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#邪馬台国の会の安本美典先生による神武天皇実在論の動画を見つけましたので、早速コメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)
神武天皇実在論を詳細にご説明頂き感謝します。
しかし神武天皇が実在したというご説明には以下のような大きな矛盾があります。
日本書紀の紀年から計算すると神武天皇元年は西暦紀元前660年にあたりますが、考古学的にその時代は弥生時代前期になり、奈良盆地に王墓など存在しません。三世紀初頭の纏向遺跡石塚古墳が最古級の前方後円墳の可能性があり、平地に作られたはっきりと王墓と分かる古墳です。神武天皇陵は江戸時代に畝傍山東北陵と定めた記録があります。
このような考古学その他の事実と神武東征との矛盾を回避したいために、初代から二十代天皇の平均在位年数を、各時代別の天皇の平均在位年数から平均10年と推定されて、神武天皇は西暦280-290年に即位したと結論付けておられます(21:58)。
しかし、20代天皇まで合計1,116年(空位8年を含む、神功皇后摂政69年を天皇としているので21代)であるので、平均53.14年です。これを無理やり平均在位年数10年とすればが、1,116年間の日本書紀の記事が210年に圧縮されたことになり、906年間の記事が消えたことになります。
つまり、その間の天皇の記事は本当のことを書いていたのではないとおっしゃっていることになりませんか?それならなぜ、初代神武天皇の記事だけ本当のことで、その他20人の天皇の記事はデタラメなのでしょうか?これはまた、日本書紀は史実を正しく述べているという前提が成り立たないのではないでしょうか?
考古学的にも初代神武天皇が実在であれば何故纏向遺跡に葬られなかったのかも不明です。
ですから、このような謎が存在すること自体、日本書紀に書かれていることがほとんど事実ではないと分かるのです。
神武天皇はヤマトの初代祭祀王応神天皇の史実を隠すために創作されたおとぎ話だと推理しています。
話がさらに続きますので、拙ブログに公開致しました。よろしければご参照頂き、コメントなどを頂戴できれば幸いです。お邪魔しました(;^ω^)
神武東征の話は、全く筋が通らないものです。
日向地方(宮崎県とされる)から何年もかけて、瀬戸内海を東進し、ようやく難波に上陸したところ、生駒の豪族長髄彦に阻まれたために南下して、熊野から厳しい山を越えてヤマト入りして周囲の勢力を従えながらやっと長髄彦と対決します。しかし、長髄彦の義弟で主人である、神武天皇よりも先にヤマトに降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒ)に討たれて神武天皇が橿原宮で即位したという話です。
それならばなぜ、あらかじめ天照大神が饒速日尊に神武天皇を送るから受け入れるように命じなかったのか全く説明がありません。神代では、先に国つ神大国主命から国譲りを受けた話がありながら、神武天皇の四代も前のニニギノミコトがなぜ出雲ではなく日向の高千穂に降ろされたのかもおかしな話です。そして三代後の神武天皇が苦労して東征してヤマトで即位せねばならないのは全くケッタイな話の連続でしかありません。
史実だというのであれば、考古学的に神武天皇の戦闘の痕跡などがあれば東征したと分かります。
「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」で説明したとおり、弥生終末期から古墳時代初頭(三世紀後半)の鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べました。その結果は、第10代崇神天皇の四道将軍と第12代景行天皇の九州遠征と日本武尊の東海遠征のルート上に矢戦の跡(環濠や溝から出土した矢じり)を発見しました。
つまり、日本書紀は三世紀後半の日本建国の戦いを、崇神天皇から景行天皇までのおよそ二百年間の出来事として引き延ばしたことが分かりました。また、日本書紀の記述では仲哀天皇は父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので杜撰な作り話と直ぐに分かるものです。ですから、これらの話は建国時代の史実を誤魔化すために歴史を捏造したと結論付けられるのです。応神天皇の父である天照皇大神大国主命の祟りによって、崇神天皇が逼塞していた応神天皇(神功皇后とされた台与の子)を探し出して初代ヤマトの祭祀王にした史実を隠すために、神武東征神話が日本書紀で創作されのだと推理できます(崇神天皇八年の大田田根子に大神を祀らせた話)。そして纏向遺跡にあった狗奴国が邪馬台国の後継国ということにするためにヤマトという呼称にしたのです。広い意味の邪馬台国東遷説ということになるかも知れませんが、神武天皇東征のような話ではないのです。狗奴国も実は旧奴国の蔑称だったのです(詳細は「狗奴国って狗コロの奴国のこと?!」参照)。
