鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

同窓生との懇談会

2016年12月11日 00時00分01秒 | 提言

 広島の同窓生が上京するということで、関東在住の同窓生に声をかけたところ4名すべてが賛成ということで本日懇談会が行われた。大学の専攻科によって1科の定員が10名であったため、5名集合すれば50%となる。全体の同期生は100名程度の定員であった。今回は1名が急遽精密検査が決まったため、欠席となった。

 

 新宿駅西口、小田急百貨店の1階ロビーでの集合となったが、奥方の懇談会への出席はなかったが、奥方同伴が2名もいた。それぞれの言い分は聞かなかったが、何はともあれ夫婦それぞれが別行動の昨今であるが、同伴行動されるのも夫婦仲が良いためであろう。大変結構なことである。

 

 いつも会場は雑居ビルの8階の居酒屋に決めていて、そこへ向かったところ、満席で、店員の話では今の時期予約でいっぱいだそうである。仕方なく別の店を探して入ることにした。午後3時であったが、ほぼ満席で、見渡したところほぼ同世代のようであった。普通は平日の比較的空いているのであるが今日は土曜日であったことをてっきり忘れていた。 

  

  ビールで乾杯後お互いの息災を祝った。しかし話が進んでくるとそうでもないことがよく分かった。大病したとか、奥方が静養中であるとか、年齢を積んできた結果であるので仕方がないことである。次は他の同級生のことについてであるが、年々情報が少なくなる傾向にあり、確かなことがわからない。頻繁に会う機会も全国に散らばっているため無いことも確かである。

 

 各自の近況報告が始まり、アルコールの量も増えてくるとは話しが様々な方向へ展開する。結局全員が別の話で盛り上がり、近況報告も出番がなかった。それでよいのである。会えば昔に帰る。経過した時の流れは一気に学生時代にさかのぼる。その時間の経過が50年であってもである。不思議なことに50年間の紆余曲折は瞬時に浄化される。       気持ちは学生時代に戻り、白髪やしわは一気に青年に戻り、純粋だった当時を彷彿とさせるのである。

 

 どうなるか今後のことはわからないが、来春にまた懇談会を持とうということとなり、幹事も決めてお開きとなった。既に陽はつるべ落としといわれるように、薄闇となっていた。


アメリカ合衆国の次期大統領決定

2016年11月25日 00時00分01秒 | 提言

 大統領選の選挙戦が終結となった。実業家であるドナルド・トランプ氏である。ヒラリー・クリントントン氏との接戦を勝利したのである。事前の評価は大勢がヒラリー氏を推していたとの報道があったが、選挙人の数ではトランプ氏が僅かの差であったが、数が上回った。いまだ選挙無効のデモが繰り広げられているが、不正が露呈しない以上、いずれは縮小し、正常に戻るであろう。

 

 トランプ氏が優勢であることについては木村太郎氏の事前の調査が、伝えられていたが、まさにその通りとなった。これについては、様々な見方があり、ヒラリー氏の無難な国政運営よりは、米国民は変化を求めたことになった。隠れトランプ票の読み間違いとも言えそうであるが、真相はよくわからない。気持ちはわかるが、政治経験がないに等しい実業家が今後どのような政策を展開するのか、先が読めない時代を迎える。

 

 他国のこととはいえ、日米関係のもろさを露呈したことになるが、就任前に我が国の安倍首相が渡米して、他国に先駆け接触を持ったことは、それなりの意味があったのであろう。米国が提唱した日米自由貿易協定(TPP)が暗礁に乗り上げたことである。

 

 この協定は輸出入にかかわる関税障壁の撤廃を目的にしていて、品目ごとの障壁は時間をかけながら撤廃していくのであるが、品目、特に我が国の農産物にかかわる関税を高く設定しているため、消費者は高い農産物を購入せざるを得ないが、この関税を撤廃できれば、同じ品目の農産物が安い価格で輸入でき、消費者にとっては大変ありがたい措置となる。一方では農家の生産物が売れなくなり、農家の経営が著しい危機に陥る。

 

 つまり、政府が農家から高い価格でコメを買い上げている食管会計は赤字であることの解消が見込まれる。TTPに反対する農家の考えを代弁する農協にとっても存続の危機に陥る。波及効果が高い問題である。

 

