刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

方保田東原遺跡が倭国大乱解明のカギを握る(^_-)-☆

2024-09-24 19:25:40 | 古代史

いつも、ありがとうございます。 よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

昨日のライブ、有難うございました。方保田東原遺跡のことをもっと語って欲しかったのですが(^^;)そういいながら、お邪魔したのは申し訳ありませんでした(;^ω^)

この遺跡やうてな遺跡のコメントが出ていますが、二世紀末の倭国大乱で大きな役割を果たした集落だと分かりました。この時期の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、環濠や溝から出土する矢じりは集団戦の痕跡と考えられます(^_-)-☆

方保田東原集落・うてな遺跡と筑紫平野・佐賀平野などの北部九州の集落からしか戦争の痕跡はありませんでしたから、倭国大乱の舞台でしょう。ここを詳しく見ていくと卑弥呼が登場する話も推理できます。よろしければ、「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください(#^.^#)

二世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、戦いの痕跡が北部九州(佐賀平野・筑紫平野など)の環濠集落と熊本県山鹿市付近の菊池川流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡で発見しました。そして後者には山陰や畿内の土器が出土しています。北部九州にはほとんど見られませんから、北部九州に倭国があって、それと敵対する勢力の根拠地が畿内や山陰にあったということです。

 

そして、大分県大野川流域と菊池川上流の阿蘇山麓の住居跡から板状の鉄素材が多数見つかり、住居跡から鉄鏃も大量に鉄鏃が発見されていますので、これらの地は鉄製武器を供給するコンビナートと考えられます。そして菊池川の集落を最前線基地として倭国に攻め入った様子が分かります。福岡平野の西部や伊都国の王宮の三雲遺跡があった糸島平野にも痕跡が見られますから、倭国の相当奥深くまで攻め寄せたようです。

倭国の福岡平野の集落から銅鏃が出土していますので、鉄が欠乏し、青銅器を溶かして矢じりを製作した様子が分かります。そして菊池川の集落の環濠から銅鏃が発見されているので、弱体化していた倭国勢が逆襲したと分かります。204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので倭国が息を吹き返したと推理しました。

そのため油断していた敵対勢力の大将が戦死したと推理しました。この人物が魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗です。狗奴国王よりも先に登場しますから重要人物なのです。通説では菊池の地名から菊池彦とされていますが、違います。豊岡市久久比神社の祭神の久々遅彦だと分かりました。この神は全国の上棟式の祭神でもあり、木の神なのです。つまり、スサノヲの王子イタケルが木の霊ですから、その子孫ということです。久々遅彦は山陰や丹後半島などの縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名です。記紀では五代の天皇に仕えた三百歳の武内宿禰と誤魔化されています。ここで戦死した王は、イタケルの孫の日高彦です。

この後も先日記事にしました「乱暴者の神スサノヲは実在人物だった?!」をご参照ください。

【関連記事】

消された出雲・丹後王国の謎!(その1)八束命の話
消された出雲・丹後王国の謎!(その2)日高彦の話

最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )


【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?(^_-)-☆

2024-09-23 14:29:39 | 古代史

いつも、ありがとうございます。 よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

#著名な歴史家のいい動画を見つけましたので、以下のようなコメントをしました。よろしければお付き合いください(^_-)-☆

【冒頭30分】本郷和人「天皇とは何か? 日本史夜話第4回」 文藝春秋 電子版@YouTube

興味ある話題をありがとうございます。

七世紀末ころから天皇(スメラミコト)という称号が使われ始めたのはおっしゃるとおりですが、ヤマト王権の起源を探求して、天皇の称号に関して通説は日本書紀の潤色のためにかなり歪曲されているようです。

初代天皇を神武天皇は、日本の建国、つまりヤマト王権が成立した三世紀までの史実が、勝者藤原氏にとって不都合なものであったので、歴史を改ざんする目的で登場させた架空の人物です。ヤマトの祭祀王の初代応神天皇の虚像だったと分かりました。虚像というのは実像(史実)を誤魔化すためのイメージですので、神武東征神話を信じると史実とは全く異なったファンタジーになるということなのです(注1)

応神天皇は大国主を祀るヤマトの初代祭祀王ですが、初代天皇というのは間違いなのです。長くなったのでブログ記事にしました。よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください(#^.^#)

天皇という称号は、中国(なかつくに)の三皇五帝神話の最初に登場する三柱の神(天皇・地皇・人皇)の筆頭の人類の始祖神天皇伏羲(ふっき)からきたものです。前漢時代の司馬遷の史記に登場しますが、さらに後漢時代には三皇五帝神話に関する伝承が数多くの書物で見られるようになります(中澤良彦「『帝王世紀』の成立とその意義」日本中國学会報44、1992、pp.32-46に詳しい)。これらは道教の影響もあり、天地開闢(かいびゃく)の神盤古(ばんこ)の後に登場した伏羲は天地の理(ことわり)を理解し人類の文化を最初に作った神とされています。

