃にユーラシア大陸から舶来(渡来)した遊牧民の集落なのか?

遊牧民集落という事を仮定して足を踏み入れました。

 

遊牧世界と関連する目ぼしいものが見つかりますように!

 

その時はモンゴルのHIP HOPICE TOPYouTubeで聞いていました。

 

おすすめの動画はランダムで、どういう仕組みで出て来るのか解らない。

 

2曲目に、朝青龍、白鵬、鶴竜について歌った曲に巡り会えた。彼らは力士として日本で成功し、日本に根付いた英雄です。

 

ここに非常に相応しい曲に出会えて楽しかったです。なんか歓迎されているような気がしました。ここは、モンゴル人の領域のようにも思えてくる。

 

これを書いている221日はツァガンサール・旧正月です!

この集落の住人ももしかしたらツァガンサールを祝う家庭があるのかも知れません。

 

 

アルタンボラグ、まるでスラム街のように非常に入り組んでいて迷い込んで、日が暮れたら出られない怖さがあった。

 

丘陵地帯でもない、比較的平坦な土地でこれまで入り組む理由があるのか?

迷路みたいでぐちゃぐちゃだった。多分※ゲル地区に足を踏み入れても似たような感覚に陥るのかもしれない。

 

ゲル地区:モンゴル、ウランバートルで遊牧民が移住して、同市周辺に形成されたゲル(移動式テント型住居)や簡易な家の居住区。

 

ここも700年前から800年前はゲルテントばっかだったのかも知れない。そんな事を妄想するとビリビリする。

ここは、ゲル地区の名残りを感じる区画。

 

ゲル区画を真っ直ぐな道が斜めに貫通している。

 

妄想歴史秘話だが、鎌倉時代に舶来した遊牧民がそこら辺で比較的自由に定住牧畜生活をしていたが、鎌倉幕府が遊牧民をここら辺一帯に強制移住させて集積させた。人工的に作られたゲル地区。

 

元寇の時代よりだいぶ前で、侵攻目的で来た兵士とは違い、世帯持ちや血族の繋がりのある遊牧民の一グループだと思いたい。

国家国民として、攻めて来たわけではないと思う。

 

区画はゲル地区のように家屋の置き方がぐちゃぐちゃだが、家屋自体は立派で、古くから住む世帯が多い印象。

まさか700-800年前から代々住んでいる人は流石にいないだろう。住んでいる人の見た目はそこら辺の日本人と何も変わらない。彼らの中にその遊牧民の血を引いている人はいるのだろうか?

遊牧民の後孫はどこかへ行ってしまったのだろう。

 

もし本当にこの集落が、本物の遊牧部落であれば、日本と遊牧世界の水入らずのプライベートな繋がりの拠点である。

 

川に向かって歩くと、穀倉地帯にぶつかる。

 

 

アルタンボラグの奥にあるこの穀倉地帯は元は穀倉地帯などではなく、定牧の場、今ドキの言い方だと牧場のような所だっただろうと思わされた。柵で囲ってその中で牛馬、山羊、羊、駱駝、ヤクなどの家畜を入れていた。という憶測。

 

穀倉地帯の端の方に、松を植えた「天神」を祀る一角があった。

 

 

野晒しの原野の隅の一角に「天神」として祀られているさまは、まるでテングリ信仰の石が積まれた司祭場の跡のようにも思える。

 

 

「国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神とを相殿にし….

 

とある。後者の学問を奉ずる「天神」は菅原道真の祟りを鎮める為に、「天の神」として祀った、本来の天上神とは根本的に違っている。

 

前者の「天乃神」とは、テングリ信仰のことを指しているのか?

もしかして、テングリ信仰とは国土を守護するという要素もあるのか?

 

ちきゅうの暮らしかた/カルムイク人幸せの秘訣

 

カルムイク人幸せの秘訣

 

いつかここに、テングリの儀式をしに行こうかしら。

 

 

 

この日が晴天だったら良かった。

 

五穀豊穣を祈願して創設された。とある。

 

元々はこの狭い空間に石がうず高く積まれていたのだろう?倭人は石積みを解体し、跡に天神杜を創設したのだろうか?

