カナダオボーについての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️❤️💙💛💚🤍🎽
この記事は、遊牧アディクト(addict:中毒)が裏目に出て、在倭国蒙古族遊牧遺構に真摯に向き合う余り、不覚にも、読者の労力と時間を削る長大な物になってしまいました。これは単なる忘備録です。
よほどの遊牧民、遊牧国家好きな人でない限り、読むのが苦痛に感じる記事なので、読む事を強いるなどは致しません。
・カナダオボー🐦🔥とは?
カナダオボー🐦🔥とは、倭国の関東圏の南部、丹沢山塊のよく見える小集落にある、天神祠と云われる天ざらしの一角を指す。この一角は、テングリ(テンゲル)という遊牧民が信仰する天神だと考えられる神と、菅原道真とが相殿にされ、祀られている。この天神祠が元はオボー(Овоо)だったのではないかと読んでいる。オボー(Овоо)とはモンゴルで建てられる一種の標柱である。オボーはおもにチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリ(天神) といった宗教的意味を示す役割を持つが、同時に境界標識や道標としての役割も持つ。オボーが建てられる主な場所は、平原や平原にある小高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多い。川や湖や湧水地の近くにも建てられることが多い。
《引用: Wikipedia》
モンゴル本国にあるオボー
“カナダ”という、この奇妙な名称の成り立ちは、この小集落の名に由来する。この小集落の名称は金田(カネダ)というが、これをモンゴル語の発音に直したら“カナダ”という奇妙な音になってしまった。
《モンゴル語の母音の法則によれば、男性母音(a,o)と女性母音(e,u)は同じ語に共存出来ない。中性母音(i)はどちらとも共存出来るという。島村一平先生が文春の記事で教えてくれた。》
この天神祠をモンゴルオボーとして扱う以上は、モンゴル語の読みを充てる。金田(カネダ)地区にあるオボーを、カネダオボーとするよりカナダオボー🐦🔥とする方が適切である。
カネダとカナダとは、感覚的にはキエフとキーウ、チェルノブイリ原発とチョルノービリ原発のようなものである。
両者は“金田”という共通の漢字表記を持つが、言語による棲み分けを意識した為、カネダとカナダとを分けた。モンゴル人らのフィールドでの話に関しては、この記事では金田(カネダ)村ではなくカナダ村🎪と書かせて頂く。
・テングリ(テンゲル)について
テングリ信仰では蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。テングリとは、トルコ、モンゴル族などの北方遊牧民における天の神である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トルコ族、モンゴル族における物質的実在としての天。およびシャマニズム神観上の精神的実在としての天神,または天神の下にいる神々をいう。モンゴル語ではtengri,tenggeri とも表記されtängriは古代トルコ語のローマ字表記である。蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。
《引用:コトバンク 吉田順一著》
アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」「運命神」「創造神」を意味する概念。中国史の史料上はしばしば「天」と訳されている。
「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。「テングリ」崇拝は匈奴時代から確認されている。また、人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れ、これも中国には見られない。テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。
今日においては、カムチャッカ半島からマルマラ海に至るまで遊牧民の間で、シャーマニズムに基づいてテングリへの祭祀(テングリズム、テングリ信仰、テングリ崇拝)が行われている。
《引用: Wikipedia》
・何故これが、モンゴルのオボーではないかと考えるに至ってしまったのか。
⭐︎カナダオボー🐦🔥の立地。大きな川に近い場所にある。
⭐︎カナダオボー🐦🔥には、カナダ村🎪の人による手記の、この祠についての説明立札がある。その始まりの一文に「国土を守護する天乃神」とある。その信仰観が、ソーハン・ゲレルト氏の論文によると蒙古人のものであるように思えた。
⭐︎このオボーがある場所の近くにある神社の、中世に行われていたとされる10km超の長距離競馬神事の記述。
この神社は倭人が建てたが、不思議な事に何故か長距離競馬神事がかつて存在した。長距離競馬神事というのがモンゴルのナーダムという夏祭りに行われる競技の一つにある。本番モンゴルでのナーダムは30km強を走る。ナーダムは別名「オボー祭り」とも云われる。
・カナダオボー🐦🔥と出会った経緯
2023年始に遡るが、寺社仏閣巡りが流行った。自分も流行りに乗ろうとして、手当たり次第寺社巡りに赴いた。ただ拝むよりは寺社の由来を調べてから巡る方が良いと考えた。その頃行きつけの喫茶店で勉強などをしていた。暗く危険な為バスを利用して駅まで帰る途中の、ある神社が気になっていた。それが金田神社。金田神社についてググルと色々なサイトが出て来たがその中の一つに「中世に“長距離競馬神事”が催されていた」とあった。
上依知から金田までの10km強の競馬。これにはナーダムを連想させられた。それが気になって気になって仕方がなかった。
神社というのは集落毎にあるものなので、金田集落はもしかして…..