しかし三皇神話の元々の話は、紀元前3200年に興った長江文明のひとつ良渚文化(りょうしょぶんか)に由来するようです。紀元前2200年頃に突然消えましたが、洪水伝承があり、生き残った伏羲と女媧の二人が人類を創ったという伝説です。

紀元前2000年ころに、その末裔の禹貢 (うこう)が黄河中流域で夏王朝を建てました。紀元前十七世紀ころに殷(商)王朝に滅ぼされましたが、禹貢の末裔の古公亶父(ここうたんぽ)が、殷(商)王朝を滅ぼした周王朝初代の武王の曾祖父となります。古公亶父長男の太伯(たいはく)と次男の虞仲(ぐちゅう)が長江下流域で呉を興し、倭人の王となりました。紀元前473年に呉王夫差が越に敗れて自害しましたが、呉王族の一部が半島南部に逃れました。さらに紀元前4世紀初頭に福岡市吉武高木遺跡に降り立った初代奴国王が天御中主(あめのみなかぬし)です。記紀神話で高天原に最初に登場する神として隠されましたが、日本で最初の王墓の存在から実在人物だと分かりました。

十世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのです。天皇陛下の皇祖神が初代奴国王の天御中主だったのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

天御中主は、天は海(あま)を意味し、中はナーガ(龍蛇神)のことですから、江南の海洋民族の倭人が信奉する龍蛇神国(奴国)の王という意味だったのです。倭国の地名に見られる那珂・那賀・長柄・中山などなどは倭人が開拓した地域を表しています。

記紀神話で、天皇陛下が奴国王天御中主の子孫であることが隠されましたので、多くの方は皇祖神が女神アマテラスだと騙されています(詳細は「日本神話が隠した大きな秘密?」参照)。

二世紀初頭に奴国宮廷楽師らのクーデターで殺された最後の奴国王スサノヲの弟ニギハヤヒが出雲に逃れて、裏切り者の吉備の勢力を討って奴国を再興し、第十九代王天照大神尊と呼ばれました。その子孫が纏向遺跡を王都とする狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼(ヒコミコの誤り)です。記紀で「ハツクニシラススメラミコト」とされた崇神天皇が日本を統一したのです。日本神話で天照大神尊ニギハヤヒ大王の名前を高天原の女神につけて誤魔化したのです。

ニギハヤヒ大王は倉敷市楯築王墓に葬られました。墳頂にある楯築神社のご神体「亀石」にはヘビを象った弧帯文に人の顔が彫られています。亀石はニギハヤヒ大王を示しているのですが、蛇身人首(人面蛇体)と考えられている天皇伏羲と同様なのです。ニギハヤヒ大王の子孫の天皇陛下が龍蛇神である天皇伏羲の末裔だったと考えられていた物証なのです。ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王が記紀で景行天皇や仲哀天皇とされていますので、日本書紀ではヤマトの大王に匹敵するニギハヤヒ大王の末裔を天皇と呼んでいたことが分かりました(詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。

京都にある天皇家の菩提寺「泉涌寺」では天智天皇とその孫の光仁天皇から歴代天皇を仏式でお祀りしています(注2)。日本書紀が天智天皇の出自を誤魔化したのでその先の皇祖神が分からなくなっていたのですが、考古学や民俗学の成果から天智天皇が敏達天皇の孫であることがわかり、さらにその父祖がニギハヤヒ大王の子孫の龍蛇神だということも推理しました(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その1 )( その4 )」参照)。

天皇陛下のルーツは中国(なかつくに、龍蛇神国)神話の伏羲なので天皇という称号が与えられたのだと考えられます(「詳細は「天皇のルーツは人類の始祖神なのだ!」参照))。

なお、古代天皇を「スメラミコト」と呼ぶのは「澄らかな神」という尊称が由来のようです(荒木博之「スメラミコト考」九州人類学会報14 1986, pp.20-30)。

励みになりますので、またポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

(注1)日本建国の過程の仮説は以下のとおりです。科学的な推論法アブダクションを適用し、考古学や民俗学の成果によって検証して仮説を修正、詳細化、拡大して、様々な謎を解明しています(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。

史実は、崇神天皇紀の大田田根子の話に近いものです。三輪山の大物主大神の祟りで民が半分以上死に、百姓が流離し、反逆者が出たとあります。そこで、大神の神託によって子の大田田根子を探し出してヤマトで祀らせると祟りが鎮まったという話です。

