更新期間が終了する日における年齢が、70歳以上の免許保有者が免許証を更新しようとするときには、更新時講習の代わりに、免許証の有効期間前6か月以内に、高齢者講習を受けなければならない。この場合、75歳以上となる者は、認知症検査を受け、その結果の点数で、高齢者講習を受けることになる。この検査は、事前に現住所を管轄する県公安委員会からはがきで連絡が来る。認知機能検査受検通知書である。この検査を受託する地域の自動車教習所の一覧が書かれていて、直接本人が、教習所に連絡し、予約を取る。教習所が混雑している場合があるため、通知書が届いたら早急に予約を取るべきであろう。
認知機能検査は時間にして30分足らずであるが、日付、時間を書く検査、複数のイラストを記憶し、思い出して書く検査、指定された時刻の時計を描く検査である。イラストは4種16個のうち、1種16個を記憶するが、当日どの種類が提示するかは教習所によって異なっている。インターネットや問題集として提示されているのは64イラストである。回答書には、イラスト提示後すぐに思い出すのではなく、数分間のタイムラグが設けられているため、16イラストを思い出すのは容易ではない。大筋の検査は同じと思われるが、新たに各自がブックレットのような電子機器の導入が予定されていて、回答書も、電子データとなるようである。
数週間後に公安委員会から郵送される葉書には、検査の結果が明示され、点数によって、高齢者講習受講時間が異なり、点数が低い者は、場合によっては認知症と判断されると、免許の停止または取り消しとなる。主治医等の診断書によっては、認知症ではないとの判断によって、高齢者講習時間が通常2時間のところ3時間必要となる。
75歳以上で、一定の違反行為がある者においては、臨時高齢者講習として、別枠の臨時高齢者講習を受けることになる。この場合、認知機能検査の点数によっては教習料金も異なっている。無事故無違反者では最低料金でも5100円が必要である。
講習内容は、ビデオの放映、実車指導等がある。講習後には講習修了証が発出され、それを持って、最寄りの警察署で、免許更新手続きを行い。申請書に、2500円分の証紙を添付し、既定の大きさの写真とともに申請する。約1か月後に免許証が出来上がるので、直接受け取りに行くか、郵送してもらう。
認知機能検査の通知をもらってから受け取りまでにはゴールド免許所持者であっても、約3ケ月を要し、その費用たるや、最低で、1万円弱。今日のインターネットや、電子データ流通時代に、なんと非効率な手続きなのか唖然とする。それぞれの段階は、行政上必要不可欠と言われても、なぜか釈然としない。警察組織が持つ、融通性の欠如やそれこそ改善の余地が全くないのか疑問に思う3ケ月であった。
高齢者と呼ばれる年齢に近づくと自らの年齢がそのように呼ばれる範疇に入ることに驚くとともに、身体ばかりでなく、精神面においても、もう戻ることができない年齢の加算を恨むようになる。やり残した仕事は定年退職した時点で、整理がついたと思っていたので、ことさら執着はないが、これから生きる年月の目標というか、今世間で言われている終活への道標すら心もとない。
いつの時点で、認知症検査が免許更新に必須となったのかは記憶にないが、そう古いことではないであろう。最近、新聞紙上をにぎわす高年齢者が引き起こす交通事故の原因の多くは、認知症によるものと言われている。アクセルとブレーキを踏み間違えることによる運転操作ミスは、人身事故を引き起こし、関係者を奈落の底に突き落とす。病気と判断され、危険運転の事故は、従来言われてきた水泳や自転車運転などの身体が覚える技能の限界が見えてきたようでもある。技術上の危険運転防止には、人工知能を使った自動運転や、自動ブレーキシステムなどの他、タイムレコード等による体調管理、視野を広げるセンサー類等幅広い改善や工夫が行われている。しかし、どれだけ技術が向上しても、人間が運転するということ自体は、変えようがない。