金田、頭文字が「金」、アルタンである。
モンゴルには「アルタン〜」という地名が多数あって、頭文字「金」地名が目についた。
アルタン地名とナーダム的な祭り。それだけで、実踏しよう。となった。それが全ての始まり。
以前から、この川の左岸の台地には、昔、牧民が暮らしていたのではなかろうか?という気がなんとなくしていた。牧民が暮らしやすそうな環境であるような気はしていた。川の両岸の台地は、良馬の産地であると聞いていたので、余計にそういうふうに思えていた。金田村(カナダ村🎪)は意外にも川の右岸だった。
カナダ村🎪に足を踏み入れる。穀倉地帯の端の方に、松を植えた「天神」を祀る一角があった。天ざらしで、床部分は円形(正確な円ではないが、大体円)であった。
カナダ村🎪人民によるテンゲルオボーの説明
「天乃神」と学問を奉ずる「天神」とを別々のものとして扱い、相殿にしているという点について違和感を覚えた。
何故この天神杜を、テングリ信仰と結びつけられたのかは自分でもよく解らない。多分だが、菅原道真を指す天神以外の天神が出てきたので、違和感を覚え、これはもしかしたら、テングリ信仰の可能性もあるのではないか?と考えたのかもしれない。お天道様説も考えたが、あれは太陽を指すので天乃神ではない。
テングリ信仰とは国土を守護するという要素があるのか?という疑問が湧いたので
「テングリとは?」でググった。
「モンゴル帝国時代における ハーンたちの世界観について」早稲田大学モンゴル研究所客員研究員 ソーハン・ゲレルト氏の論文に出会う。
その中でモンゴル人の宇宙三界観で、天神は地上界に保護と善と幸福をもたらすという。
天神の子とされる英雄は、悪魔を退治し、理想的な国を立て、自らハーンとなって人間社会の秩序を保護し、人びとの幸せな生活を保障する。
地上界=人間界=黄金の世界(Altan delkei)の概念しかなかったものが、チンギス・ハーンの即位以降、地上界は、天神の子、ハーンが立てた理想的な国になったと解釈しても良いのだろうか?
その国はハーンと天神によって守護される。このオボーは少なくとも、チンギス・ハーン即位からこっちの時代に出来たものと思われる。
・天神祠にある“国土”について
「国土を守護する天乃神」と表記されているが、「国土」の概念は、殆どのモンゴル帝国のウルス(属領)に当てはまらない。ほとんどのウルスは、国土や国境と言うよりは縄張りという程であった。国境もくっきり引いたのではなく、大体ここら辺ぐらいの認識であった。言語統制や宗教統制などはせず、ウルス内の人民は、納税だけしてればよかった。納税が出来なくなると非常にやばい事になった。
これは現代の事だが、遊牧国家のウルス、ハンの影響の強かった国在住の人民に「あなたは何人ですか?」との問いに、定住者であれば町や村などの名前で答え、遊牧民であれば部族名で答える。国の名前で、日本人、アメリカ人などとは言わない。国民国家への帰属意識が希薄である。
しかし例外的に、元帝国(大元ウルス)だけは、国土の概念を持ち、国民国家への帰属意識があったらしい。現在のカナダ村人民🎪の手書きの立札には「国土」というワードがある。これは日本(倭国)の国土ではなく、「元帝国」の国土を意味するのではないかと自分は考えている。
元帝国は、モンゴル人君主が中華を倣った専制君主統治をしていたため、このような国民国家の概念が生じたのではないかとも考えている。カナダ村人民🎪の言う”国土“とは“元帝国の国土”を指すのではないか?“元帝国”!”元寇“の“元”である。
大元帝国は、漢人の明帝国によって滅亡。その後中原(漢民族の定住農耕地域)より北のモンゴル高原に退いた“元”の残党勢力を北元と称する。北元の首都はカラコルム。黒砂礫という意味の都市。*カネディアン🔱らは、「北元」の後の、ドチン・ドルベンの時代に倭国に渡航したのではないかと考えている。
《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》
ウルスでも、国の概念というのはあったのかも知れない。ハーンが存在する以上、国は存在するし、単に縄張り程度の認識でも、ハーンの支配地域である以上、そこは国土であるとも考えられる。天神の子、ハーンが建てた理想的な「国」の「国土」を指すとも考えられる。
————————————————————————
元帝国=大元ウルス[モンゴルの国家]