米国の基幹産業であった自動車については、我が国や、韓国、中国、インドなどから価格の安い車が米国に入ることによって、米国の自動車業界は壊滅的な打撃となる。一方、トウモロコシ、大豆、コメ、牛肉などの農産物は輸出拡大が図られることになる。どこかに限界があると思われるが、何らかの措置によって、経済の活性化が図られることは意義があるのであろう。


地震の怖さ

2016年11月24日 00時00分01秒 | 提言

 地震のニュースで昨日は一日が過ぎた。分析もされているし、福島では余震が続いている。自然の脅威をまざまざと感じるが、怖さの本質は莫大なエネルギーだけではない。地震災害による人命を奪うことでもない。地震列島の我が国である。生まれた時から地震を感じながら成長したので、地震の揺れについては何度も経験している。地震によって命を絶たれてもこれは自然災害であると諦めはつくであろう。怖さはいつどの程度の規模で、どこで発生するのか皆目見当がつかないことである。たとえ、調査によって、○○%の確率でどの地域で起こるかの確実性のない予測では対応のしようがない。

 

 確かに地震発生に伴うP波、S波をキャッチしてからの到達時間で危険を知らせる手法では、地震予知ではなく、発生後の対応であり、厳密にいえば、結果報告である。これについても必要であり、発生と同時にできるだけ早く発生を伝えること否定するものではない。

 

 しかし、手が付けられていない分野と思われるが、根拠となる科学的に立証できる理論構成なのである。当然過去の地震にその傾向を当てはれば、合致するであろうし、今後起こりうる規模と範囲を絞ることができるであろう。現在の予知範囲が広く、地震の規模も範囲が広い。活断層についてももっと研究の余地が残されている。個人の住宅を建てる場合でも地盤について一応は考えるが、地下部分の構造については不明なことも多い。

 

 特に山間部に分譲した切土の削った土砂を谷に埋めて整地した盛土については明らかに地震に弱い地盤であろう。N値といって支持基盤の保持力を建築条件にしているところは大規模の公的機関やRC集合住宅だけであろう。ようやく最近耐震補強という条件が付与されるようになった。

 

こうして地震について考えると、昨日の福島の地震は、第一報が、津波の襲来を伝えたからであろう。津波をも考慮したためか、高台へ逃げることに重点を置きすぎたきらいが明らかであった。避難も重要であるが、高齢者で、体が不自由な方は高台へは無理があった。さらに、就寝中に襲われるとなすすべもない。せめて自宅を耐震補強することは身を守る最低限の条件と考えるところである。それと、地震と火災はつきもので、火の始末にも気を配ることが類焼を防ぐ。完璧にはいかないにしても平常時においても予知が不可能な地震にはもっと地域を挙げて、力を入れるべきであろう。


高齢ドライバーの交通事故

2016年11月16日 00時00分01秒 | 提言

 高齢化社会が引き起こす新たな交通事故は、瞬時にして被害者から加害者の立場になる。このところの紙面には連日高齢者が引き起こした交通事故が報じられている。その原因は様ざまであり、特定することは難しいが、高齢化による身体機能の衰えや判断力低下が原因の一つとして考えられる。中でも認知症による車を運転中の徘徊である。

 

 以前からブレーキとアクセルとを踏み間違えて、停車中の車が発信後高速で建物等に衝突する事故があった。通常では考えられないが、止めようとしてブレーキペダルを踏まずにアクセルペダルを踏んでしまう。それも構造上片足で段差があるブレーキとアクセルの位置は感覚がわからなくなることはない。それを踏み間違えることが実際に起きている。

 

 一定の年齢を超えれば免許を返上するような自主返上もあるが、なかなか進んでいないようで、認知症を免許切り替え時に診断して、もし発見できればその時点で運転免許の更新をやめることで、防止策が行われている。次の更新期間までに認知症が進めば、完全な防止策とは言えまい。さらには高齢者ばかりではなく、若年者にも認知症が発生する場合もある。

 

 過疎の地域では高齢化が進み、単身の一人世帯も多い。生活に必要な買い物や、病院通いは公的交通機関がなければ、自家用車を使わざるを得ない。またタクシーを毎回頼むだけの費用だけでも生活費を圧迫する。動けるうちは、自家用車の利用を制限することができないであろう。本来ならば、事故の未然防止が行政の建前なのであるが、状況によっては、後手に回らざるを得ない。きれいごとでは済ませない悩ましい問題である。

 