昔、よく話題になったケアレスミスなどの累積が、危険予知活動として、多くの職場で取り入れられた。300:30:1と言われ、重大事故の発生に至る前には30の中程度の予兆があり、その前には、300件の小規模なケアレスミス、別の表現では、ヒヤリ、ハッした経験があるというものである。これらの予兆を見逃すことなく、原因を入念に調査するとともに、原因を明らかにして、改善に努め、事故の発生を未然に防ぐことが求められる。
そこで、認知症検査は、記憶力の低下を未然に発見し、症状に応じた対策が始動しているといえるが、明らかに気づくことは、運転免許を返納する者を増やす方向性が強調され始めている。つまり、健常者に於いても、運転する機会をできるだけ減少させ、運転が生活上他の代替え手段がある場合には他の公共交通手段や、タクシー等を利用することも選択肢として考慮する必要があろう。このベクトルは現状の痛ましい交通事故を鑑みれば、当然の選択といえる。しかし、便利さに慣れた運転者が、そう簡単に代替え手段に切り替えられるかという悩ましい問題もあり、十分に解決できていない段階では、行政も含め、何らかの手段も必要と思われる(例えば、病院の外来には、病院自体が送迎を行う等、市町村では、通学、買い物や銀行へ行く機会に定期的にマイクロバスを提供する等)。また、運転者においても、自分が認知症であるとの認識は、受け入れられない問題もあり、強制的な免許更新時の認知症検査は有用であろう。
すでに新年度が始まり2か月が経過した。この4月に大学病院の人事異動で、多くの医師や看護師が異動の対象となり、新たな体制で医療業務も、患者の目からすると順調に推移しているように思える。前回、自分が掛かっているクリニックで、成人病検診時に、行った大腸検診の結果は陽性で、大便に血が混じっていたため、現在通っている医学大学の附属病院への紹介状をもらい、内視鏡検査及び同時手術を受けた結果、20個以上の小さいポリープと、比較的大きい1個のポリープの切除を行った。この時は日帰りだったと記憶しているが、それ以来、大腸の検診は受けてこなかったため、今回、3年が経過したので、直接、大学付属病院で検査入院をすることとなった。すでに手術日が決まり、十日前から、体温管理や、食事制限を実施してきたが、途中で、コロナ禍でもあり、血液検査及びレントゲン撮影更にPCR検査を受けることとなった。
PCR検査については、初めて行うことでもあり、唾液検査であろうと予測していたが、実際には、長い綿棒を鼻腔深くに挿入し、検体を取る方法で、コロナウイルスの感染を調べることとなった。若干、強引な検査方法に思えたが、検体を取り、検査する一番良い方法であるとの看護師の弁は、信じるほかなかった。看護師の検体採取技量にもよるが、二度と受けたくない検査であった。手術前日までに病院の方から自宅へ何も連絡がなかったので、PCR検査、血液検査、レントゲン撮影については合格したのであろう。
検査日の当日の、内視鏡検査・手術には麻酔を使うため、自家用車での使用を避け、徒歩、バス、電車を利用することにした。朝の8時に自宅を出て、病院の受付は9時からで、入院手続きを終え、宿泊予定病棟に案内され、検査着に着替え、泌尿器内科へ出向く。1泊2日のグループはすでに2名の方が看護師の指示に従って書類を作成していた。
当日は外来の方は10名以上で、合わせて15名の規模である。男女は半々といったところか?外来は8時からの受付で、すでに、腸内を洗浄する下剤を飲む別室で、飲み始めていた。宿泊グループは、10時から下剤を飲み始めた。トイレとの往復は少ない方で5~6回、多い方は10回以上の往復である。4回目からは、担当の看護師が排便をチェックし、腸内がクリーンになるまで下剤の服用が続く。自分は7回目で、合格し、順番に内視鏡検査会場へ向かう。検査用ベッドに横向けに寝て、2時間近く掛かって検査が終わる。