史実は、大国主命を討って日本を統一したのですが、280年に大国主が立てた倭国の女王台与が朝貢していた西晋が呉を討ったので、倭国を討った纏向遺跡の狗奴国(旧奴国)王の卑弥弓呼(ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコの誤記、記紀の崇神天皇)が、次に狗奴国が西晋に討たれることを怖れたので、大国主と台与の子ホムダワケを纏向遺跡に呼び寄せて、両親を祀らせたのです。邪馬台国の後継国とするために纏向遺跡をヤマトと呼んだのです(^_-)-☆

(注2)女性天皇は明治になるまで誰一人として祀られていませんでした。明治になって仏事に掲げる天皇の肖像画を作ったと分かりましたので、すべての女性天皇は日本書紀が創作したフェイクだったと分かりました。持統天皇の前の二人の女帝(推古天皇、皇極・斉明天皇)も持統天皇とその後の女帝(元明天皇、元正天皇、称徳・孝謙天皇)も藤原氏が権力を握り続けるために創作したようです。すべてウソだったようですよ(;^ω^)

【関連記事】

中国の本家は日本だった?!

吉備や出雲は日本建国で活躍した奴(龍蛇神)国王の子孫らが活躍した地域だったので中国(なかつくに)と呼ばれたのですよ(^_-)-☆

中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)

日本書紀で創作された神話は、藤原氏が権力を握りつづけるために八世紀に創作されたインチキな神話だったのですよ。古来から伝承されていた本当の神話は中世日本紀に見られた中国(なかつくに、龍邪神国)神話だったのです(^_-)-☆

最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )


「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

2024-09-22 11:22:57 | 古代史

いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

#2019-12-12 02:03:00の記事を少し見直して公開します。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

『倭人在り、
帯方郡の東南の大海の中、
山島に依りて国邑をなす。
・・・・・・・
郡より女王国に至るに万二千余里。』


「魏志倭人伝」のこの四百字ほどの行程記事は、とどのつまり「東夷の大国、倭の女王国は帯方郡の東南の方向の海上のおよそ万二千里も離れた遠い島ですよ。」ということでした。その後の倭の風俗記事の中に「女王国は魏のライバルの呉を圧迫する、その東方海上に在るんですよ。」と陳寿はそれとなく書いています。当時半島を支配していた公孫氏を滅ぼして、倭国を手なずけた司馬懿(しばい)とその部下の帯方郡太守劉夏(りゅうか)たちが魏の朝廷の人々に最も伝えたかった内容なのです。

行程記事は、女王様が統治する気の遠くなるほど遠い東夷のエキゾチックな国にどうやって行くのかと、司馬懿のライバルの曹爽(そうそう)派閥の人たちにも疑念が出ないように、一応具体的な方角や里程・日数を述べたに過ぎないということです。

曹爽の父は曹真(そうしん)で、曹真は魏の曹操の甥でした。魏のライバルの蜀の西方にある大月氏(だいげっし、都はカーピーシー、現在アフガニスタンのバグラム)を味方にして蜀を挟み撃ちにした功績があったのですが、231年に病死しています。

後述するように倭の大夫難升米(なしょめ)と談合して作成した太守劉夏らによる倭国の記録を、宮廷の書庫から陳寿が入手して、同僚の華嶠(かきょう)の「後漢書」なども参考にして、西晋の当時の実力者張華(ちょうか)が満足するように文章を整えたのだと思います。

重要なのは帯方郡から女王国まで万二千余里に、洛陽から楽浪郡までの五千里を加えて合計万七千余里となるという里程なのです。洛陽から大月氏までの万六千三百七十里を超える距離だからです。また、当時戦乱のために人口が十万戸まで激減していた魏の都の洛陽と比べると、邪馬台国で7万戸、投馬国でも5万戸ですから倭国はかなりの大国だということです。だから、卑弥呼を親魏倭王にした司馬懿の功績はあの曹真を上回るものだと魏の人々は納得します。司馬懿派閥の人間や後の西晋の朝廷の人々にとって、いかに大事な数字であるかという話なのです。

ですから完成時点でその行程の中身はどのようにでも解釈できても、誰もがそれで納得しても、しなくても(遠いところなので多少曖昧でも仕方ないと言い訳もできますし)、西晋の基礎を築いて宣帝という諡(おくりな)を貰った司馬懿の功績を述べるわけですから、パトロンの張華の顔が立ちつように陳寿が上手に持ち上げれば西晋の誰もが満足する話でした。



これはもう漢籍のエレガントな読解の世界とはまさに別世界の、ドロドロとした政治の話だったのですよ(*^▽^*)

西晋の基礎を作った司馬懿の話は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま文庫)に在りますよ(^◇^)。