 高齢者ドライバーの運転が原因した交通事故にあわれた方も悲劇であり、不幸という他はない。死亡事故に至っては、賠償すら難しい場合もある。ではどのようにすれば被害にあわなくて済むか、現状ではその解決策はないに等しい。なぜならば、車を運転することは交通ルールを守っているという前提で、道路を走っているからである。自車の前方を走る車がおかしげな運転をしていれば、それを避けることは可能であるが、交差点等で信号を無視されれば、事故は防ぎようがない。

 

 車自体の制御を人工知能やセンサー等で行うなどの自動運転は緒についたばかりで、これからの世界である。一刻も早い成功と実現を期待したい。


ホームレス小屋の撤去

2016年11月14日 00時00分01秒 | 提言

 強制的に行っているわけではないが、河川敷管理のお役所から何らかの動きがあったのであろうか、自主的に解体する動きがあった。おそらく、私的な河川敷の独占を放置することによる何らかの弊害を危惧したのか、それとも直接行政の担当部署へ市民からの苦情なのかどうかはわからないが、多摩川の各所で同様な小屋があるのは問題なのであろう。

 

 小生が知る2か所の小屋は、住民は異なる目的であるようだ。1か所は、パイプハウスで、居住している。もう一方は、空き缶の回収者で、缶をつぶして生計を立てているらしく、居住はしていないようである。このような場所で生活するには、最低限の寝具のほか、炊事用品も必要となる。電気製品は配電していないため、利用していないようである。しかし時折聞こえる電動機は、自家発電かもしれない。

 

 風呂やトイレもどのようにしているのかわからないが、近くにセセラギ館があり、屋外の公衆トイレばかりではなく、水道も完備している。飲料調達や、冬場を除き、体を拭くのは可能である。つまり、河川敷であっても生活できるのである。どのような理由で、そのような生活をせざるを得なくなったのかについては詳しく聞いたわけでもないが、孤独な生活を選ばなければならないところまで追い詰められたのにはそれなりの訳があるのであろう。

 

 福祉政策だけでは片づけられない世界もあるが、同じ人間として、関与できないことも確かなことである。河川敷でも生活できるとすれば、住民票もないし、税金もない、行政は、事実があってもすぐには対応せずに数年が経過している。どう考えても怠慢という他はないが、役所も縦割り行政をバックボーンとして、積極的には対応していないようである。どう考えても不合理の一言に尽きる。

 

 数年前に、勝手にアカシア林に小屋を建てた老人がいた。何をするわけではなかったが、伐採したアカシアの木は丸裸にするような行為が続いたが、不審火を出し、撤去に至っていて、今は徐々に元のアカシア林に変わってきている。自然派もよいが、公共の場を長期間継続的に私的に利用したことが反発を招いた結果であろう。

 

河川敷を私的な家庭菜園として利用しているごく少数の人間が現存している。これら者も、ホームレスと同様で、身勝手な行為に対し、社会的制裁の対象者と考えられる。継続使用は、独占であり、法を逃れる勝手な行為は公的機関で厳罰に処すべきである。法的責任を持つ大人の行為とは考えられず、関係行政機関に対し、早急な対処を望みたい。


衝撃の記事その2

2016年11月11日 00時00分01秒 | 提言

  前回の執筆中に思い出したのであるが、伝統技術・技能と称されている産業は、徒弟制度が導入され、人材育成と言いながら、実際は教育も訓練もしない低賃金労働を強いる今でいうブラック企業であり、休日はわずか盆と暮れだけという超長時間労働であった。その名残は今でも水面下では行われており、卑近な例として板前といえば格好は良いが、基本的な労務は相変わらず前近代的であり、教えないということを教育と勘違いしたまたは当然とした思い込みの不幸である。

 

例えば、江戸前ニギリ寿司を握らせるまで3年や5年をかけるばかげたことが行われてきた。握るだけなら、1日で覚えられる。その間の下積みが職人としての技量を磨くなどと言われるが、後継者が生まれない理由はだれが考えてもわかる。今やすし店の主人は、回転ずしの調理場でアルバイトをしている状況である。さすが手当を渡さない世界はなくなったが、名門といえども労働の質や作業環境は劣悪と言わざるを得ない。

 

上述の例は極端であったかもしれないが、現在でも小企業や零細企業では、流儀や、たたき上がりが実権を握り、職業訓練を拒否している企業が散見されるが、教えない理由は、技術の流出による自らの立場を失うことになるという先入観であり、被害者意識で、後継者の育成を行わないという狭い身勝手な了見である。