検査開始時点で静脈に麻酔薬が注入されるので、検査中の医師との会話はほとんどなかった。小さいポリープ5個と大きいポリープ2個が電気メスで、切除された。下剤の飲用から始めると、ベッドに戻った時間は午後4時であったので、6時間の検査・手術であった。
世の中に似て非なるものや物事は多々あるが、特に断りがなければ、厳密に区別していない。同じものやこととして普通に判断しているが、このことが、時として、問題となる場合も多い。今回、取り上げるのは、ジェネリック薬品についてである。病院の担当医師が発出する処方箋は、通常、処方箋を受け付ける薬局等で購入する。
ジェネリックとは、性質などがある種類全体に共通の、一般的な、属に特有なという形容詞である。医薬品については、先行して開発された後に同種の医薬品が低価格で、販売されている。消費者にとっては、同じものであれば、当然、価格が安い方を求めることになるが、それを見越してか、薬局では購入者の同意がないまま、至極普通にジェネリック薬品を提供している。
ここで問題となるのは、消費者側にも、薬局にも暗黙の了解があるとしていることである。どのような基準で、ジェネリック医薬品が承認されているのであろうか、詳しいことは素人の想像の域を出ないが、当局の承認が得られるまでには、その医薬品が、治験による副作用等の問題をクリアされていると考えているが、果たして先行医薬品と全く同じであるとは考えられないし、最近では、ジェネリック医薬品の製造過程で、睡眠薬成分を誤って混入し、その医薬品を服用した方が、交通事故を引き起こしたという記事が発表されている。この事故原因は、明らかにされているが、製造現場での工程についても、先行医薬品と全く同じ工程であるとは限らない。むしろ、異なっているのが一般的であろう。販売価格が安いだけで、性能や、薬効は同じとは到底思えない。
現在、通院している医学大学の付属病院の医師に相談した結果、処方箋以外のジェネリック薬品の使用は積極的には薦めていないとの見解であった。特に手術前には、栄養剤や、トクホの市販の医薬品の服用は控えるように指示されている。薬害や副作用の原因がそれらの市販医薬品とは限らないし、体質や持病等の原因不明な副作用も存在する。従って、手術前においてはできるだけリスクを避けたいとの判断があると認識している。
自宅付近の市立病院の周りには、処方箋を扱う薬局が林立している。しかし、立地条件にも左右されるのか、盛況のところとそうでないところとに二分されている。どこも多くの薬剤師を抱えていて、営業がよく続けられているのは不思議でならない。自分は医療費を含め藥価の二割負担であるので、処方箋の金額がさほど負担とは思っていないが、自己負担額が千円であれば健康保険組合からは4千円補填されるので、薬局には5千円の収入となる。もちろん医薬品は卸業者へ卸値を薬局から支払うので、大量に仕入れれば多くの種類を仕入れなくとも、ジェネリック医薬品として出せば良いことになり、薬局としても在庫を抱えることなく商売ができるのである。消費者と薬局双方にメリットがあるが、基は、卸売業者が、処方箋を出す医者への医薬品の売込みである。医者への積極的な商品の宣伝は、結局、利益率の高いジェネリック医薬品ということになる。
以上のことは堂々巡りですっきりしないが、喜ばしい政策として、高齢者医療費の国庫負担増や健康保険組合の財政圧迫による解散等が増えるにつれ、高額医療費の見直しや、薬価の引き下げの動きは、ここ数年続いている。医療崩壊という事態を防ぐためにも、さらなる医薬品の引き起こす副作用対策や、国民の医療費軽減に対する配慮が必要となっている。そのため、消費者においても薬価に対する正しい認識を持ち、一方的で強引な薬局の不手際を黙認することなく、また、ジェネリック医薬品の低価格へのメリットだけを追求することなく、正しい医薬品に対する知識を深める努力を期待したい。