行程記事の真相はこういうことです。

くどくどと何度も述べて恐縮ですが、

だからこそ、女王国に全く政治的な思惑が無いので

邪馬台国(女王国)の所在を明確に見抜いて記述した范曄の「後漢書」こそが

邪馬台国問題解決のカギだと気付く必要があるということです。


もう少しだけ、デタラメな行程記事が作られた話を想像を交えて見てみましょう(^_-)-☆

景初三年(239年)一月一日明帝曹叡が崩御する直前に、公孫氏を滅ぼした功績によって司馬懿が明帝の後継ぎ曹芳(少帝)の補佐役となり、明帝が崩御した後に実権を握りました。ですから明帝に命ぜられて公孫氏の帯方郡を攻略して帯方郡太守となった劉昕(りゅうきん)は、最早用済みということで、司馬懿は、倭国を手なずけるように指示して部下の劉夏(りゅうか)を帯方郡太守にしたのでしょう。

劉夏着任後、早速、倭国王に使いを送り朝貢を促しました。それまで公孫氏に従っていた倭国王は帯方郡が魏の支配下に変わったので討伐されることを怖れていました。何せ司馬懿は公孫氏を滅ぼしたら、魏に逆らわないように15歳以上の男子を皆殺しにして、死骸をうず高く盛り上げた京観を作ったそうですから。そういう噂は、倭国側にも届いていたのでしょう。渡りに舟で恭順の意を示して、魏への朝貢を相談するために帯方郡に大夫難升米が行きました。景初三年六月のことです。玄界灘が比較的静かな季節です。実は、難升米は107年に後漢安帝に朝貢した倭国王師升(伊都国を王都にした)の一族の伊都国男王で倭国王だったことが分かりました(「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。

劉夏は、卑弥呼と邪馬台国の情報を難升米王から直接聞き出し、魏の朝廷の注目を集めるために倭国を表向き女王卑弥呼が統治する大国ということにしました。さらに司馬懿にとって最も都合の良い位置に女王国を置こうと持ち掛けたのでしょう。考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室は宗像三女神の降臨地の伝承がある安心院町三女神社と分かったので、逆に、どのようなトリックをしたのかを推理したのが以下の図です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。


難升米王は郡から東南万二千里に女王国を置くために、倭国本土の上陸地点を末盧国の伊万里あたりにして、そこで方角を90度左に曲げて、さらに不弥国から投馬国までの水行の所要日数2日とそこから邪馬台国までの1日の計3日をそれぞれ十倍に、その後の女王の居城までの陸行も1日から1月に改ざんすることにしたのでしょう。

丸木舟での海岸の航行の1日は10~30キロだと長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」(PHP新書)にあります。本来、水行は河川の航行を意味するようですが、邪馬台国への行程記事を書いて劉夏に教えた倭国王難升米は、玄界灘を支配する縄文海人ムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)の娘の卑弥呼(宗像女神市杵嶋姫命、天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の居城への実際の行程を基にして、呉の東の海上になるように水行・陸行を日数で誤魔化したと考えられます。

上陸地点でのこの東を南とする方角変更の痕跡が21世紀の現代でも残っているとしたらオモロ過ぎる話ですが、呼子のある東松浦半島は伊万里から見ると北、北松浦半島は西ですよ(*^▽^*)

いやそれ以外にもこの方角変更の怪が九州にはいくつか見られますよ。そのうちにブログにしたいと地図を調べる気の遠くなるような作業してますので、いい情報があれば教えてください。【参考記事】からいいヒントを頂きました。恐らく、7世紀白村江の敗北後に、邪馬台国時代の方角変更を思い出したのではないかと思います。外敵に対する位置情報かく乱のためでしょう(^_-)-☆。

日本建国の真相は多分、平安時代くらいまで朝廷の知識人の間では語り継がれていた模様ですよ。飛鳥時代の仏教導入、奈良時代の神仏習合・山岳信仰・修験道や平安時代の空海・最澄の密教導入も、3世紀の倭国大乱の影響なのですから驚きますよ(´・ω・`)。

【参考記事】
北浦海岸の名前の謎、判明2015-02-08 09:34:45 日本の歴史と日本人のルーツ

混一彊理歴代国都之図2015-02-08 09:38:32 日本の歴史と日本人のルーツ


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


日本神話が隠した大きな秘密?(@_@)?