 

基本的な考えを保守として、守る世界もあるが、後継者がいなくなればその業務は廃れてしまうし、その代限りとなり廃業となる。技術の変革や情報量の多さは昔と異なることぐらい肌身で分かっていても、旧態依然とした会社経営は徐々に転換を余儀なくされる時代である。グローバルとまでいかなくても、異業種交流ぐらいはできるであろう。ブラックボックスを保ち続けることは、反面、オープンイノベーションに乗り遅れるというニコンの教訓はどの企業でも無関係ではない。オープン化することにより、専門分野の先行を可能にするのであるが、早ければ早いほど、協業が可能となり、さらには、自らが業界のスタンダード化に寄与するのである。

 

技術の流出を危惧する気持ちもわかるが、秘密は、いつかは流出するし、他社でそれ以上の技術を生むことになる。中国で、我が国が輸入していたレアメタルを出し渋り、価格を上げてきたことがあった。我が国はレアメタルに代わる新技術で対応したことにより今やレアメタルは暴落しているではないか。同様なことは多くの産業で現れていて、造船技術なども定年退職者や高賃金を望む技術者の海外流出は避けて通ることはできず、近隣諸国の技術レベルの向上は急速である。ブラックボックスを金科玉条とする世界は終わりを迎えているといえよう。


衝撃の記事

2016年11月10日 00時00分01秒 | 提言

 今日は現オバマ大統領の後任を決める全米の大統領選挙である。ヒラリークリントン氏かトランプ氏かの選挙人を各州で選出する。住民の代表というべき存在であるが、代理人は、そちらかの大統領候補を決めているため、選挙人の数の和が274名以上(過半数)となれば、どちらかが大統領に推挙されることになる。選挙人の総数は、過半数の2倍なので、548名である。この制度は一見、間接選挙の形であるが、実際は、直接選挙である。大方はヒラリー氏がオバマ氏の後任と目されていたが、最終的には、トランプ氏に決定した。

 

 この衝撃的なニュースは、大方の予測と反するもので、安定政権を求めないアメリカ市民の気持ちを如実に示した、想定外のことであった。コメンテーターなり解説者の如何に事前の予想が覆される事態を想定できなかったかの限界を示すものであるという教訓である。

 

 このことも今後勝因の分析等、解説者や分析者があることないことを宣うのであるが、後出しじゃんけんで、見苦しい姿を見ることになる視聴者にとっても、無意味な時間を過ごすことになる。そのことが分かっていながらの世界はなんともむなしい時間である。

 

 衝撃的なのはそのことではない。あのニコンが1000名の従業員削減を発表した記事である。詳細については新聞紙上でご確認していただければよいのであるが、自分にとっては、アメリカ大統領選以上の衝撃であった。つまり技術立国として戦後の我が国を支えてきたトップランナーの世界的シェアが極端に落ち込み、今や、1割にも満たなくなったのである。光学精密機器の分野は、将にお家芸でもあった。現在でも大手の数社は国際競争力の上位を占めているが、ニコンがなぜこのような凋落を示したのか?

 

 答えは簡単である。グローバル化に乗れなかった企業体質であり、自社ブランドを守る戦略の失敗である。聞こえは良いが、発明当初の技術はブラックボックス化し、それを大切にする姿勢である。しかし、今回の凋落の原因は、オープン化しなかったために起こった悲劇というほかはない。抱え込んでしまったために、世の中の潮流に取り残されてしまったのである。

 

 カメラの基幹部分である半導体露光装置の自前執着が、対抗馬である、オランダのフィリップスから独立したASML社に凌駕されてしまった。ASML社が取る戦略は、オープンイノベーションであった。これは外部企業への技術情報の提供と協力関係で連携し、機動的な製品開発を続けたためと分析されている。あきらかに、他の血を入れることによって、新製品開発への活路が開けるのであり、自社の力だけでは今の技術向上は不可能であることを示す結果となった。

 

 我が国の多くの企業が抱えている狭い了見は、いずれ、他者に吸収されることは必至である。オープン化することによるデメリットよりメリットが大きいことをお伝えしたい。


再び九州の実家へ

2016年11月09日 00時00分01秒 | 提言

 連休をはさんで九州の実家へ里帰り、今回の目的はいくつかあるが、年に数回地元のシルバーセンターに依頼している草刈り、立木の剪定派まではしてくれないため、電線にかかる樹木の剪定を行った。梅の大木と、白木蓮である。南天も伸び放題、キンモクセイも大きな株となっていた。これらをのこぎりと剪定鋏を使って丈を切り詰める。このほかには、モッコク、ツバキ、ツツジ、ツゲ、クロマツである。