師走に入り、無職の身にもなんとなく気ぜわしくなってきたようである。自分の関係する忘年会開催のうわさは、ちらりほらり聞こえてくる。例年に比べ、気乗りしない主な原因は、新型コロナウイルスの蔓延で、今の時期、宴会どころではなく、マスク装着や集まった仲間との距離を取っての会食には、不自然さがあり、親密さの形成とは真逆の防御体制というべき、拒絶の様相を助長するのでは様にならない。
しかしながら、我々の年代では、何らかの持病と共存し、それなりに生活しているとしても、外野の喧騒は耳障りである。盛んに言われることの一つに、糖尿病や高血圧の既往症(基礎疾患)を持つ者にとっては、居づらくなってきたことであろう。親族や家族に対しても、実際、ゼロでない感染リスクの伝染可能性を示唆されており、その可能性が誇張され、恰も反発できない重苦しさを強要されている。その多くは、マスコミにあり、それを作り出すニュースショーの類(たぐい)である。例えば、外出の自粛や、遠出についても不要不急と指摘され、会話における、唾の飛散、密室環境での行動の制限等はまるで加害者となり、犯罪者のごとく、枷をかけられたような印象を与えられ、連日、刷り込まれているようで、まるでテレビドラマに登場する、警察官役の、誘導尋問にかけられたような、精神的な不安定さを感じさせられている。このことは、言葉による一種の暴力であり、脅しである。専門家と称する、発言の影響を考えない、口から出まかせの責任を取らないコメンテーターの横暴であろう。
本来は、新型コロナウイルスの撲滅が最優先であり、ベクトルはコロナウイルス感染の終息にあるべきであるのが、本末転倒で、個人に的が向けられ、個人攻撃が多発している。発散できない重苦しさは、具体的には、暴力行為を誘発し、その形は、カスタマーハラスメント、パワーハラスメント、DV(ドメステックバイオレンス)となって、暴力が頻発している。一方では、精神的な鬱や自殺者が増える傾向にあるといわれている。ワクチンの開発は急がねばならず、発病すれば、適切な治療と回復に全面的に対応すべき医療体制の強化が望まれている。
その防疫はインフルエンザと同様に、今までコロナウイルスに罹患したと思われる場所や環境へは、近づかず、室内に於いては換気を行い、三蜜(密閉、密集、密接)を防ぐことにある。特に手洗いの励行、マスクの装着、ソーシャルディスタンスを取ることが求められている。最近では、下水からウイルスが見つかったと報じられているし、院内感染の原因は、トイレの共同利用や、トイレでの下足が原因との説もある。自宅ではトイレのスリッパは室内履きのスリッパと別にしているが、共同利用のトイレスリッパは不可能に近い。
新緑のこの時期、若葉が虫にとっては食料になり、住みかとなるのでしょうが、植物を栽培している園芸家諸氏にとっては、防虫、殺虫等の防疫の時期です。農家ではないので、にわか知識で申し訳ありませんが、目についた害虫は梅の木にはアブラムシ、サヤエンドウにはヨトウムシ、椿や山茶花にはチャドクガ等が卵から孵化した幼虫を見つけることができます。これから梅雨の時期には、さらに多くの害虫が発生し、一夜にして、せっかく植えた野菜類や草花が見事に穴だらけになってしまうこともあります。
チャドクガは露出した肌に触れただけで、一面に赤くかぶれ、腫れあがることもあり、大いに難儀します。薄着のこの時期、服についた幼虫には注意する必要があります。かぶれが治まるのに一週間以上もかかり、原因がわからず、皮膚科で受診して初めてわかることもあります。季節が良いことで、野山に散策へ行ったり、自宅の庭の手入れで知らずに触れたりすることもあるので、注意する必要があります。毛が皮膚に刺さるともいわれ、かぶれた箇所をかきむしると毒が拡散し、かぶれを広範囲に広げてしまいます。