2024-09-21 12:15:48 | 古代史

いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

スサノオの大冒険:第一弾 誕生から高天ヶ原追放 No019
UMAたんさくちゃんねる@YouTube

記紀神話について、ほとんどの皆さんは驚かれると思いますが、江戸時代にできたものなのです。そのまえは日本書紀に書かれた神話が神仏習合、修験道、道教などの影響を受けて記紀神話とは全く異なるナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していました(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書2006年)参照)。

江戸時代になって本居宣長がそれまでほとんど読まれていなかった古事記を発掘し、絶賛したので、神道家の平田篤胤が影響を受けて記紀神話に基づく復古神道を提唱したのです。それが幕末の志士などに人気となって、明治新政府が神仏分離令を発すると、廃仏毀釈運動が全国で起こり、神を祀っていた寺院が打ちこわしに遭い、僧侶も無理やり還俗させられたのです。後にやりすぎに気づいて寺院は残されましたが、国家神道が創設され、学校で国史が教えられたので、戦後の日本人も記紀神話が太古からの伝承だと思わされています。

日本書紀は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思わされていますが、完成したのは崩御34年後の720年なのです。時の権力者は藤原不比等でした。皇后とされた鵜野讃良(持統天皇とされていますが、即位していないことが判明しています)と組んで孫を天皇にした正統性を主張するために天孫降臨など高天原神話も創作されたのです。人代の歴史も藤原氏に不都合な史実を隠し、相当改ざんされています。

古事記は9世紀の学者によって突然表に出てきたもので、正史に古事記の記録はありませんし、日本書紀が古事記を参照したとわかる痕跡もないのです。古代史を探求すると古事記は日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だと分かりました。暗号を解くと空白の4世紀に隠された天皇も倭の五王も分かりました。2世紀から3世紀の建国時代の史実も考古学や民俗学の成果から判明しました。

高天原から追放された暴れん坊の神スサノヲは、実は、宋史 王年代紀第十八代奴国王だったのです。奴国宮廷祭祀の司祭師升(107年に後漢に朝貢した倭国王帥升)の反乱で殺されたのです。志賀島の金印はその時に脱出したアズミ族(江南系の倭人)が隠したのです。また奴国を脱出したスサノヲの王子イタケルとスサノヲの弟ニギハヤヒが出雲に逃亡し、ニギハヤヒは吉備を平定して奴国を再興し第十九代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命とされ、倉敷市楯築王墓に葬られています。ニギハヤヒ大王の子孫が纏向遺跡に遷都してヤマト王権が成立したのです。イタケルの子孫は出雲・丹後王国を作って日本海沿岸を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる王として日本建国で活躍しました。

そしてスサノヲの祖先ですが、初代奴国王は天御中主です。春秋時代に越に滅ぼされた呉の王族でした。倭人に助けられて半島南部で王国を作っていましたが、寒冷化の影響で福岡市吉武高木遺跡に遷都しました。日本最古の三代の王墓(二代目天村雲尊、三代目天八重雲尊)が発見されています。天孫降臨神話も四代目王天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が祖父からレガリヤを授けられて糸島平野と福岡平野に進出して、奴国繁栄の基礎を築いた史実から創作されています。記紀神話で洗脳されているので、こういう事実に気付かないのです。

詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」などをご参照ください。どうもお邪魔しました(;^ω^)

よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

以下の図は藤原不比等が神話を創作して史実を隠した事実を示しています。神話の神と実在人物の対応関係が分かります。日本書紀が隠したかった大きな秘密のひとつは藤原不比等が権力を握るために天皇を弑逆した史実で、もうひとつは天智天皇と藤原氏の出自だったのです(詳細は「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」・「天智天皇とは何者だ?( その1 )( その4 )」参照)。

 

日本の最初の王は江南の倭人(海洋民族アズミ族)を支配した呉の太伯の後裔の天御中主でした。吉武高木遺跡に日本で最初の三代の王と妃ら王族の墓が見つかっています。第二代王天村雲尊の墓から三種の神器が発見されています。四代目の王が天彌聞尊(あめのににぎのみこと)ですが、四代目以降の墓がないのです。記紀神話で女神アマテラスが孫のニニギに三種の神器を授けて日向の高千穂の峰に天孫降臨させた神話は、天村雲尊が孫の天天彌聞尊に王権の標を授けて周辺の糸島平野・福岡平野を平定して奴国を拡大させた史実から創作されたと推理しています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

そして神話のニニギからホホデミ・ウガヤフキアエズの三代はスサノヲの子孫で出雲・丹後王国の三代八束命・日高彦・高野御子の史実を隠すために作られてます。最後の高野御子が記紀神話の大国主とされた人物で、初代ヤマトの祭祀王応神天皇の本当の父です。

初代神武天皇は応神天皇の史実を隠すための虚像なのです。

卑弥呼の死後に13歳の姫巫女の台与を外交上倭国の女王に立てて魏を後ろ盾にして纏向遺跡を王都とした狗奴国王(記紀の崇神天皇)と対立しました。狗奴国王と同じニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命(注1)が父(注2)の仇として大国主高野御子を討って、大国主傘下の地域を平定しました。ところが西晋が呉を討って三国志の時代が終わったので、次は狗奴国が討たれることを狗奴国王卑弥弓呼は怖れ、大国主の祟りということで、大国主と台与の子ホムダワケ(応神天皇)を探し出して纏向遺跡で祭祀王としてヤマト王権を成立させました。日本書紀では大物主大神(大国主)に祟られた崇神天皇の大田田根子の話を創作しています(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。