元朝、ダイオン・ウルス、大元大蒙古国とも呼ばれる。第5代皇帝クビライが東アジアに建てた政権であり、以後モンゴル皇帝の称号はクビライの末裔が継承することになる。
大元ウルスの「大元」は易経の「大いなるかな、乾元」から採用したもので、乾元は「天、宇宙」を表しモンゴル系、テュルク系が崇める「テングリ」にあたる。
《引用:AIでウマ娘と化したオゴディのX》
前述したようにカナダオボー🐦🔥はモンゴル系遊牧民が作ったものだと考えられる。カネディアン🔱は大元蒙古国に於ける*主流民族であるモンゴル系遊牧民である。他のウルスの被支配民とは認識が異なる。自分は大元蒙古国の国民であり、土地は大元蒙古国の国土であると考えていてもおかしくはないと思うが。
《主流民族: 政権を担う民族》
このスマートフォンで元帝国の国旗の絵文字が出て来たら面白いものである。
・倭国で信仰されている天神について
カナダオボー🐦🔥の天神は、倭人の「天神」のひとつではないか?という疑問も持った。自分の勘違いで、倭人の天神信仰と、全く関係のない金田神社の長距離競馬神事を一緒くたにしている可能性もあるとも考えられる。この神事も、倭人の神事かも知れない。当時は武士もいたし、相撲神事と同じで、稲作民族の五穀豊穣を祈願する長距離競馬神事だった可能性もある。
これだけモンゴルの事ばかり考えていると、思い込みによる勘違いが生じる場合がある。自分は遊牧アディクトなのでそういう傾向にある。
倭人には「国土」を憂うという風習はないと考えられる。何故なら、倭国は「国土」の守護を祈願するほど、倭国国土全体が危機に瀕した事は歴史上あまりにも少なかった。倭国は長い歴史の中でたったの2回しか侵攻された事が無かった。
一度目は元寇(紛らわしくて大変申し訳ない)。しかしそれは、壱岐、対馬と九州北部の一部だけであり、倭国全土ではない。結果的に失敗に終わった。
もしこれが九州で、国土の守護を祈願する天神を祀る一角があるとすれば、元寇による侵攻からの守護祈願であっても不思議ではない。
もう一つの侵攻は第二次世界大戦の米軍による爆撃。これは日本国土が焦土と化した。カナダオボー🐦🔥がいつの時代に出来たのかは、正確には分からない。下手をすれば戦時中にただの日本人の村人が戦時中に、爆撃から日本国国土を守護する祈願をし、天神を祀り石を積み始めたのかも知れない。学問を奉ずる天神の方が古い可能性もある。
しかし、*金田村の人民の手書きによる天神祠の説明を読む限りではそのような事に起因するものでは無さそうである。
《*金田村(カネダ)と表記するのは、この一文では、倭人(日本人)目線のフィールドでこの村や祠を扱った為》
倭人の神観の天神は幾つか存在する。
⭐︎学問を奉ずる天神、菅原道真。
菅原道真の祟りを鎮める為に、「天の神」として祀った。「天満宮」というお社は、菅原道真を祀ったものである。
⭐︎高天原(タカマノハラ)の天の神
高天原とは、日本の最高神、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)の統治する天界。
“天”の神の系統は高天原の神様。それに対して“地”の神の系統は、元々その土地におられ守護していた土着の神様、或いは、天の神の子孫で地にお住みになった神様を言う。
“天”の系統の神を天津神、“地”の系統の神を国津神という。天津神はヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神。国津神はヤマト王権によって平定された人々(蝦夷・隼人など)が信仰していた神である。漢字で天津神を「天神」(テンジン)、国津神を「地祇」(チギ)とも言う。地祇は、*葦原の中つ国の国土の神とされる。天神は天界を守護し、地祇は国土を守護する。国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(地祇)である。
《葦原の中つ国: 高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界》
《引用:Wikipedia》
⭐︎天照皇大神(アマテラスオオミカミ)
日本の最高神。これは「天」や「空」ではなく、太陽神である為、天神とは別物である。
⭐︎空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)
