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藤原不比等が日本書紀で隠したスサノヲの正体についてしっかりと検討していただき、とても参考になります。ありがとうございます。
不比等が神話を創った理由をご説明されていますが、その内容に賛成です。
しかし、そこから作られた基本的なストーリーを、記紀の話の大筋に合せると不比等の罠にかかりますよ。
日本書紀の内容は、藤原氏にとって都合の好い話にするために史実を改ざんしたということですので、都合の悪い史実は何かを深読みして、もうひとひねりする必要があると思います。天武天皇崩御の34年後の720年に日本書記を完成するまでには、相当不都合な事件があったはずです。
ちなみに、古事記も通説とは異なりますが、9世紀の日本紀講えんの際に突然登場したものです。正史にその記録はありませんし、日本書紀で引用した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。それを解いて多くの古代史の謎が分かりました。
そこで、スサノヲの謎を解くカギのひとつが、記紀に卑弥呼が登場しないことですが、卑弥呼の正体の推理が長くなったのでブログ記事にしました。よろしければご参照ください(#^.^#)
卑弥呼の正体ですが、倭国大乱の結果登場します。
二世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、戦いの痕跡が北部九州(佐賀平野・筑紫平野など)の環濠集落と熊本県山鹿市付近の菊池川流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡で発見しました。そして後者には山陰や畿内の土器が出土しています。北部九州にはほとんど見られませんから、北部九州に倭国があって、それと敵対する勢力の根拠地が畿内や山陰にあったということです。
そして、大分県大野川流域と菊池川上流の阿蘇山麓の住居跡から板状の鉄素材が多数見つかり、住居跡から鉄鏃も大量に鉄鏃が発見されていますので、これらの地は鉄製武器を供給するコンビナートと考えられます。そして菊池川の集落を最前線基地として倭国に攻め入った様子が分かります。福岡平野の西部や伊都国の王宮の三雲遺跡があった糸島平野にも痕跡が見られますから、倭国の相当奥深くまで攻め寄せたようです。
半島内部の韓人や濊人が強勢になって混乱して倭国は楽浪郡との交易ができずに物資が不足して衰弱していました。一方、倭国の敵対勢力は半島南部の鉄素材を入手して優勢だったと分かります。
倭国の福岡平野の集落から銅鏃が出土していますので、鉄が欠乏し、青銅器を溶かして矢じりを製作した様子が分かります。そして菊池川の集落の環濠から銅鏃が発見されているので、弱体化していた倭国勢が逆襲したと分かります。204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので倭国が息を吹き返したと推理しました。
そのため油断していた敵対勢力の大将が戦死したと推理しました。この人物が魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗です。狗奴国王よりも先に登場しますから重要人物なのです。通説では菊池の地名から菊池彦とされていますが、違います。豊岡市久久比神社の祭神の久々遅彦だと分かりました。この神は全国の上棟式の祭神でもあり、木の神なのです。つまり、スサノヲの王子イタケルが木の霊ですから、その子孫ということです。久々遅彦は山陰や丹後半島などの縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名です。記紀では五代の天皇に仕えた三百歳の武内宿禰と誤魔化されています。ここで戦死した王は、イタケルの孫の日高彦です。
日高彦は大活躍して倭国滅亡まであと一歩のところまで追い詰めていたのですが、倭国に討たれて途方に暮れていた日高彦の右腕のムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切って倭国側についてしまいました。その条件として姫巫女市杵嶋姫が告げる太陽神の神託に従って政治をする条件です(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵嶋姫命)。赤坂比古の傘下の九州・中国西部・四国の勢力も倭国に加わったので、狗奴国を圧倒する大勢力になりました。
つまり、これが卑弥呼の正体とその登場の真相だと推理しました。これによって赤坂比古らの縄文系海人族が北部九州に居住したので(赤坂比古は鳥栖市安永田遺跡を根拠地にしたと推理しています)、従来の甕棺文化が消えて箱式石棺文化に変わったことから分かります。
