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魏志倭人伝の一番最後に女王台与が青い大きな勾玉二個を西晋の皇帝に贈ったという記事があります。王勇『中国史のなかの日本像』(農山漁村文化協会 人間選書、2000年)によれば、これによって日本は珍しい宝石の国だとシナから認識されたとあります。糸魚川産の青ヒスイの勾玉ですね。台与は卑弥呼の後の内戦に勝利した人物によって、卑弥呼の宗女として女王に立てられたヒスイの国の姫巫女でしょう(詳細は「刮目天の古代史 台与は青ヒスイの国の姫巫女だよ」参照)。
まだまだ話がありますので、よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。(;^ω^)
https://blog.goo.ne.jp/katumoku10
糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉
この時の史実が記紀の仲哀天皇の熊襲征伐の話とされていると関裕二さんは推理しています。仲哀天皇は大神の神託を信じないために突然崩御します。そして神功皇后がお腹の中のホムダワケを抱えて三韓征伐に出発し、十月十日後に帰国して出産するわざとらしい話になっています。常に皇后の傍らに寄り添って皇后を助けた忠臣の老人が武内宿禰です。
住吉大社神代記の中に、仲哀天皇のモガリに皇后と大神が夫婦のことをしたという話があります。つまり本当の父は仲哀天皇ではなく住吉大神かも知れないと匂わす伝承です。
住吉大神も常に皇后を助けた神様ですが、普通、スサノヲと考えられていますので年代が合いません。しかし、当時はその血を引いた子孫を著名な祖先で表現する慣習があることに気付きました。日本書紀のトリックかもしれませんが、首長霊信仰の考え方によれば、偉大な祖先とその子孫の首長は霊的に一体なのです。つまり、ここで大神というのはスサノヲの子孫の大国主のことであり、武内宿禰のことだと分かりました。
仲哀天皇は日本書紀で父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので杜撰な作り話なのです。仲哀天皇のモデルとなった実在人物は、纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海の土器です。ですから東海を治めていた尾張王だと推理できます。吉備を平定して奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫ですので、天皇号を与えています。仲哀天皇の話は狗奴国による倭国遠征の史実を誤魔化すために作られたものと推理しました。下の図は卑弥呼の死の直前の状況です。
遠征軍が倭国に到着したときに、すでに卑弥呼が亡くなっていたので、卑弥呼の弟だった玄界灘を支配するムナカタ海人族で和邇氏の祖の赤坂比古が戦意を喪失したので、伊都国男王で卑弥呼の男弟された軍事を司る本当の倭国王の難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しました。
無傷で倭国を手に入れた尾張王(ヲトヨノミコト)が狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、ニギハヤヒ大王の直系の子孫)を裏切って倭国王に立ったのです。それに不服だった副将として従軍していたムナカタ海人族の王久々遅彦(豊岡市久久比神社の祭神、木の神で全国の上棟式の祭神ですから木の霊イタケルの子孫、つまりスサノヲの子孫で王の襲名、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、武内宿禰)と戦闘になり、赤坂比古が昔のよしみで久々遅彦軍に加わり、尾張王を赤坂比古の根拠地の鳥栖まで追い詰めて討取ったと推理しています。九州で最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています。
そして、久々遅彦は、裏切り者の尾張王を討ったので正しい行いなのですが、狗奴国王の親族の実力者だったので狗奴国王の処分や尾張勢の仕返しを怖れました。そこで、丁度来日していた魏使張政の進言を入れて、13歳の台与を外交上女王に立てて、自ら倭国王に立って、狗奴国と対立したと推理しています。久々遅彦は、狗奴国王が支配する吉備・畿内・尾張などを包囲する列島の大部分を傘下にした大勢力になったので記紀神話で大国主命とされた人物だと推理しました。
ですから、ヒスイの産地糸魚川と近江を支配していた海人族の姫巫女が台与です。大国主の妃で、初代ヤマトの祭祀王応神天皇の生母神功皇后のモデルですので、大国主神話のヌナカワヒメとされたのです。
神功皇后台与の父は息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。米原市日撫神社で少彦名命と一緒に祀られていますから大国主の国造りのパートナー少彦名命が息長宿禰王です。