日向三代の最後のウガヤフキアエズが神武天皇の父としていますが、上で述べたように、大国主の子応神天皇が初代ヤマトの祭祀王として即位した史実を隠すためだったのです。これによって持統天皇とした鵜野讃良(天智天皇皇女、天武天皇の妃)の孫を文武天皇として即位させたことを正統化する神話にもなっているのです(詳細は神話が隠した不自然な史実(;一_一)参照)。

出雲・丹後王国三代の話は日本書紀で徹底的に隠しましたが、出雲国風土記の国引き神話から謎が解けました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。

(注1)熱田神宮の祭神、東国遠征した創作された英雄ヤマトタケルのモデル、国譲り神話のタケミカズチとして、藤原氏は春日大社や鹿島神宮で氏神として祀っています。東海遠征の途中で戦死し、沼津市高尾山古墳で葬られていると推理しています(詳細は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」参照)。

(注2)尾張王建稲種命の父乎止与命(ヲトヨノミコト)。卑弥呼の後に立った男王で大国主に討たれた。記紀で仲哀天皇とされた。神話のカグツチとして隠され、愛知県やその周辺にたくさん見られる秋葉神社で祀られた。

よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)



 

最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )


乱暴者の神スサノヲは実在人物だった?!(^_-)-☆

2024-09-20 00:00:44 | 古代史

いつも、ありがとうございます。
よろしければポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )

藤原不比等が日本書紀で隠したスサノヲの正体についてしっかりと検討していただき、とても参考になります。ありがとうございます。

不比等が神話を創った理由をご説明されていますが、その内容に賛成です。

しかし、そこから作られた基本的なストーリーを、記紀の話の大筋に合せると不比等の罠にかかりますよ。

日本書紀の内容は、藤原氏にとって都合の好い話にするために史実を改ざんしたということですので、都合の悪い史実は何かを深読みして、もうひとひねりする必要があると思います。天武天皇崩御の34年後の720年に日本書記を完成するまでには、相当不都合な事件があったはずです。

ちなみに、古事記も通説とは異なりますが、9世紀の日本紀講えんの際に突然登場したものです。正史にその記録はありませんし、日本書紀で引用した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。それを解いて多くの古代史の謎が分かりました。

そこで、スサノヲの謎を解くカギのひとつが、記紀に卑弥呼が登場しないことですが、卑弥呼の正体の推理が長くなったのでブログ記事にしました。よろしければご参照ください(#^.^#)

卑弥呼の正体ですが、倭国大乱の結果登場します。

二世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、戦いの痕跡が北部九州(佐賀平野・筑紫平野など)の環濠集落と熊本県山鹿市付近の菊池川流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡で発見しました。そして後者には山陰や畿内の土器が出土しています。北部九州にはほとんど見られませんから、北部九州に倭国があって、それと敵対する勢力の根拠地が畿内や山陰にあったということです。

そして、大分県大野川流域と菊池川上流の阿蘇山麓の住居跡から板状の鉄素材が多数見つかり、住居跡から鉄鏃も大量に鉄鏃が発見されていますので、これらの地は鉄製武器を供給するコンビナートと考えられます。そして菊池川の集落を最前線基地として倭国に攻め入った様子が分かります。福岡平野の西部や伊都国の王宮の三雲遺跡があった糸島平野にも痕跡が見られますから、倭国の相当奥深くまで攻め寄せたようです。

半島内部の韓人や濊人が強勢になって混乱して倭国は楽浪郡との交易ができずに物資が不足して衰弱していました。一方、倭国の敵対勢力は半島南部の鉄素材を入手して優勢だったと分かります。

倭国の福岡平野の集落から銅鏃が出土していますので、鉄が欠乏し、青銅器を溶かして矢じりを製作した様子が分かります。そして菊池川の集落の環濠から銅鏃が発見されているので、弱体化していた倭国勢が逆襲したと分かります。204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので倭国が息を吹き返したと推理しました。

そのため油断していた敵対勢力の大将が戦死したと推理しました。この人物が魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗です。狗奴国王よりも先に登場しますから重要人物なのです。通説では菊池の地名から菊池彦とされていますが、違います。豊岡市久久比神社の祭神の久々遅彦だと分かりました。この神は全国の上棟式の祭神でもあり、木の神なのです。つまり、スサノヲの王子イタケルが木の霊ですから、その子孫ということです。久々遅彦は山陰や丹後半島などの縄文海人ムナカタ族を束ねる王の襲名です。記紀では五代の天皇に仕えた三百歳の武内宿禰と誤魔化されています。ここで戦死した王は、イタケルの孫の日高彦です。

