【邪馬台国論争】魏志倭人伝と毌丘倹の深い関係を解きほぐす【前編】
岡上佑の古代史研究室@YouTube
とても勉強になる講義をありがとうございます。
次回が待ち遠しいのですが、現段階でひとつ疑問がありますので、お教えください。
正始八年(247年)の記事が最新ということですが、卑弥呼の後の女王はたった13歳の台与なので彼女は何も判断はできないはずです。外交上卑弥呼の宗女として女王にされたと思います。誰が女王にしたのかは卑弥呼の後に立った男王に不服な勢力が、男王を討った事件があり、張政の進言を受けたその勝者だと推理しています。
そして国が収まって、張政は台与に倭の大夫掖邪狗ら二十人を魏に朝貢するように諭し、張政自身は帯方郡まで送らせたとあります。
しかし、千人が死ぬ大きな戦闘があった直後に直ぐに国が収まるとは考えにくいのです。
ですから、台与の朝貢は、255年に魏から西晋に帝位が禅譲されて、その祝賀のために一世一代の立派な贈答品(男女の奴隷三十人、白珠五千個、そして二個の大きな青勾玉)を掖邪狗らに持たせてその翌年266年に朝貢したのではないかと想像しています。
特に青の勾玉はヒスイだと考えています。そうすると糸魚川産ということになります。なので、倭国は越を支配下に置いていたことになります。九州に邪馬台国があったと考えていますから、卑弥呼の後に男王に立った人物は狗奴国側の倭国遠征軍の大将で、この大将を討った人物も同じ狗奴国側の遠征軍の有力な副将クラスだったと推理できます。
もしも卑弥呼の男弟ならば倭国内で内戦になるはずはありません。ですから、狗奴国の大軍が到着して、男弟は逃亡したと考えられます。
遠征軍の大将が無傷で倭国を手に入れたので、捕らえられた張政が必死に魏を後ろ盾にするように大将を説得したので、狗奴国を裏切って倭国王に立ったと推理しています。ですから遠征軍内部の抗争ということです。
ということであれば内戦が収まっても、狗奴国を裏切って台与を女王にしたので、狗奴国との対立はそのまま残っているはずです。国が収まるにはもっと多くの時間が必要でしょう。
つまり魏志倭人伝は西晋の記事を載せたので年号を記さずに追加したのではないかと推理しています。魏志倭人伝の目的は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚することなので、卑弥呼の次の代も親魏倭王だとしたいからと考えられます。これは当時の状況の推理ですが、年号を記さずに追加したとは考えられないでしょうか?長い質問で申し訳ありません(;^ω^)
コメント有難うございます。「正始年間で記事が終わっているが、本当はもっと後ろの事績ことまで書いてあるはずだ(主張Aとします)」というのは、結構日本古代史界隈、倭人伝解釈の世界では、大手を振っていますね、ただ、私はこの主張Aは、「木を見て森を見ず」の典型だと思っています。
見るべきは「烏丸鮮卑東夷伝」全体で、その中で年号抜きでそんな妙な書き方をされているか、確認してみればいいのです。とても真摯に取り組まれている方なので是非ご自身で調べて見てほしいですが、東夷伝全体の最新記事は全て「正始年間」、烏丸鮮卑伝に至っては、明帝の時代で終わっており、正始記事までしかありません。そんな中で「倭人伝のみが正始年間以降の記事を年号を書かずに記載されている」という主張Aは、自意識過剰になっているのではということです。
こう言った論法というのは、実はありそうでなかった論法なので、主張Aを決定的に突き崩す内容なのですが、世の中的には、(ほぼ)岡上一人が唱えている説となっております。 世の倭人伝解釈のどこにも書いてない解釈法なので、図書館にいって「倭人伝読本」をいくら読んでも、岡上説の正さはわかりません。岡上説が正しいかどうかは、ご自身で「烏丸鮮卑東夷伝」の下限記事を一つ一つ押さえてく以外ないのです。こんな単純な作業を怠ってきた倭人伝解釈のレベルには、私もちょっと吃驚しましたが、けど、「倭人伝はどうせわからない」として、誰もまともに研究していなかった証左なのかもしれませんね。
どうも有難うございます。なるほど、文献史学の立場ではやはりそれがオーソドックスな考え方なのですね。
西晋の起居注にも、266年倭女王これは台与のはずですが、朝貢したとありますね。
正始八年(247年)という年は、倭が離反してしまう可能性のある魏にとってとても重要な時期でしたので、倭の新政権に張政を外交顧問、あるいは総領事?のような役割を与えて滞在させるのは戦略眼があれば常識的だと思いますね。
そして、下級役人だった張政が後に帯方郡太守にまで出世していると考えていますので、ほぼ20年間倭国に滞在した功績が評価されたのではないかと推測しているところです。
当方は文献に書かれたことは必ずしも事実ではないという立場で研究していますので、何か主張Aを否定する明確な証拠があれば、それを受け入れて新たに推論を組み立てなければならないとは考えています。どうも有難うございました。また、お教えください(#^.^#)
青ヒスイが古代史の謎を解く?!
卑弥呼の死の直前の状況を以下の図に示します。卑弥呼の死後に到着した狗奴国の遠征軍の大将が尾張王ヲトヨノミコト、尾張王を討ったのが久々遅彦(後に大国主と呼ばれた倭国王)、13歳で女王に立てられた台与は近江・越を支配地とするムナカタ海人族の姫巫女と推理しています。
【検証23】魏使張政って?!
帯方郡址と考えられる黄海道鳳山郡文井面(北朝鮮沙里院)で帯方郡の下級役人だった張政が太守にまで出世した証拠が見つかっています。図のような帯方郡太守張撫夷墓と銘が塼(せん)に記されたレンガ造りの立派な墓です。太歳戊申と年号が書かれており、288年ということになります。倭国から帰国して22年後です。