 

 立派な池があり、水は張られてないが、枯山水の情景となっている。山から切り出した大きな岩は苔むし、それなりの風情が楽しめるが、これも手入れができていないため、残念ではあるが、にわか仕立ての剪定だけではいまいちであった。

 

 目的の二つ目は、割れた屋根瓦の補修である。同じ種類の瓦が見つからず、業者に任すことにした。瓦を取り寄せてからの施工となるが、数日かかるとのことで、帰京後の作業となってしまった。瓦にも流行や生産停止があり、時間を経た瓦は探すのに時間がかかるとのことであった。

 

 帰省に合わせて、墓地の墓碑の彫刻依頼を早めてもらい、納品という段階になったが、石材店の方が気をまわして、すでに墓地へ搬入し、据え付けるところまで済んでいた。支払いだけが残っていたため、それを済ませることができた。コンピュータを使っての彫刻だそうで、若干字体が統一できなかったことや、大きさも大きめであったが、やり直すわけにもいかず、仕方ないとして、渋々不満足ながら受け入れることとした。

 

 次は、台所脇にある控えの間の床面の補修である。安い合板の化粧張りをしてあった部分が、めくり上がり、全体にべこべことしていたため、張り替えを知り合いの大工にお願いした。実は、実家を建てた棟梁の弟子であったことが判明し、大いに話が盛り上がったところである。人の縁というのは全く偶然出会っても、何らかのつながりがあるもので、不思議な縁(えにし)を感じたところである。

 

 外灯の修理を行った。これはカバーが外れていたため、直接雨がかかっていたため、漏電寸前であり、新品と取り換えた。最後に建物の外周を見て回ったが、床下の除湿のためにつけた装置は稼働しているのであるが、換気口の処理が悪かったため、いずれ修理をする予定である。普段行っていなかった部分は意外にも多くあり、空き家が早く悪くなるのがよくわかった今回の帰省であった。


沖縄知事に物申す

2016年09月19日 00時00分01秒 | 提言

  豊洲移転問題の石原前都知事の失言と失態は、いい加減な代表として、その名声は黒く塗られることになる。6年前とはいえ、発言や、支持があったことを否定すれば、批判の矢面になる証である。なんとも不遇としかいいようがないが、猪瀬前知事、舛添前都知事など、なんと情けない都知事を就任させた根本の原因は、都知事選でも明らかな、人気投票の選挙である。以前も大数の法則を披露したが、将に大数の持つデメリットがはっきりしたではないか。民度で決まるといわれる選挙のふたを開けてみれば、その地位にふさわしくない人間を選んでしまう結果になったことである。

 

 大数が持つデメリットとは、大衆の動向を左右し、本来知事にふさわしい人間を排除し、何らかの別の材料が、候補者を当選させるのである。前大阪府知事のノック、青島都知事、何かむなしいが、選んだ都民の胸中は決して穏やかではないはずである。結果、幾ら悔やんだところで、消すわけにはいかない。この傾向はどの県知事選でも同様で、係争中とはいえ、沖縄の知事に至っては、司法が判断を示した係争相手の国側の勝訴を不服として、最高裁へ上告しているが、全くの筋違いで、そのことも気づかずに司法の批判をする行政の県知事であれば、その末路は明らかなことである。

 

 上告は不服ならば手段としてあるが、国を形成する都道府県知事は、あくまでも判決によって、著しく県が不利益を被ると判断される以外は、国の下部組織として、沖縄は司法の判決を真摯に受け取る立場といえそうである。それが嫌であれば、独立の道を選ぶのか、県民の民意が知事と同じ意見であるのか、確かめもせずに上告する愚かさは、すでに知事の職責を逸脱しているといえないであろうか。傍目には、自暴自棄に陥り、抵抗勢力を形成する対面としか見えない。

 

 どう贔屓目に考えてみても今回の判決は高裁において相当重い判断といえる。今や、わがままで子供じみた態度を許すことは、逆に、沖縄県民の利益をないがしろにする暴挙であろう。この係争は今後も続くが、沖縄が特例扱いを受け、基地負担を旗印に、暴言や反対行動を示すことによる揺さぶりをかけ続ける原因は何であるのか、果たして、民意は沖縄県民だけなのか、応援に来た他県の反対派の画策が見え隠れしているようにも見える。