倭人は、テングリ神をも農耕神として扱ってしまう。

いつ石積み状態から、このようにされてしまったのだろうか?しかし、木の周りや祠の周囲に石が置いてあるところを見ると、石が積まれていた頃の名残りなのか?現在に至っても石を積みたいと強く望むこの辺りの住民がいるのかと思いました。

 

テングリ信仰では蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。

この地に移住させられた民はここで、草原の空を想い故郷を強く慕う。

 

「草原の空を想う」は実際にこの場に行った時に降ってきた言葉です。

 

穀倉地帯を離れると、水路がゲル地区を斜めに直線に貫通する道沿いにある。穀倉地帯用の水路か。水路ひかれたのは、早くても江戸時代からだろうか?

いや、そんな事はない。年貢を納めなければならない倭国税制度の下では水路を引いて穀物を作らなければならない。その為か知らんけど、鎌倉時代にはもう開通していたという。

牛久保用水

 

 


 

穀倉地帯は冬枯れの最も美しい時期なら、黄金に輝き非常に美しいと思う。

この集落の正式名称の由来は文字通りのGolden 穀倉地帯なのだろうか?

 

「アルタンボラグ下宿」のバス停から駅方面に50mぐらい歩いて少しゲル地区に踏み込んだ所に、アルタンボラグ及び下依知付近の地域の入り組んだ道についての説明書きがあった。

 

 

本間氏とは、アルタンボラグ神社(当時船来田神社)を建てた地頭という役人である。アルタンボラグに750年間も代々居住し続けている本間氏という者がいるらしい。

おそらくそれが、それだと思う。

地頭は鎌倉時代の警察のような暴力機関と言われていたが、この本間という人物は集落の人民の敵ではなかったようだ。

定住生活を始め、時を経るに従って定住の知恵がついてくるようで、本間氏宅を衛る為に複雑な道が作られたらしい。城下町のように。

 

本間氏はここらへんの領主だったらしい。

この事柄で日本の歴史と、当時の13世紀前後の遊牧社会についての知識を得る必要があると思いました。

ガバガバな遊牧アディクト目線が勝手な妄想をすると、本間氏という人物は多分、アルタンボラグ牧民の首長であったのではないかと思われる。

遊牧首長についても勉強しないといけない。遊牧首長は、世襲制なのか?役人などのように一代限りで終わりなのか?

 

遊牧民 首長

マナープ - Wikipedia

 

例としてキルギスの遊牧首長、マナープについてのWikipediaです。

 

遊牧社会の首長と、倭国の領主と、非常によく似ていると言っても過言ではないようです。

遊牧してれば首長。定住してれば領主。

 

鎌倉幕府は、ソ連のようにパネル住宅を建てて、強制移住させた人民をそこに住まわせるなどという事はしていないと思われる。

パネル住宅の個別の決められた部屋に強制移住させられた遊牧民は、首長制というのが途絶えてしまった。

 

鎌倉幕府は、船田地区の一画に遊牧民を集積しただけだろう。その為か首長制が途絶えず、長年続いたのではないかと思われた。

 

もしも本間氏が遊牧民首長で、強制移民後アルタンボラグ地区の領主だったとしたら?!厚木市アルタンボラグという部落は、日本の定住社会におけるガチの遊牧部落である。

 

これはガバガバな憶測の域を出ませんが、大陸、中国、韓国、モンゴル、中央アジアなど、頭文字に「金」と着く地名が多い。ここもそうだ。

厚木市遊牧部落はどこから何処までかはっきりとは分からないが、依知郷とよばれる辺りではないかと思われる。領主(首長)の本間氏の居住している地域はアルタンボラグ地区という。

 

