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猿田彦・サルタヒコの正体を探る
むらくも歴史チャンネル
@katumoku10
皆さんは驚かれると思いますが、記紀神話は江戸時代に作られたものなのです。詳細は「【驚愕!】記紀神話は江戸時代にできたの?」をご参照ください。
猿田彦ですが、これは藤原不比等が建国時代の史実が不都合なので、神話を創作して隠し、人代の歴史も相当改ざんしたことが、考古学や民俗学の成果から判明しました。
教導の神の猿田彦はニニギノミコトの天孫降臨の場面で、アメノウズメと共に登場します。猿田彦は本当の初代ヤマトの祭祀王応神天皇の父の、大国主として隠されたた、日本海沿岸部の縄文海人ムナカタ族を束ねる王久久遅彦です。魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗のことで、豊岡市久久比神社のご祭神で全国の上棟式の祭神でもある木の神なのです。つまり、木霊イタケル神であるスサノヲの子の子孫なのです。
出雲・丹後王国の三代の王(八束命・日高彦・高野御子)ですが、記紀神話で日向三代の神話で誤魔化しています(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。
猿田彦は倭国大乱の英雄で、菊池川の前線基地方保田東原遺跡付近で倭国王の急襲を受けて戦死しており、周辺には猿田彦の特殊な記号入りの石碑が数多く見られます(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。この霊ラインが大国主の生誕地を教えてくれました(詳細は「【刮目天の古代史】2022年の大発見!(^_-)-☆」参照)。
応神天皇の即位は、三輪山の大物主大神の祟りによって呼び寄せられた崇神天皇紀の大田田根子の話が、史実に近いものです。卑弥呼の死後の内戦に勝利して列島の大半を支配して倭国王となった久々遅彦(高野御子)を、纏向遺跡を王都とする狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が討って日本が統一されます。しかし、280年に狗奴国の後ろ盾だったと推理した呉が西晋に討たれますので、倭国を滅ぼした狗奴国が次に討たれると不安になったので、大国主と台与の王子で、多分南九州に逼塞していたホムダワケを探し出して両親の鎮魂のために呼び寄せ、ヤマトの祭祀王としたのです。邪馬台国の女王卑弥呼・台与の後継者ということにしたので、纏向遺跡をヤマトと呼ぶことにしたと推理しました。
ですから、応神天皇・大田田根子の史実を隠すために天孫降臨神話や神武東征で応神天皇を即位に導いた神を登場させたのです。神武東征では塩土老翁としています。猿田彦のペアのアメノウズメは台与のことです。なお、応神天皇の父を仲哀天皇として誤魔化していますが、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、杜撰な作り話と直ぐに分かります。
卑弥呼の死後の内戦は仲哀天皇の熊襲征伐の話にしています。住𠮷大神の神託を疑ったために崩御しますが、大神はスサノヲのことですが、その子孫の大国主のことなのです。仲哀天皇は、狗奴国王と同じ吉備のニギハヤヒ大王の子孫の尾張王ヲトヨノミコトです。イザナミが生んだ火の神カグツチとして秋葉神社に祀られています。イザナギに殺される話にしていますが、これもその子孫の大国主に殺されたことを意味します。秋葉神社は愛知県に最も多く見られます。
そして、父ヲトヨノミコトを殺された尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が九州に遠征して大国主や台与を討ちました。これを仲哀天皇の祖父景行天皇の九州遠征の話にしていますし、記紀神話では大国主の国譲り神話としています(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。
古墳時代初頭(3世紀後半)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、景行天皇の遠征ルート上で戦闘の痕跡を発見しています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。
建稲種命は九州の支配を狗奴国王卑弥弓呼の一族(物部氏の祖)に任せ、纏向遺跡に凱旋し、日本中の大国主傘下を征伐して統一を果たした英雄ですが(注)、これも崇神天皇の四道将軍の遠征ルート上に戦闘の痕跡を発見しました。つまり250年から280年ころまでの史実を四道将軍の遠征から応神天皇即位までの約350年間の話に引き延ばして創作していたことが判明しました。詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」をご参照ください。長々とお邪魔しました。
(注)建稲種命は東海遠征の途中で戦死して静岡県沼津市「高尾山古墳」に埋葬されたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。従って、四道将軍のタニハノミチヌシの丹後・但馬遠征や大彦命の北陸道遠征などは建稲種命の子の尻綱根命が率いた尾張勢と考えています。
【関連記事】
狗古智卑狗の霊ラインを延長すると大国主の父日高彦の王宮(現在、五社大明神社)に到達しました。その先に「誕生之浦」の石碑があり、大国主高野御子の生誕地と分かりました。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!