 

 批判は当然あろう、しかし、司法の判決をないがしろにすることが果たして得策かどうか、熟慮する必要はあろう。沖縄だけの問題にせず、全国を巻き込む方策をなぜ行わないのか疑問が沸く。


秋の長雨

2016年09月17日 00時00分01秒 | 提言

 秋晴れが続く年もあれば、今年のように、天候が不順な年もありで、今後の台風の影響も心配である。一喜一憂するのは誰しも同じであるが、やはり真夏と違って、朝夕は涼しいと感じている。季節の変わり目は気圧配置が安定せず、その原因は、太平洋からの高気圧の勢力が弱まり、大陸育ちの冷たい高気圧が綱引きを行っていて、境には、前線が発生するので、雨模様が続くようである。丁度この時期は、コメや果実が実るし、台風による被害も発生する。

 

 我が国ばかりではなく、近隣国も台風による被害を受けるし、洪水で孤立する村落も多い。治水対策や、高潮対策など、十分であるとはいえず、集中豪雨による床下、床上浸水の被害もある。今回岩手県や東宝各県に及ぼした豪雨による災害は、手付かずの場所もあり、ラジオから流れるボランティアの募集は、9月の連休を利用するといった試みが聞こえてくる。どうも違和感を思うところであり、災害発生と同時に各団体や、赤十字等で、募金活動が活発となる。

 

 今回の放送も、窓口が社会福祉協議会とされ、ボランティアを応募していたが、災害の後始末は本来、社会福祉事業ではないし、組織的に一本化されているとはいいがたい。社会福祉協議会は一周の民間団体であり、その運営は不透明なところが多い。被害情報を十分把握しているわけではないし、ボランティアのマッチングについても明確な基準はないと思われる。

 

 ボランティアは本来、無償の活動であり、労働等対価を求めるものではなく、滞在中の食事・飲料や宿泊場所についても自腹を切るのが当たり前である。汚れ作業が想定され、水の便も悪いところでは、それなりの衛生対策も必要になる。簡単にボランティアを受け入れることが容易などと担当者は考えているように思え、本末転倒しているといわざるを得ない。実際は、役所が主体的に行うべき事柄であるし、必要ならば、一義的に近隣住民を対象とした募集もあってもよい。東京から交通費をかけるより、ボランティアの負担を最小限にする必要もあろう。

 

 ラジオの呼びかけは、体力的に自信がない者については、募金を勧めていた。何たることか、毎回の恒例ではあるが、募金の収支も公表せずに、募金の在り方についても疑義を持っている。ボランティアが、チープレイバー以下の待遇に公的組織は何も感じないのか、住民のためといって、公務についている者が、率先するのは当たり前である。ボランティアを行う側も、もっと実態を勉強すべきである。


北朝鮮の挑発

2016年09月10日 00時00分01秒 | 提言

  北朝鮮の脅威は日増しに増大している。TVや、新聞紙上ではミサイルの発射や、ミサイル到達地点が、我が国の領海に接する排他的経済水域とのことであるが、政府はこのことで、苦言を呈するばかりで、具体的な対抗手段を取っていないように見える。戦争行為は不幸なことであるが、このまま見過ごし、エスカレートするのを待つのか、それとも甚大な被害を受けてからでないと反抗できないのか、どうも国民を納得するに至っていない対応に対し、このままでよいのか疑問を持つに至っている。

 

 直接の担当についても、毎回、繰り返す談話や、抗議はあっても、何ら効果がないまま、北朝鮮の行動を抑え込むに至っていない。このような対応は、防衛になっていないし、発射されたミサイルを即時把握していない、または情報すら米国任せでは完全に敗北の道を進んでいるとしか思えない。平和ボケをした我が国の行政を案じている一人である。

 

 先制攻撃を行う時期ではないとの判断は確かにあるが、指をくわえて待つばかりなのか、拉致問題にせよ、これまでの挑発行為に対して具体的な対応がなされないまま、近隣諸国との接触は、他力本願である。近隣諸国と仲良くすることを否定はしないが、わが国独自のしかるべき対応があると思われる。ミサイルの発射が射程内で出漁している漁民への被害はなかったことは幸いであるが、万が一被害を受けた場合、どのように対抗するのかの筋書きすら明確ではない。

 