本当に憶測だが「金」の地名の由来とは、部族の首長や、汗などの王がいる(或いはいた)あたりに「金〜」と名付けたのではないのか?とも思える。

ジョチ・ウルスではカーン(可汗)の座を「金の玉座」とも言ったそうです。

 

これは古代中華思想の影響かも知れませんが、陰陽五行説四神の関係での中央の色が「金」(黄)北が「黒」南が「赤」東が「青」西が「白」

 

ベラルーシの国号は「白ロシア」だが、この「白」というのは、タタール軛時代(ジョチ・ウルス支配下時代)にタタール人(モンゴル人?)が持ち込んだ風水の影響だとも言われる。

 

それと同じように。

 

元々は船田と言われた地域であった。それがいつの間に「金田」と言われるようになっていた。

砂金でも採れたか?とか色々思った。金が採れるような場所は、付近に金沢など、他の「金」とセットになっている場合が多い。この金田周辺には金と着く地名は見当たらない。

 

それともタタラ製鉄や刀剣製造など金属加工に携わる部落なのか?

とも思えた。その場合、「金田」の読み方が少し変形してna になるのではないかと思える。

金物を「かなもの」と読むように。

 

アルタンボラグは「かねだ」(ne)と読む。

 

金田…..という漢字表記は、このブログを読む皆様に「金帳(キプチャク)」を連想させると思い、紛らわしくさせると悪いので、極力使って来なかった。アルタンボラグの牧民は、ジョチ・ウルスを知らない。だから金田(“きぷちゃくとも読めてしまいそうな)特定の国を連想させる表記は避ける。

 

歩き廻って、タタラ製鉄跡地の碑などが見つかれば今までの憶測が全て覆る。

 

それでもいい。

 

砂金でも金物やタタラでもないのであれば、何故?と疑問が湧く。

 

この部落が目についたのも、遊牧アディクトの目線で見れば頭文字が「金」で始まる為、もしかして

と気になった。アルタンボラグ神社の説明書にも非常に気になる事が書かれていたのでWで、もしかしたら….

 

アルタンボラグ地区の相模川に近い場所で、清掃工場の建設をしていた。

 

穀倉地帯に立て看板があり、こう書かれていた。

 

「アルタンボラグは充分協力してきた。清掃工場建設は絶対に反対」

 

とある。

 

この地域はまるで自治共和国のように見えなくもなく、そういう偏見で見れば、長年、倭国や倭民族と様々な軋轢があり、和解と共存が非常に難しい歴史を歩んで来たという印象を受ける。

 

ウクライナ、ロシア戦争の影響は大きい。今までこんな考えを持った事は無かった。この戦争の特殊性でもある。

 

戦争が始まって約1年が経つが、今思う事は

 

戦争を一度始めたら終わる事はない。

 

ドンパチ戦争が終わったとしても、この先、潜在的で見えにくい戦争犯罪の応酬と応酬の戦争が始まるような気がしてならない。

 

ロシアとウクライナは長年の歴史で、和解と共存の道を探し苦悩してきた。火種は数百年前に遡り、目に見える戦争が終結しても潜在的な泥沼戦争は続いていたという。

 

ドンパチ戦争は今に始まった話ではない。という戦争の苛烈さを感じました。

 

所で、話を変えます。

 

現代のウランバートル郊外のゲル地区は、社会構造がどうなっているのかさっぱり分からんが、アルタンボラグ地区のようにぐちゃぐちゃである。

 

中世モンゴルと現代モンゴルでは、違うのだろうか?

 

アルタンボラグ、遊牧集落説はあくまで仮説に過ぎず、まだ仮縫いの段階で自分の憶測や妄想や好き勝手な歴史を言っている段階。

 

これから知識増やして、整合性があるのかどうか?検証をしていきたい。知識を増やす毎に幾度かここを訪れると思います。

 

アルタンボラグ地区が遊牧部落であろうと無かろうと、このブログネタを機に日本にはこのような遊牧部落の可能性のある地域があると考えられるきっかけになれば良いと思います。

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