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#すでに「纏向遺跡は狗奴国(旧奴国)だったのだ(;^ω^)」で記事にした【ゆっくり解説】考古学から見た邪馬台国大和説『畿内ではありえぬ邪馬台国』(れーしch@YouTube)に標記に関する重要なコメントがユーザーからありましたので、返信しました。よろしければまた、お付き合いください。
@buluemoon2008
2011年3月歴博はC14の校正表INTCAL09を使い、「箸墓古墳の築造」を240~260 年と発表し、いまでもそれが参照されたりしている。しかし、2020年に日本の提案も含めて決められた最新の校正表INTCAL20だとAD250 年頃と4世紀前半(AD300~AD350 年)の二つが推定年の候補となる。C14の値が同じでも、INTCAL09では1つの年代だけだったのに、INTCAL20の校正表のカーブでは2つの年代が整合してしまう。したがって、古墳時代では、単純にC14を使った年代推定ができない。現在では他の古墳との関係で、箸墓古墳の築造年代は4世紀初めを中心とする時代に戻っている。したがって、C14の年代推定のみで、箸墓古墳の築造を、暦博の推定年と同じく、卑弥呼の死んだ250 年頃ということは、今では時代遅れの説となっている。
@buluemoon2008 さん おっしゃるとおりです。ご存じのとおり、纏向石塚古墳が最古の纏向型前方後円墳で石野先生は210年頃築造とされていました。しかし、畿内説で卑弥呼の墓とする箸墓古墳の築造は、ヤマト王権成立の過程を推理すると、最新のC14推定法のとおり、4世紀初頭が正解だと分かりました。
つまり初代ヤマトの祭祀王は3世紀末に即位した応神天皇で、箸墓にはその母、記紀で神功皇后とされた卑弥呼の死後に外交上女王に立てられた台与が鎮魂のために改葬されたのです。台与は266年に西晋に朝貢した後に、狗奴国側の尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)の九州遠征で倭国王の大国主高野御子と卑弥呼の弟赤坂比古と共に討たれました。それぞれ、久留米市祇園山古墳、鳥栖市愛宕神社古墳、そして糸島市平原王墓で葬られたと推理しています。
その後建稲種命は沼津市で戦死して高尾山古墳に葬られますが、あとを継いだ尾張王が大国主傘下の列島各地の勢力を鎮撫して日本を統一します。記紀では四道将軍の話にしていますが、3世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると矢戦の跡が環濠や溝から出土し、四道将軍のルートや景行天皇・ヤマトタケルの遠征ルートから出土していました。つまり記紀の崇神天皇紀から景行天皇紀の約200年の話に引き延ばされて歴史を捏造していることが分かりました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照、2世紀末の倭国大乱の痕跡も発見していますから、邪馬台国や卑弥呼の正体も判明しています)。
そして、280年に西晋に呉が滅ぼされ三国志の時代が終わります。西晋に朝貢していた倭国を討った狗奴国王(記紀の崇神天皇)は、次に追討されることを怖れて、大国主と台与の子ホムダワケを探し出して両親の鎮魂のためにヤマトの祭祀王としたと分かりました(記紀の大田田根子の話)。狗奴国を卑弥呼の邪馬台国の後継国ということにしたので、纏向遺跡をヤマトと呼んだのです。三角縁神獣鏡を多数作り、卑弥呼の鏡としたと推理しています。大国主は桜井茶臼山古墳で改葬しています。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。
なお、箸墓の伝承では被葬者は三輪山の大物主大神(大国主)の妻ヤマトトトビモモソヒメとなっていますが、たった13歳で倭国の女王にされて大国主の妃にされ、結局ヤマトに殺された可哀そうなお姫様ということから「ヤマトとトビ(大国主の別称、古事記のトビヒコ=ナガスネヒコ)を恨んで何度も唱える姫」の意味の名前が付けられていますよ。神武東征神話は応神天皇の史実を隠すための虚像でした。先にヤマトに降臨していたとされるニギハヤヒは、吉備を平定してヤマト王権の基礎を作って倉敷市楯築王墓に葬られています。ニギハヤヒ大王の子孫が狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)だったのですよ。どうもお邪魔しました(;^ω^)
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空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)
古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。暗号を解くと、大国主と台与の子応神天皇は255年に生まれ、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に293年に纏向遺跡に呼ばれてヤマトの祭祀王に即位したと推理しました。崇神記の大田田根子の話が史実に近いものです。神武東征神話はこれを隠すために創作したもので、初代神武天皇は応神天皇の虚像なのです。
真の応神天皇陵を推理する!(^_-)-☆
応神天皇は334年に崩御され、渋谷向山古墳に葬られたと推定しています。羽曳野市誉田御廟山古墳を応神天皇陵と治定されていますが、五世紀初頭の前方後円墳(墳丘長425m)です。応神天皇のものであれば履中天皇または反正天皇により築造されたと考えられます。したがって、遺骸は葬られていないので改葬ということになります。渋谷向山古墳は景行天皇陵とされていますが、架空の天皇でその正体は尾張王建稲種命です(ヤマトタケルのモデル)。沼津市高尾山古墳に葬られましたが、ヤマト盆地では、下段が前方後方形で、中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をもつ日本最大の前方後方墳の西山古墳で改葬されたと推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?(@_@)?」参照)。
崇神天皇は日本書紀では辛卯年崩御とありますので紀元前30年という計算になりますが、崇神天皇のモデル卑弥弓呼大王の崩御は、3世紀末か4世紀初頭と考えられますので、古事記の戌寅年とすると318年が正しいと考えられます。天理市柳本町の全長250mの前方後円墳「行燈山古墳」に葬られたと考えています。
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
最後まで読んでいただき、感謝します。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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