 なんとも頼りない政府であり、このままでは安心して暮らすことはできない。国防の意味をもう一度考え、具体的に国民に知らせる必要があると思われる。被害があってからの対応で果たして良いのかも疑問である。核弾頭が、都内に落ちれば、数百万人の死亡が現実となる。これがなければ対応出来ないとなるとすれば、防衛ではなく、起こるべくして起こったという、確証をつかめなければ反戦出来ないという理不尽な結果が見えてくる。

 我が国が戦争放棄しているとしても、戦争ができないのではなく防衛すらできない国ということになる。そこまで放棄しているとは思えないし、現実に自衛隊が合法的に存在しているではないか。

 

 何のための自衛隊なのか、米国に対しての遠慮なのか、それとも国連が対応してくれるとでもいうのか、平和主義はそれでよい。しかし日本民族が犠牲になっても反撃すらできない国なのか、改めて、国防の意味を政府に問いたい。北朝鮮の度重なる狂気はもはや限界になっていると判断されるのであるが・・・。自分一人の思い過ごしであれば良いのだが。


ドーピング問題その2

2016年07月23日 00時00分01秒 | 提言

 前回の投稿後に、英和中辞典(開拓社)で調べてみた。確かにDopeで引くと名詞として、1.潤滑剤として用いる濃厚な液体;ドープ塗料<航空機の翼布などを強化用として塗るワニスの濃厚液> 2.(アヘンなどの)麻薬;麻酔薬(ナルコティック;(競争馬などに用いる)興奮剤 3.俗語として、(勝ち馬など)競馬情報(一般に予想に類する)情報等として。動詞としては、1.ドープ剤で処理する、ドープ塗料を塗る。 2.(・・・に)麻薬を飲ませる;(麻薬剤で)麻酔させる。;(競走馬などに)興奮剤を飲ませる。という意味が記載されている。

 

 つまり、ドープという意味に麻薬を使うことの意味もあった。競馬のレースでは過去にも興奮剤を用いた八百長レースがあったように記憶しているが、これには掛け金が動くため、将に賭博である。いくら公営であり、競馬場を運営する団体や公営機関が手を染めなくても、古くから行われていた犯罪である。冗談として読み飛ばしてほしいが、函館には観光客を対象とした「いかさま}レースなるものがある。いか(イカ)を水槽で泳がし、勝ち負けを決めるお遊びである。しかし、八百長のことを「いかさま」というあたり、我が国にはあまり声を大きくして言えない賭博が横行してきた。

 

 国技である相撲、プロ野球、サッカーやラグビー、ゴルフなどのスポーツにおいても散見され、醜聞として聞き及んでいる。勝負の世界ではつきものとのあきらめもあるが、幾らクリーンを叫んでみてもドーピング問題もしかりで、ますます巧妙化された手口にはチェック体制が後手に回っているようにも見える。スポーツ選手自身や、大会を開催し運営する組織では真剣に取り組まないと信用を失墜させる危険を孕んでいるといえそうである。

 

 この問題の背景には、今回出された国際スポーツ裁判所からの裁定結果である。1つの国家での多種目の競技への参加を拒否する裁定が出されている。全くドーピングをしていなかった選手も同様な措置となれば不公平との判断もあり、今後、当該問題の解決を長引かせる可能性を秘めているが、身近に迫っているリオの五輪には間に合わない公算が高い。

 

 一方では、この司法判断は正しいとする向きもある。国家が関与したとされるドーピング問題の制裁手段としてはやむを得ないとの判断もある。直接関与しないものがとやかく申し上げる話ではないが、何事も原点に立ち戻り、異常とまで思える薬剤に頼ってまで行わなければならない事の正否を判断すべきと思えるが、いかがなものであろうか、賢識者の判断を仰ぎたい。


梅雨開け

2016年07月20日 00時00分01秒 | 提言

 関東甲信越を除き、沖縄、九州、四国、近畿、東海まで梅雨明けしたとの報道があった。専門家が判断するので、視聴者は、ことさら異論を口にする必要はないが、当たっていようがいまいが、生活には変わりがないため、梅雨が明けても、開けなくても、暑さが治まるわけではない。どうも判断の根拠はあいまいに近く、明確な基準はないようである。

 