倭国王難升米は、107年に後漢安帝に160人もの生口(戦争奴隷)を献上して、倭国王に認められた伊都国を王都とする帥升(正しくは奴国宮廷楽師の師升)の孫と考えられます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。魏志倭人伝にも、倭国大乱の7・80年間は男王が倭国を統治していたとあります。
ですから、帥升に殺されたのが奴国王スサノヲだったのです。宋史王年代紀よれば初代天御中主から18代目の王です。
スサノヲの父は、17代目の王伊弉諾尊です。母イザナミは宗像大社の秘密の伝承「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」でわかるように伊弉諾尊に海を支配するように命じられたスサノヲが住吉大神ですから、イザナミはムナカタ族の姫だったのです(関裕二「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)。
スサノヲはムナカタ族らと共に半島南部に渡り、鉄素材を入手して丹後半島で糸魚川の青ヒスイなどの宝石を加工する工房を途中ヶ丘遺跡や奈具岡遺跡などで整備して、対外交易を盛んにして倭国隆盛のために懸命に働く大王だったのです。三国遺事の倭国の東北一千里のタバナ国からやって来た新羅第四代脱解王のモデルになった人物です。奈具神社の末社にスサノヲが祀られていますが、地元では新羅神社と呼ばれていると思います。主祭神は伊勢神宮外宮の豊受大神となっていますが、大国主の妃台与のことです。藤原氏に主祭神スサノヲから強権で変更されたと推理しています。
スサノヲは奴国の王宮だった須玖岡本遺跡を留守することが多く、祭祀は宮廷楽師らに任せており、たまに帰還すると、帥升らに縄文式のバカでかい銅鐸を祭祀に取り入れるよう命令したのだと思います。伝統祭祀に口を出されて困った帥升らは帰還したスサノヲを捕らえて倭国を乗っ取る計画をしたと推理しました。スサノヲは帥升らのクーデタによって殺されました。古事記では八百万の神に拷問されて追放されたと記されています。帥升が奴国王にすり替わる目的で金印の在りかを白状させるために、髪の毛をむしり、手足の爪を剥がされて四つん這いで引きずり回されたようです。痛みに耐えられず犬のような恰好で泣いたようなので、スサノヲが泣き虫というイメージと旧奴国を狗奴国としたのはこの史実からのようです。
しかし、金印はいち早くスサノヲの部下のアズミ族ガ持ち去り、逃亡の途中で根拠地の志賀島に立ち寄って土の中に埋めて隠したので帥升は捕虜にした沢山のスサノヲの部下たちを奴隷として後漢に献上したと考えられます。江戸時代になって志賀島の百姓が掘りだしたのですから、金印は間違いなく本物だと確信しています。これらの史実の貴重な物証なのです(詳細は「金印偽造説は現代の陳寿愛訓詁学者の思い込み?」参照)。
スサノヲが突然英雄に変貌する、出雲のヤマタノオロチ退治は作り話です。出雲国風土記にもありません(詳細は「ヤマタノオロチの正体もか?(@_@)」参照)。
初代奴国王天御中主ですが、天(アメ)は海、中はナーガ(龍蛇神)を意味し、菜緒がを信奉する江南の海人族(倭人アズミ族)の王という意味です。地名に見られる那珂・那賀・長柄・中山などは倭人アズミ族が拓いた土地を意味します。スサノヲは帥升に殺された第十八代奴国王だったのです。
そして、王子イタケルはまだ幼かったようで、妹たち(大屋姫命・抓津姫命)と、スサノヲの弟ニギハヤヒと共にムナカタ族の手引きで出雲に逃亡したようです。イタケルは出雲の地を与えられて王となり、この地で亡くなりますが、跡を継いだ八束命(出雲国風土記の国引き神話の神八束水臣津野命の略称)が父イタケルと二人の伯母たちをそれぞれ西谷三号墓、二号で埋葬し、三号墓上で王位継承の儀礼を行ったようです。この儀礼が古墳時代に受け継がれたと考えています。その時にスサノヲのコネのある各地の首長らを呼び寄せた史実が国引き神話となって伝承されたと考えられます(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)~(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。