幼虫は全身毛でおおわれていて、この毛が毒を持っているようです。チャドクガというガの幼虫です。椿や山茶花の葉につきますが、数十匹の幼虫が、集団で移動しながら次から次へ葉を食していきます。途中で脱皮を繰り返し、大きくなっていきます。葉の上に細かい糞があり、脱皮した殻を散見することもあります。防疫にはマラソンかスミチオンの原液を1000倍ぐらいに水で薄め、プラスチックのスプレー容器に入れて噴霧すればよいと思います。
ヨトウムシは厄介な害虫で、日中は地表部分に隠れていて、名前の通り、夜になって野菜等の植物を食い荒らします。ヨトウガの幼虫です。夜間に懐中電灯で照らすと発見できることがあります。何回か定期的に防疫を行うと良いでしょう。
ついでに、今からの時期、カエデやツツジの枝に大豆代の茶色の殻に包まれたイラガの幼虫が、誕生します。地域によって名前が異なりますが、電気虫、シドムシ、キントキなどと呼ばれる幼虫です。刺されると激しい痛みを覚えます。子供のころに刺された記憶があり、アマノジャク(天邪鬼;仁王像の足元に踏みつけられている小さな悪鬼)と呼んでいたのを記憶しています。それこそ電気が走るような痛みでした。
薫風薫る五月といわれますが、コロナ以外にも害虫に刺されないように気を配ることも大切です。
最近の報道紙面で米国の傘にある我が国にとっての対中安全保障を内容とした論調の中で気になった文章があったので紹介することにする。その部分を引用すると、
コロナ危機以降、米中関係の悪化は決定的となり、米国は中国を主敵としたインド太平洋重視戦略に大きく舵を切る。 この際、米国とその同盟国は、中国と対峙せずして自国の安全や利益を守ることはできないのであり、わが国は、中国との経済関係が深いことを理由に、米国と中国の間を渡り歩くコウモリ的振る舞いや鵺(ぬえ)的態度は許されない。(以下 省略)
注目いただきたいのは、鵺(ぬえ)的態度である。「ぬえ」を国語辞典で調べると①渡り鳥であるトラツグミの古称とあり、②夜、不気味な声で鳴き渡った怪鳥とある。さらに語源として、「源頼政」が禁中で射た怪獣は、頭はサル、からだはタヌキ、手足はトラ、尾はヘビ、鳴き声は「ぬえ」に似ていたところから、後世、正体不明の存在を指した。用例として「ぬえ的存在」。つまり、トラツグミは現実に存在するし、その鳴き声も聞くことができる。論者が言いたいのは、正体不明になってはいけないし、どっちつかずのコウモリ的振る舞いを避けるという意味であろう。しかしながら、「ぬえ」という用語が一般に使われているのであろうか?一般的な用語ではないはずである。
子供のころに両親から聞いた言葉を思い出した。時々、月が出ない夜空で、不思議な鳴き声を聞くことがあった。それを「ぬえ」が鳴いているといわれ、早く寝なさいと怒られたものである。トラツグミの鳴き声は知らないが、今でも鳥は鳥目(とりめ)で、夜は見えないと思っていたが、夜見えなくなるのは鶏(にわとり)ぐらいで、多くの鳥は夜暗くなっても目は見えるようである。夜に多摩川に近い住宅地で鳴く鳥は、ほとんどがコサギかアオサギである。
「ぬえ」の漢字は夜偏(へん)に旁(つくり)は鳥である。つまり「鵺」。夜の鳥で、ヨタカ(夜鷹)がいるが、これは鵺とは異なる。中形の夜鳥である。名前の通り夜に行動する。昆虫を捕食する。余談であるが、夜歩きする人の例えである。また、江戸時代、夜間に、街頭で客を誘った下級の遊女すなわち辻君のことも夜鷹である。
最近はパソコンやスマホによるメールでの受発信が多くなり、同音異句の誤用が目立っている。自らも注意しているし、自らも間違ったまま発信しているのかもしれない。キーボードから、かな-漢字変換機能を用いて、入力するのであるが、変換キーを押すことによって、パソコンソフトの記憶しているいくつかの表出した候補となる漢字群から適切な漢字を選択し、確定する。この一連の動作は、熟練によって一瞬のうちにできるようになり、便利の反面、誤用のミスも発生する。ミスを回避するには必ずチェックが必要であろう。