空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、大地の神、伊邪那美命(イザナミノミコト)
イザナギノミコトとイザナミノミコトは夫婦で、イザナミノミコトは日本列島を産んでいる。
⭐︎十二天の「天部」
十二天(ジュウニテン)は、仏教の護法善神である。護法善神とは、仏法および仏教徒を守護する主に天部の神々のこと。護法神、あるいは諸天善神などともいう。仏教の法(ダルマ)を守護する者はダルマパーラ、漢訳では護法という。
仏教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものである。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天としたものである。
帝釈天、火天、焔摩天、羅刹天、水天、風天、毘沙門天、伊舎那天、梵天、地天、日天、月天
《引用:Wikipedia》
⭐︎火雷天神(雷神)
日本における天神信仰は元々、雷神に対する信仰の事である。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天(テンマンダイジザイテン)という神格で祀られ、つづいて清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結びつけて考えられ、火雷天神と呼ばれるようになった。
《引用:Wikipedia》
⭐︎田神(火雷大神(ホノイカヅチノオオカミ)
田の神様、生産、生成の神様という色彩が強く、生産・生成や地域に貢献し生産の心の支えとなられた方が祀られている。
《引用: NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会》
この田神というのも、日本における元々の天神である雷神(火雷大神)である。
雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。
雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。
《引用:Wikipedia》
ここでもう一度、金田村(カネダ)の天神祠の立札をおさらいしよう!
「この祠は国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神を祀り、五穀豊穣を祈念して創設された天神杜で*?に天神様という五穀豊穣の達?は天地の恵みと人々の英智努力によって稔るものである」
*読めなかった文字
この祠の天乃神は、この文章を読む限り、最後の田神=火雷大神=雷神と、菅原道真を祀った祠のようにも見えて来る。五穀豊穣を祈念して建てられた祠であれば、筋が通る。火雷天神(火雷大神)は、同時に学問を奉ずる神、菅原道真をも指す。しかし、もしそうであれば「相殿」という形にして、菅原道真と火雷天神をわざわざ分断する理由が解らないのである。
この天晒しの円形に形どられた範囲内には、2棟の石祠が建っている。一つは菅原道真で、もう一つは火雷天神なのだろうか?
火雷天神は、稲作の守護神である。国土の守護神の概念とは掛け離れている。
一つ、この文章から導き出せるのは、「……….学問を奉ずる天神…以下」は、筋が通る。「国土を守護する天乃神」をここから除けば、農耕民である倭人の信仰としての筋が通るのである。
問題の「国土を守護する天乃神」
これがもし、「国土を守護する地乃神(地祇)」であれば、倭人の神観に沿う。「天地の恵み」というのが、「菅原道真(火雷天神)」と「国土を守護する地乃神(地祇)」の神によるものとされれば、これも倭人の神観としての筋が通る。
金田村(カネダ)の人民は、「国土を守護する地乃神」と書くべき所を「天乃神」と誤って書いてしまったのではないか?とも考えた。
しかしこの円形の一角を、金田村の人民は「天神杜」と称する。「天地神杜」ではない。
「天神」同士を相殿にしてあるから「天神杜」である。だから誤って天乃神と書いたものではないという事がわかる。
金田村の「国土を守護するという天乃神」は、倭人の信仰する天神の神観のどれにも属さなかった。
倭人には天神が国土(地上世界・人間世界)を守護するという天神の概念は存在しない。
ところで、農民は天神ではなくて地神を信仰する。