日高彦は大活躍して倭国滅亡まであと一歩のところまで追い詰めていたのですが、倭国に討たれて途方に暮れていた日高彦の右腕のムナカタ海人族の赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されて、狗奴国を裏切って倭国側についてしまいました。その条件として姫巫女市杵嶋姫が告げる太陽神の神託に従って政治をする条件です(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神が宗像女神市杵嶋姫命)。赤坂比古の傘下の九州・中国西部・四国の勢力も倭国に加わったので、狗奴国を圧倒する大勢力になりました。

つまり、これが卑弥呼の正体とその登場の真相だと推理しました。これによって赤坂比古らの縄文系海人族が北部九州に居住したので(赤坂比古は鳥栖市安永田遺跡を根拠地にしたと推理しています)、従来の甕棺文化が消えて箱式石棺文化に変わったことから分かります。

倭国王難升米は、107年に後漢安帝に160人もの生口(戦争奴隷)を献上して、倭国王に認められた伊都国を王都とする帥升(正しくは奴国宮廷楽師の師升)の孫と考えられます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。魏志倭人伝にも、倭国大乱の7・80年間は男王が倭国を統治していたとあります。

ですから、帥升に殺されたのが奴国王スサノヲだったのです。宋史王年代紀よれば初代天御中主から18代目の王です。

スサノヲの父は、17代目の王伊弉諾尊です。母イザナミは宗像大社の秘密の伝承「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」でわかるように伊弉諾尊に海を支配するように命じられたスサノヲが住吉大神ですから、イザナミはムナカタ族の姫だったのです(関裕二「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)。

スサノヲはムナカタ族らと共に半島南部に渡り、鉄素材を入手して丹後半島で糸魚川の青ヒスイなどの宝石を加工する工房を途中ヶ丘遺跡や奈具岡遺跡などで整備して、対外交易を盛んにして倭国隆盛のために懸命に働く大王だったのです。三国遺事の倭国の東北一千里のタバナ国からやって来た新羅第四代脱解王のモデルになった人物です。奈具神社の末社にスサノヲが祀られていますが、地元では新羅神社と呼ばれていると思います。主祭神は伊勢神宮外宮の豊受大神となっていますが、大国主の妃台与のことです。藤原氏に主祭神スサノヲから強権で変更されたと推理しています。

スサノヲは奴国の王宮だった須玖岡本遺跡を留守することが多く、祭祀は宮廷楽師らに任せており、たまに帰還すると、帥升らに縄文式のバカでかい銅鐸を祭祀に取り入れるよう命令したのだと思います。伝統祭祀に口を出されて困った帥升らは帰還したスサノヲを捕らえて倭国を乗っ取る計画をしたと推理しました。スサノヲは帥升らのクーデタによって殺されました。古事記では八百万の神に拷問されて追放されたと記されています。帥升が奴国王にすり替わる目的で金印の在りかを白状させるために、髪の毛をむしり、手足の爪を剥がされて四つん這いで引きずり回されたようです。痛みに耐えられず犬のような恰好で泣いたようなので、スサノヲが泣き虫というイメージと旧奴国を狗奴国としたのはこの史実からのようです。

しかし、金印はいち早くスサノヲの部下のアズミ族ガ持ち去り、逃亡の途中で根拠地の志賀島に立ち寄って土の中に埋めて隠したので帥升は捕虜にした沢山のスサノヲの部下たちを奴隷として後漢に献上したと考えられます。江戸時代になって志賀島の百姓が掘りだしたのですから、金印は間違いなく本物だと確信しています。これらの史実の貴重な物証なのです(詳細は「金印偽造説は現代の陳寿愛訓詁学者の思い込み?」参照)。

スサノヲが突然英雄に変貌する、出雲のヤマタノオロチ退治は作り話です。出雲国風土記にもありません(詳細は「ヤマタノオロチの正体もか?(@_@)」参照)。

初代奴国王天御中主ですが、天(アメ)は海、中はナーガ(龍蛇神)を意味し、菜緒がを信奉する江南の海人族(倭人アズミ族)の王という意味です。地名に見られる那珂・那賀・長柄・中山などは倭人アズミ族が拓いた土地を意味します。スサノヲは帥升に殺された第十八代奴国王だったのです。