ニギハヤヒは、その父伊弉諾尊が吉備を開発し任せた部下が、奴国を裏切って倭国に従った情報を聞き、部下のアズミ族らを率いて吉備を平定し、奴国を再興したので、第19代王天照大神尊とされ、倉敷市楯築王墓に葬られたと考えています。楯築神社のご神体の亀石には、ヘビを象った弧帯文石の上に人面が彫られています。これは中国神話で人類の始祖神の天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命なのです。その子孫が三世紀初頭に纏向遺跡に王都を遷した狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)なのです(「詳細は「天皇のルーツは人類の始祖神なのだ!」参照)。
倭国大乱の原因は奴国大王スサノヲを討たれて倭国を奪われた復讐のためなのです。前述のとおり大野川流域や阿蘇山麓の鉄製武器製造の軍事コンビナートを作ったのは戦略眼のあった八束命(日高彦の父)と推理しています。倭国大乱の前なので倭国は隆盛になっていたのです。八束命は祖父スサノヲ大王のコネで、半島と出雲を行き来していたのですが、中継地の対馬で待ち伏せした倭国勢に暗殺されたと推理しています。豊玉町二位波良波(国引き神話の北門の良波の国)の和多都美神社の境内に波良波神社(はらへのかみのやしろ)で祭神は海神豊玉彦として誤魔化された人物です。境内の濱殿御子神社に彦火火出見尊と豊玉姫祀られていますから、日向三代神話は出雲・丹後王国を誤魔化すために創作されたと分かりました。
日高彦が最も大きな西谷9号墓で父八束命を改葬したと推理しています。そして、日高彦は豊岡市竹野町竹野の鷹野神社の元宮五社大明神社に王宮を遷し、後の大国主高野御子が生まれたことが、誕生之浦の石碑から分かりました(【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。
前述のとおり日高彦が討たれて、卑弥呼の父赤坂比古が遺体を丹後半島に運び赤坂今井墳丘墓(1号墓)で葬ったと推理しています。また、高野御子(日高彦の御子の隠語)が成長し、母刺国若比売(大伴氏の祖)を葬りました。緑色などの宝石がちりばめられた立派な髪飾りが出土した4号墓です。
高野御子は卑弥呼の死の直前に倭国討伐軍に副将として参加して、卑弥呼の死後の内戦に勝利して列島の大半を手に入れましたので記紀で大国主と呼ばれたのです。狗奴国王卑弥弓呼が最終的に大国主の倭国を討って日本を統一します。しかし、280年に西晋によって呉が滅ぼされると、西晋に朝貢していた倭国を討ったことで、狗奴国が滅ぼされることを怖れて、大国主高野御子(記紀の武内宿禰)と女王台与(記紀の神功皇后)の子応神天皇を纏向遺跡に呼び寄せ、狗奴国を邪馬台国の後継国とするために纏向遺跡をヤマトと呼んだと推理しました。卑弥呼の鏡ということで三角縁神獣鏡を大量に作らせたと考えられます。日本書紀は大国主の国譲り神話を創って誤魔化しました(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。
つまり、女王卑弥呼というのは、魏志倭人伝で創作された人物で、その正体はムナカタ海人族の姫巫女市杵嶋姫(宇佐神宮の比売大神)だということです。景初三年(239年)に帯方郡に出かけた倭国王難升米が司馬懿の功績を大きく見せるために太守劉夏と談合して、エキゾチックな東夷の大国の倭国を統治する女王ということにしたと推理しています(詳細は「「黄幢がなぜ難升米に?」全ての謎を解くヒントでした!」参照)。
高天原神話では女神アマテラスとスサノヲの契約(うけい)で生まれた三女神としていますが、スサノヲの子孫で八束命の孫になります。あとの二女神は卑弥呼を誤魔化すために加えた女神ですが、古事記や先代旧事本紀では大国主の妻としていますので、記紀の神功皇后のモデルの台与のことになります。
卑弥呼が記紀に登場しない理由は、宗像三女神で隠されたからですが、何故隠さねばならなかったについてはさらにややこしい話がありますので、というか、不比等が日本書紀で歴史を捏造しなければならなかった本当の理由を突き止めていますので、ご興味があれば「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」をご参照ください(^_-)-☆。
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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
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通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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