「地神」とは大地を象徴する神様、十二天の一つと言われ、その信仰は神奈川県全域から静岡県東部にかけて顕著に見られます。
《引用:厚木市郷土博物館》
地神は農業の神でもある。
地神は十二天の地天だとされ、大地をつかさどる女神であって、これが仏教に取り入れられたものである。
《引用:Wikipedia》
金田村は神奈川県に存在する。金田村の人民が五穀豊穣を祈念するのであれば、地神を祀っていても良いと考えられる。
金田村の人民は、別の所で地祇や地神を祀っているのかも知れない。
・モンゴル国にあるカナダ型オボー
廣田千恵子先生のインスタで、モンゴル国内で撮影されたオボー🦩がカナダオボー🐦🔥と似ていた。
廣田先生に、このオボー🦩はモンゴル国内の何処にあるのか質問をした。
オボーの形には、地域差があるとする文献があった為、カナダオボー🐦🔥に似た形状のこのオボー🦩のある場所が分かれば、*カネディアン🔱の出身地がどこだか分かる気がする。
《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》
・廣田先生の答え
「実際この写真は、ウランバートルから車でゴビ方面へ向かい、アルタイ山脈を辿ってバヤン・ウルギーに行くという長旅のどこかで撮影しました。」というご回答を頂いた。
GPS機能がついているカメラではなかったので、正確にどこの場所で撮影したのか分からない状況にあったという。
偶然出会ったオボー🦩モンゴルの長旅では、今どこを走っているのか全然分からなくなりそうだが、この答えから推測出来る事は、旅の初めの方(ウランバートル近郊)と終わりの方(バヤン・ウルギー近郊)ではないと考えられる。それともう一つ、アルタイ山脈寄りでもないと考えられる。アルタイ山脈はランドマークになり得る。
写真を見る限りでは、ステップ(草原)地帯の、砂に覆われた丘の上にオボーがあるように見える。ステップの度合い(グラデーション)では*土漠よりやや緑の濃い所である。
《土漠: サラサラの砂ではなく、硬い土や石に低木や草が疎らに生える》
アバウトな分け方でモンゴル国の北の方か南の方かで分けると、南の方である。北は緑色のステップ地帯や緑に覆われた山岳、タイガ(針葉樹林)地帯。南は茶色寄りのステップ、土漠、ゴビ(砂漠)地帯。廣田先生の写真によれば、緑の濃い地域ではなく、比較的砂漠寄りの植生である。先生の通った道は、モンゴル国の北ゴビである。カネディアン🔱はこのような風土の故地を離れて倭国に渡航したと考えられなくもない。
・何故両者が似ていると感じるのか?
廣田先生が撮影されたモンゴル国内のカナダ型オボー🦩は、綺麗な円錐形ではなく、一番下の段の右端が長く見える。この写真はオボーの左端が切れているので、全貌が見えないが、それでも右端(片側の裾)が長く見える。
カナダ村🎪のオボー:カナダオボー🐦🔥は床部が円形で、直径約7m。スマホの計測アプリで計測。7月、8月に訪れた時、円形の周囲に雑草が生えているのに対して円の中には生えていない。見た限り、踏んだ限りだと、円の下には大きな石が多数埋まっている様子であった。円の中の土から直径15cm-20cm大ぐらいある石の一部がはみ出ていた。松とその他の木が植えられている。松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。という事はこの円形の下はどうなっているのか?この円形の下には砂利ではない大きな石がたくさん埋まっている。それも土深くまで。
周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさだろうと考えられる。このオボーは、円からはみ出し、片側だけが長い。このような特徴から、元の形は廣田先生の撮影したオボーのようであったのではないかと考えた。インスタでたくさんのモンゴルオボー🦩を目にするが、カナダオボー🐦🔥の様に片裾だけが長いというものは見た事がなかった。カナダオボー🐦🔥は、何故これらの石堆が埋まった状態であるのか。それは長年に渡って川の氾濫により土砂が堆積しオボーの下の部分は土に埋まった。川は現在の水面の位置よりも高かったと考えられる。
川砂利の過剰採取とダム建設による砂利の供給力低下で、橋脚が剥き出しになるほど砂利が少なくなり、川の水位も低下した。
・カネディアン🔱が約400年前に倭国に渡航して来たと考えた理由