【関連記事】
誤解と幻想の古代史
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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しかし神武天皇が実在したというご説明には以下のような大きな矛盾があります。
日本書紀の紀年から計算すると神武天皇元年は西暦紀元前660年にあたりますが、考古学的にその時代は弥生時代前期になり、奈良盆地に王墓など存在しません。三世紀初頭の纏向遺跡石塚古墳が最古級の前方後円墳の可能性があり、平地に作られたはっきりと王墓と分かる古墳です。神武天皇陵は江戸時代に畝傍山東北陵と定めた記録があります。
このような考古学その他の事実と神武東征との矛盾を回避したいために、初代から二十代天皇の平均在位年数を、各時代別の天皇の平均在位年数から平均10年と推定されて、神武天皇は西暦280-290年に即位したと結論付けておられます(21:58)。
しかし、20代天皇まで合計1,116年(空位8年を含む、神功皇后摂政69年を天皇としているので21代)であるので、平均53.14年です。これを無理やり平均在位年数10年とすればが、1,116年間の日本書紀の記事が210年に圧縮されたことになり、906年間の記事が消えたことになります。
つまり、その間の天皇の記事は本当のことを書いていたのではないとおっしゃっていることになりませんか?それならなぜ、初代神武天皇の記事だけ本当のことで、その他20人の天皇の記事はデタラメなのでしょうか?これはまた、日本書紀は史実を正しく述べているという前提が成り立たないのではないでしょうか?
考古学的にも初代神武天皇が実在であれば何故纏向遺跡に葬られなかったのかも不明です。
ですから、このような謎が存在すること自体、日本書紀に書かれていることがほとんど事実ではないと分かるのです。
神武天皇はヤマトの初代祭祀王応神天皇の史実を隠すために創作されたおとぎ話だと推理しています。
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日向地方(宮崎県とされる)から何年もかけて、瀬戸内海を東進し、ようやく難波に上陸したところ、生駒の豪族長髄彦に阻まれたために南下して、熊野から厳しい山を越えてヤマト入りして周囲の勢力を従えながらやっと長髄彦と対決します。しかし、長髄彦の義弟で主人である、神武天皇よりも先にヤマトに降臨していた饒速日尊(ニギハヤヒ)に討たれて神武天皇が橿原宮で即位したという話です。
それならばなぜ、あらかじめ天照大神が饒速日尊に神武天皇を送るから受け入れるように命じなかったのか全く説明がありません。神代では、先に国つ神大国主命から国譲りを受けた話がありながら、神武天皇の四代も前のニニギノミコトがなぜ出雲ではなく日向の高千穂に降ろされたのかもおかしな話です。そして三代後の神武天皇が苦労して東征してヤマトで即位せねばならないのは全くケッタイな話の連続でしかありません。
史実だというのであれば、考古学的に神武天皇の戦闘の痕跡などがあれば東征したと分かります。
「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」で説明したとおり、弥生終末期から古墳時代初頭(三世紀後半)の鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べました。その結果は、第10代崇神天皇の四道将軍と第12代景行天皇の九州遠征と日本武尊の東海遠征のルート上に矢戦の跡(環濠や溝から出土した矢じり)を発見しました。
つまり、日本書紀は三世紀後半の日本建国の戦いを、崇神天皇から景行天皇までのおよそ二百年間の出来事として引き延ばしたことが分かりました。また、日本書紀の記述では仲哀天皇は父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますので杜撰な作り話と直ぐに分かるものです。ですから、これらの話は建国時代の史実を誤魔化すために歴史を捏造したと結論付けられるのです。応神天皇の父である天照皇大神大国主命の祟りによって、崇神天皇が逼塞していた応神天皇(神功皇后とされた台与の子)を探し出して初代ヤマトの祭祀王にした史実を隠すために、神武東征神話が日本書紀で創作されのだと推理できます(崇神天皇八年の大田田根子に大神を祀らせた話)。そして纏向遺跡にあった狗奴国が邪馬台国の後継国ということにするためにヤマトという呼称にしたのです。広い意味の邪馬台国東遷説ということになるかも知れませんが、神武天皇東征のような話ではないのです。狗奴国も実は旧奴国の蔑称だったのです(詳細は「狗奴国って狗コロの奴国のこと?!」参照)。
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