今回は、今年の正月明けから猛威を振るっているコロナウイルス関連で、某社の新聞記事であった。コロナウイルスの発生から約半年が経過したが、安倍首相が発出した緊急事態宣言をどのような理由で、いかなる時期に、撤回するのであろうか、興味津々であるのは誰しも同じで、コロナ感染が治まることを願う気持ちに他ならない。
「しゅうそく」はこのような場合に使うのであるが、意味からすると「終息」が正しいのであろう。ほかにも「収束」を用いる場合がある。もう一語、「集束」があるが、この語は刈り取った稲を束ねることや、物理で、光の束が一か所に集まる場合に使用する。では、「収束」はどうであろうか。収斂の改称で、数学では数列が先に行くにしたがって、ある数に限りなく近づいていくことを指す。グラフでいう漸近線(ゼンキンセン)のことである。また、ストライキがようやく収束に向かったなどの用例のように、それまでまとまらなかったものの間に、次第に関連付けや歩み寄りが見られ、最後に一本化が実現する場合に用いる。
終息は、やんでほしいと思っていた混乱したような状態がすっかり終わりになる、終わりやむ、終わることで、「戦火が終息した」という用例で使われる。
某新聞社では、ただ単純なミスではなく、収束という意味で使ったのかもしれない。真実は闇であるが、その底辺には、いつとも知れないコロナウイルスの発生原因追及や、感染の対策がばらばらで、それこそ収束できていない現在の為政者に対する状況を皮肉ったのかもしれない。
数年前から癌を発症し、近隣の病院で施術をし、回復を待って、多摩川に写真を撮るまでになった同僚のカメラマンが、2月の上旬に他界した。昨年の12月には数回出会ったが、その時は、以前投与を受けていた癌の特効薬が効いてか、顔色も戻り、順調に回復しているように見えた。その折も、糖尿病のインスリン注射は続けているようであった。しかし、治験中の特効薬は、副作用を生じたため、以前の投薬に戻っているとのことであった。投薬処方については担当医師が判断することで、素人には口を出すことはできず、別のカメラマンから訃報を知ったわけである。おそらく、本人は、信頼できる医療関係者にセコンドオピニオンとして相談していたと考えられるが、結果として残念な幕締めとなってしまった。
同僚のカメラマンは本人のブログに投稿したご令嬢様の訃報の通知と生前のご尊父に対するご交誼及びご厚情に対するお礼文で知ったということであった。なんとも歯がゆい気分が続いている。生前の元気な折には、一緒にカメラを構え、野鳥を追いかけたことや、カメラで写した画像を比べあったりしたことなどを思い出す。しかし、今思えば、自分との関係は、ホームグラウンドでお会いし、挨拶をするぐらいで、多くのカメラマンと同様に、家族構成や、居住地、連絡先、その他本人の性格や趣味など、ほとんど知ることもなかった。どちらも遠の昔に仕事とは別れ、年金生活者であることぐらいが共通することで、ただ単に趣味を通じての知人であった。人の命も自分の命でさえ明日はしれぬことであるし、世の無常を感じている。お悔みを伝えるにしても、住居はほぼわかっているが、残されたご家族には、お会いしたことは一度もなく、ご冥福を祈るだけで、直接何らかの行動をとるまでには至っていない。
昨年の10月に実兄が急遽、病で他界した。兄弟でありながら、電話では何度か交流はあるものの、よほどのことがない限り、行き来はなかった。死者との関係は己の記憶中にしかなく、その意味では生きている方と同様であり、先の時間を共有することができないだけと思っている。
最近の弔う方法についても、選択肢が増えた。遺族の判断が重視されるので、ワンパターンではないが、親族、血族の在り方や、祭祀の方法等についても、従来通りとはいかなくなった。少子化の影響、菩提寺の管理能力、檀家の縮小、親戚縁者との付き合い方等についてもドラスチックな変化が訪れているようである。
今回は訃報を受けて感じた現在の心境についてご披露したが、結論を見出せぬままで考え方の整理とはならず、いずれ心境の変化等をお伝えできればと思っている。