 古くから、安定した高気圧がすっぽりと日本列島上空に鎮座し、梅雨前線なるものを北側に追いやるためとばかり思っていたが、今年の気圧配置はちょっと異なるようである。梅雨による恩恵もあり、余り短期すぎると関東の水ガメに不足の状態が続くため、農業用水や、飲料水の不足が生じることになる。いつぞやは、空梅雨といわれ、節水に努めたことがあった。詳細は忘れたが、庭木への散水を止められ、水道の蛇口から出る水も勢いがなかった。ふろの残り湯を選択に使うことや、必要なだけ洗面器に水を張り、節水に努めた。

 

 以前、お世話になり二年間暮らした岩手県の盛岡市には、大慈寺の清水があり、今でも地域の方はそれを生活水と利用している。枡が3つあり、一番目の枡は飲料水、スイカなども冷やしていた。二番目の枡は、生鮮野菜の洗いや、食器洗い、コメの研ぎ等に使っていて、三番目の枡は洗濯等に利用していた。観光名所になっていると思うが、古くからの知恵であろう。

 

 水の循環は、今でも浄水場で行われているが、生活水や汚物等の下水は、家庭で生活していると詰まって使えない状態になるまで、余り気にすることはない。海外に行くと、飲料水をトイレに使っているなどと話すと、驚かれる。我が国においても、高速道路のサービスステーションなどには、飲料水ではない水の利用に出くわすことがあるが、極めて少ないようである。

 

 多摩地域には長沢浄水場があり、数年前まで稼働していた生田浄水場は使用ができないようで、取り壊されている。その理由は定かではないが、過去には名水とも呼ばれていた。幸い、断水を経験していないが、生活に欠かせない水である。豊富であることは良いことであるが、各家庭の配管の変更等が発生するが、徐々にでも庭木の散水・トイレの水は飲料水とは別のルートで供給された方が良いと思っている。とりあえずは、全体計画を関係部署で作成され、住民の要望を踏まえて新築住宅や、公共施設から取り組まれてはいかがであろうか。


市民アカデミー前期11回目

2016年07月16日 00時00分01秒 | 提言

 映像・メディアコース第11回目プロジェクトX2回目巨大台風から日本を守れ~富士山山頂・男たちは命を懸けた~、講師はNHKエンタープライズ情報文化部長、井手真也氏であった。プロジェクトXの最初の作品であり、昭和38年~39年にかけてのプロジェクトであった。自分はこの放映を以前に見たことがあり、45分間の再放映は意味をなさない。

 

 早々に会場を出て帰路についたが、音声をボリューム最大にして放映された会場では、余りにもうるさい。聞くに忍びなく、退散したのが本音である。講師の生誕が同年だということで、何を解説するのか若干興味はあったが、参考になるような話はなかったことも理由の一つである。ハード面での音響設備はあっても、普通の会場では、音響効果を生む設備となっていない。雑音に聞こえ、音響担当のボランティアに文句を言うわけにもいかず、その場を離れることが最善の策に思えた。

 

 不特定多数の受講者をターゲットとしているため、このような状況は予想していたことである。会場に入って初めてサブテーマを知ったため、事前に分かっていれば初めから聴講しなかった。今までは常に新鮮な気持ちで何らかの参考になったのであるが、今回は興ざめであった。講座の企画に当たっては、すでに半年前から決まっているし、一度決めたテーマをよほどのことがない限り変えることは難しいが、講師の都合もあるだろうし、キャンセルはこのような講座では起こりえるので、仕方ないのであろう。

 

 今回の選択した講座について言えることであるが、できるだけ講座の内容について伝える必要があろう。題目だけを掲げても、その内容が重複したものであれば、聴講する意味がない。想像でしかコースを選択できないのであれば、もはや興味は失せる。受講生の多くは、題目が同じであっても、映像の説明に角度を変えて聞きたいと願っているのであり、同じ映像を何度も見るために聴講しているのではないであろう。多くのコースが存在し、活況を呈しているのは喜ばしいに違いないが、そこには、聴講生の本音をしっかり捉えた企画の大切さが横たわっている。ないものねだりと思われても仕方ないが、企画側の発想の豊かさを期待したい。

 

 講師の人選には多くの要素がある。実際の選定する時間はたいへん短いと思われるが、その意味では、時間との勝負であり、現役の講師の諸処の条件に合わないと選出することすら難しいであろう。しかし、聴講生も単なる暇つぶしではないのである。それぞれ、思いがあって聴講しているわけで、あてがいぶちでは満足は得られない。受講生の生(なま)の声を聴く必要性を感じている。