菅原道真が祀られた石祠と、もうひとつの国土を守護するという天乃神様が祀られた石祠。
菅原道真以外の天神の存在、それ自体が異国の神様だと考えられた。
何故、カネディアン🔱が約400年前の倭国に渡航したのかと考えられるのかというと、オボーに石堆を使うのはチベット仏教採用後から始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。彼らが倭国に渡航したのは16世紀末から1641年(倭国の鎖国)ではないかと考えられる。元帝国滅亡後、北元の時代を経て、ドチン・ドルベンの時代(1388〜1691)に即位したアルタン・ハーンの在位中にオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出した。
1578年 アルタンはチベット仏教ゲルク派の高僧ソナムギャンツォと会見。16世紀末になると、シャマニズムに対するチベット仏教の排斥活動が進み、モンゴルのシャマニズムは衰微に向かった。とくに仏教受容が早かったのは、アルタンが統治した青海からオルドス、山西にかけての地域だった。16世紀の末から17世紀初頭。アルタンとソナムギャンツォとの会見からわずか20年程でモンゴルに仏教が広まった。
カネディアン🔱の中には、シャーマンはいなかったと自分は考えている。カネディアン🔱は仏教徒である。しかし、石堆形のオボーを作る。モンゴルの仏教受容後、オボーの祀り方にも仏教様式が取り入れられ、様々な制約が進んだ。テングリ信仰を依然続けながら仏教徒として生きていた。その時代、シャーマンが仏教から弾圧され、ついにいなくなってしまった。現代のカナダ村🎪にもシャーマンは存在しないであろうと思われる。
かつては石堆が高く積まれ、ルンタ(rungta)(風の馬)と言われる*五色の布が飾られ、木の枝などが刺してあり、そこには青い布が巻かれていたのかも知れない。
*⬜️🟦🟥🟩🟨
立札は、市の教育委員会ではなく、ここの村人が書いた。もし、市の教育委員会が説明書きを書いたら「国土を守護する天乃神」とは記さないだろうと思う。
祠や石祠の置いてある場所で、床の部分が円形になっている時点でそこは、石堆のオボーをどけた跡に見えた。通常そのような場所の床が円形である所は殆ど存在しない。
よってカナダオボー🐦🔥は、倭人によって建てられたものではない。カナダオボー🐦🔥にはモンゴル語の正式名称があるはず。
・まとめ
日本各地の集落には、独自の風習や神社祭祀がある。そのようなものをわざわざ突き詰めていくと、そこ独自のものではなく、日本発祥とも限らずユーラシア大陸の何処かと同じ事をやっている可能性があるという事が分かって来る。ユーラシア大陸から渡航して、ここに根付いている可能性もある、つまり、ユーラシア大陸にルーツがあるという事。日本人は単一民族・一枚岩ではないと私カルガリーは考えている。
例を挙げると、埼玉県新座市の新座とは、かつて半島に存在した“新羅”という国を意味する。同じく埼玉県の高麗郡の高麗とは、新羅と同じ時期存在した“高句麗”という国を意味する。古代朝鮮半島人ディアスポラ(オールドカマー)が倭国に存在するなら、中世モンゴル人ディアスポラ(ミドルカマー)が倭国に存在していても不思議ではない。カナダ村🎪も、“カナダ”とかいう珍妙な単語ではなくて、“蒙古”の国の名称を冠した地区名称にすべきかも知れません。新羅、高句麗が国なので、これも“蒙古村”に改名しようと考えている。カナダという単語はメルキト部族の言語で“村”を意味するので、外交問題に発展するのではないかと内心ヒヤヒヤ。幸いカナダと自称する部族などが現在では確認されていない。もしカナダ族なるものが存在したら、外交問題にも発展するだろうし何らかのトラブルが避けられなくなるだろう。
カナダオボー🐦🔥の説明が終わったので、以後はカナダ村🎪を蒙古村🎪と変更する。
非常に長い文章で申し訳ないと思いますが、こんな面倒くさい記事のご精読ありがとうございます😊
↓
土地の主という意味のThe Delkhii bandの曲
《参考文献:特集◎モンゴルシャーマニズムの世界から モンゴル帝国時代におけるハーンたちの世界観について ソーハン・ゲレルト・早稲田大学モンゴル研究所客員研究員》
《参考文献:東海学院大学紀要 7(2013) モンゴルのオボーの歴史 今井秀周。》