自分が、日本において遊牧無形文化遺産だと思えるものは以下の通り。
・相撲
・鷹狩り
・競馬
・流鏑馬
なぜそう思い込んでいるかというと、遊牧民族の伝統競技にもこれらに似たものがある。
モンゴルのナーダムでは、ブフ(蒙古相撲)、競馬、弓射の3つの競技が行われる。ナーダムとは、モンゴルにおいて年に数回行われる国民行事、民族の祭典である。
まるで日本の伝統競技みたいだ。あるいは武芸のようでとても親近感が湧く。
中央アジアにはノマドゲーム(国際遊牧民競技大会)という2年に1度開催される、遊牧民の伝統競技を推進し、祝福するためのイベントである。
それにも、競馬、相撲、鷹狩り、騎射(流鏑馬と基本同じ)が盛り込まれている。
日本に無いものは、ヤギをボールに見立てたポロ。その他もあるかもしれないが、よく分からない。
今回は日本の相撲と蒙古相撲について書く。
蒙古相撲と日本の相撲は、服装とルールこそ違えど、組み合って闘う点では根本的に同じ。
日本では国技である。モンゴルでも国技である。
日本でもモンゴルでも神事の性格を備えた格闘技。蒙古相撲(ブフ)は土俵やリングはなく、伝統的に草原で行われてきた。頭、背中、肘、膝、尻などが地面に着くと負けとなるが、掌は地面についてもよい。
技は複合技などを含めると400以上あるといわれ、決まり手は500種類を越える。
試合は、いわゆる立ち会いはなく組み手の駆け引きから開始される。技を仕掛けてはそれをかわすことを繰り返す。「投げる」「倒す」が基本。試合は長時間に及ぶことが多い。
蒙古相撲は約2500年の歴史があり、日本の相撲と技の共通点も多く、その源流という説もある。
中世には兵士の鍛錬として行われた。チンギス・ハンも愛好したといわれる。
日本相撲の起源は、力自慢の取っ組み合いが相撲の始まりと言われる。古事記(712年)や日本書紀(720年)にある力くらべの神話や、当時出雲国にいた野見宿禰(のみのすくね)と大和国にいた当麻蹶速(たいまのけはや)の*天覧勝負の伝説が挙げられる。相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となる。
* 天覧勝負 : 天皇の前で試合を行う事。
また、相撲の天覧勝負がはじめて行われたのは4世紀よりも昔、今から2000年も前だとも言われている。キックやパンチも繰り出される取っ組み合いだったらしい。知らんけど。今のような相撲のスタイルになるのは、江戸時代に入ってから。
定期的に相撲が開催されていた資料が残っているのは奈良時代以降から。相撲に魅了された聖武天皇が定めたとされている。
鎌倉から戦国時代にかけて、相撲は武士の鍛錬として盛んに行われるようになる。四股名がつくようになり、プロの力士が誕生したのもこの時代から。織田信長も大の相撲ファンだったようである。
江戸時代になると、武士の娯楽であった相撲が大衆へと広がっていく。技も現代のスタイルになる。
格闘技は、基本どの民族でも同じような事を考えるが、モンゴル相撲が日本の相撲の起源であると考えられなくはない。
日本の相撲と技の共通点が多いという事や、2000-2500年の歴史があるという事から思うに、両者は起源が同じと考えてもおかしくはない。神事の性格という共通点もある。
“古事記”や“日本書紀”では倭国で起きた事柄しか取り上げていない。当時は入国管理など全くしていなかった為、いつどこでどこから倭国に一般人が流入したかなど逐一取り上げていない。
古代、いつの間にか流入した北方遊牧民族がいつ間にかそこら辺で力比べの取っ組み合いをやっていて、それを書かれた。それだけ。知らんけど。可能性としてはゼロじゃない。
もう一つ考えられるのは、北方遊牧民族は古代だけではなく戦国時代などの中世にも流入があった。中世代はモンゴルも日本も似た様な事をやっていた。武士の鍛錬の為、相撲をしていた。中世になれば、古代よりも現代に近いスタイルの相撲になる。これは単に自分の憶測だが、中世は倭国と蒙古は相互に人的交流があったのではないか?と思われる。
江戸時代にスタイルが固まる直前ぐらいまでは、人的交流があり、相撲という遊び、神事に、互いに影響を与え合った。その為、倭国相撲と蒙古相撲、双方に共通する“技”が生まれた。
違う民族から生まれた競技で無数にある技の中で共通する技があるのは奇跡に近い。
それでも蒙古相撲は、倭国相撲よりも遥かに技の数が多く、競技人口が日本より遥かに多いそうなので、その中で勝ち抜いて日本に来た力士は強い。モンゴル人力士が非常に強い理由はそれかと思われる。
長文をご精読ありがとうございます😊
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