吉野ケ里遺跡の謎の石棺の被葬者が、その墓の蓋に星座を意味する記号が多数描かれていましたので、夜間に星座を目印に航海した海人族のシャーマン王だと分かりました。そして、肩幅36cmのとても小柄な人物だったようですので大国主神話で少彦名命とされたと考えています。吉野ケ里遺跡の日吉神社の新社屋に実際に行って祭神を見てきましたが、何と、薬師如来像だったのです。少彦名命は医療の神様なのです(^_-)-☆
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最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉
この時の史実が記紀の仲哀天皇の熊襲征伐の話とされていると関裕二さんは推理しています。仲哀天皇は大神の神託を信じないために突然崩御します。そして神功皇后がお腹の中のホムダワケを抱えて三韓征伐に出発し、十月十日後に帰国して出産するわざとらしい話になっています。常に皇后の傍らに寄り添って皇后を助けた忠臣の老人が武内宿禰です。
住吉大社神代記の中に、仲哀天皇のモガリに皇后と大神が夫婦のことをしたという話があります。つまり本当の父は仲哀天皇ではなく住吉大神かも知れないと匂わす伝承です。
住吉大神も常に皇后を助けた神様ですが、普通、スサノヲと考えられていますので年代が合いません。しかし、当時はその血を引いた子孫を著名な祖先で表現する慣習があることに気付きました。日本書紀のトリックかもしれませんが、首長霊信仰の考え方によれば、偉大な祖先とその子孫の首長は霊的に一体なのです。つまり、ここで大神というのはスサノヲの子孫の大国主のことであり、武内宿禰のことだと分かりました。
仲哀天皇は日本書紀で父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので杜撰な作り話なのです。仲哀天皇のモデルとなった実在人物は、纏向遺跡の外来土器のほぼ半数を占めるのが東海の土器です。ですから東海を治めていた尾張王だと推理できます。吉備を平定して奴国を再興したニギハヤヒ大王の子孫ですので、天皇号を与えています。仲哀天皇の話は狗奴国による倭国遠征の史実を誤魔化すために作られたものと推理しました。下の図は卑弥呼の死の直前の状況です。
遠征軍が倭国に到着したときに、すでに卑弥呼が亡くなっていたので、卑弥呼の弟だった玄界灘を支配するムナカタ海人族で和邇氏の祖の赤坂比古が戦意を喪失したので、伊都国男王で卑弥呼の男弟された軍事を司る本当の倭国王の難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しました。
無傷で倭国を手に入れた尾張王(ヲトヨノミコト)が狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇、ニギハヤヒ大王の直系の子孫)を裏切って倭国王に立ったのです。それに不服だった副将として従軍していたムナカタ海人族の王久々遅彦(豊岡市久久比神社の祭神、木の神で全国の上棟式の祭神ですから木の霊イタケルの子孫、つまりスサノヲの子孫で王の襲名、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、武内宿禰)と戦闘になり、赤坂比古が昔のよしみで久々遅彦軍に加わり、尾張王を赤坂比古の根拠地の鳥栖まで追い詰めて討取ったと推理しています。九州で最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理しています。
そして、久々遅彦は、裏切り者の尾張王を討ったので正しい行いなのですが、狗奴国王の親族の実力者だったので狗奴国王の処分や尾張勢の仕返しを怖れました。そこで、丁度来日していた魏使張政の進言を入れて、13歳の台与を外交上女王に立てて、自ら倭国王に立って、狗奴国と対立したと推理しています。久々遅彦は、狗奴国王が支配する吉備・畿内・尾張などを包囲する列島の大部分を傘下にした大勢力になったので記紀神話で大国主命とされた人物だと推理しました。
ですから、ヒスイの産地糸魚川と近江を支配していた海人族の姫巫女が台与です。大国主の妃で、初代ヤマトの祭祀王応神天皇の生母神功皇后のモデルですので、大国主神話のヌナカワヒメとされたのです。
神功皇后台与の父は息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。米原市日撫神社で少彦名命と一緒に祀られていますから大国主の国造りのパートナー少彦名命が息長宿禰王です。
吉野ケ里遺跡の謎の石棺の被葬者が、その墓の蓋に星座を意味する記号が多数描かれていましたので、夜間に星座を目印に航海した海人族のシャーマン王だと分かりました。そして、肩幅36cmのとても小柄な人物だったようですので大国主神話で少彦名命とされたと考えています。吉野ケ里遺跡の日吉神社の新社屋に実際に行って祭神を見てきましたが、何と、薬師如来像だったのです。少彦名命は医療の神様なのです(^_-)-☆
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