そして、王子イタケルはまだ幼かったようで、妹たち(大屋姫命・抓津姫命)と、スサノヲの弟ニギハヤヒと共にムナカタ族の手引きで出雲に逃亡したようです。イタケルは出雲の地を与えられて王となり、この地で亡くなりますが、跡を継いだ八束命(出雲国風土記の国引き神話の神八束水臣津野命の略称)が父イタケルと二人の伯母たちをそれぞれ西谷三号墓、二号で埋葬し、三号墓上で王位継承の儀礼を行ったようです。この儀礼が古墳時代に受け継がれたと考えています。その時にスサノヲのコネのある各地の首長らを呼び寄せた史実が国引き神話となって伝承されたと考えられます(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)~(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。

ニギハヤヒは、その父伊弉諾尊が吉備を開発し任せた部下が、奴国を裏切って倭国に従った情報を聞き、部下のアズミ族らを率いて吉備を平定し、奴国を再興したので、第19代王天照大神尊とされ、倉敷市楯築王墓に葬られたと考えています。楯築神社のご神体の亀石には、ヘビを象った弧帯文石の上に人面が彫られています。これは中国神話で人類の始祖神の天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命なのです。その子孫が三世紀初頭に纏向遺跡に王都を遷した狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)なのです(「詳細は「天皇のルーツは人類の始祖神なのだ!」参照)。

倭国大乱の原因は奴国大王スサノヲを討たれて倭国を奪われた復讐のためなのです。前述のとおり大野川流域や阿蘇山麓の鉄製武器製造の軍事コンビナートを作ったのは戦略眼のあった八束命(日高彦の父)と推理しています。倭国大乱の前なので倭国は隆盛になっていたのです。八束命は祖父スサノヲ大王のコネで、半島と出雲を行き来していたのですが、中継地の対馬で待ち伏せした倭国勢に暗殺されたと推理しています。豊玉町二位波良波(国引き神話の北門の良波の国)の和多都美神社の境内に波良波神社(はらへのかみのやしろ)で祭神は海神豊玉彦として誤魔化された人物です。境内の濱殿御子神社に彦火火出見尊と豊玉姫祀られていますから、日向三代神話は出雲・丹後王国を誤魔化すために創作されたと分かりました。

日高彦が最も大きな西谷9号墓で父八束命を改葬したと推理しています。そして、日高彦は豊岡市竹野町竹野の鷹野神社の元宮五社大明神社に王宮を遷し、後の大国主高野御子が生まれたことが、誕生之浦の石碑から分かりました(【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。

前述のとおり日高彦が討たれて、卑弥呼の父赤坂比古が遺体を丹後半島に運び赤坂今井墳丘墓(1号墓)で葬ったと推理しています。また、高野御子(日高彦の御子の隠語)が成長し、母刺国若比売(大伴氏の祖)を葬りました。緑色などの宝石がちりばめられた立派な髪飾りが出土した4号墓です。

高野御子は卑弥呼の死の直前に倭国討伐軍に副将として参加して、卑弥呼の死後の内戦に勝利して列島の大半を手に入れましたので記紀で大国主と呼ばれたのです。狗奴国王卑弥弓呼が最終的に大国主の倭国を討って日本を統一します。しかし、280年に西晋によって呉が滅ぼされると、西晋に朝貢していた倭国を討ったことで、狗奴国が滅ぼされることを怖れて、大国主高野御子(記紀の武内宿禰)と女王台与(記紀の神功皇后)の子応神天皇を纏向遺跡に呼び寄せ、狗奴国を邪馬台国の後継国とするために纏向遺跡をヤマトと呼んだと推理しました。卑弥呼の鏡ということで三角縁神獣鏡を大量に作らせたと考えられます。日本書紀は大国主の国譲り神話を創って誤魔化しました(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。

つまり、女王卑弥呼というのは、魏志倭人伝で創作された人物で、その正体はムナカタ海人族の姫巫女市杵嶋姫(宇佐神宮の比売大神)だということです。景初三年(239年)に帯方郡に出かけた倭国王難升米が司馬懿の功績を大きく見せるために太守劉夏と談合して、エキゾチックな東夷の大国の倭国を統治する女王ということにしたと推理しています(詳細は「「黄幢がなぜ難升米に?」全ての謎を解くヒントでした!」参照)。

高天原神話では女神アマテラスとスサノヲの契約(うけい)で生まれた三女神としていますが、スサノヲの子孫で八束命の孫になります。あとの二女神は卑弥呼を誤魔化すために加えた女神ですが、古事記や先代旧事本紀では大国主の妻としていますので、記紀の神功皇后のモデルの台与のことになります。

卑弥呼が記紀に登場しない理由は、宗像三女神で隠されたからですが、何故隠さねばならなかったについてはさらにややこしい話がありますので、というか、不比等が日本書紀で歴史を捏造しなければならなかった本当の理由を突き止めていますので、ご興味があれば【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」をご参照ください(^_-)-☆。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

よろしければ、またポチっと応援をお願いします( ^)o(^ )