横綱日馬富士の幕内力士貴ノ岩暴行傷害事件は新たな展開が報道されている。頭部裂傷縫い合わせの写真である。ホッチキス(ステープラー)で9針を止める手術であったようである。頭部の裂傷は多量の出血を伴っていたことであろう。現在も現場に同席した数人の力士の事情聴取が行われているし、被害届を受理した鳥取県警からの事件全貌に及ぶ発表等は行われていない。被害者においては一刻も早い回復を願うところであるが、モンゴル力士同士のけんかにしてはどうも理由がわからず、横綱3人も同席した中での暴力沙汰は、いずれ、はっきりすると思えるが、喧嘩両成敗とはならないようである。
つまり、組織暴力的な集団リンチの様相が見え隠れしてきたからである。一種のパワーハラスメントであり、一方的な暴力行為で、いじめに通じる制裁が密室の中で行われたことが考えられる。それも相撲界トップの3横綱がいて、1名の横綱が、平幕の力士を殴打したのである。止めに入った横綱もいたようであるが、30~40発殴られたとされる被害者の言い分からすると、いつの段階で静止したのかよくわからない。つまり、被害者1名を除き、加害者は横綱1名ではなく、同席した全員が加害者とも考えられる。しごきであり、かわいがりといわれるいじめは、国技といわれて久しい相撲の世界に現存しているのである。
俸給をもらう戦士は番付という力士の上下関係で、横綱を頂点とする階級社会を作り出している。そこには人権すらない世界といわれていて、上位のパワーで消えてしまっているようである。決して一般的なスポーツの範疇ではなく、旧態依然とした親方をトップにした部屋別のギルド社会で、職人力士集団が勝負の上に成り立っている。多かれ、少なかれ、○○道と称する我が国の武術は、以前にもクラブ活動によるいじめについて述べたところであるが、しごきは当たり前のこととなってきた。
相撲の対戦相手は二日前に非公開で、上部組織で決められ、一部の境界執行部の役員が決めている。誠に恣意的であり、決してフェアーな取り組みでないことは承知の事実である。トーナメントやリーグ戦ではないことで、相撲ファンを意識した一種の興行であることは疑いようがない。
相撲界の不祥事は今回が初めてではない。今回は集団リンチという側面があり、決して見過ごすことはできない。一層のこと数場所を取りやめにし、協会の人事を刷新し、リンチを行ったすべてのモンゴル力士の解雇を視野に入れた懲罰を行わなくてはならないであろう。白鵬の介在も闇の中である。協会のガバナンス力はいずれ暴露されることであろう。
定期的か不定期かはっきりしないが、会員名簿の住所等確認依頼(メール)が届くことがある。誰しも学校関係で、小中高大学、就職すれば企業、同好会や任意グループ等での連絡用に住所録の世話になることもある。しかし、個人情報の保護が叫ばれるようになってから、電話帳に掲載される電話番号、住所氏名は、電話による勧誘の基礎資料になるし、しつこい電話による商品販売や勧誘は、相手の顔が見えないこともあり、一方通行の話をされると、場合によっては迷惑に思うこともある。すでに電話帳への名前や住所の掲載は行っていない。
同様に、ネット通販等で、提供するメールアドレスや、携帯電話番号等についても、情報が不正に利用される問題も発生している。例えば、DVやストーカー、ハッキングによる個人情報の流出等は、思わぬ悪用がはびこる状態を招いている。メールアドレスについていえば、毎日覗く着信の半数以上は迷惑メールとなっている。自動振り分け機能を使用して処理をするものの、アドレスを変えるまでにはいかず、仕方ないとあきらめながら、削除に当たっている。ずいぶんと無駄な時間を費やされている。
高齢者を対象としたオレオレ詐欺も、その被害が伝えられてから久しい。詐欺グループの摘発は公安部署で続いているが、根絶された訳ではない。次々と生まれる新たな手口に驚くばかりである。この問題は、日本人の誇るべき信条を悪用し、巧みに人をだます行為で、悪質であり、だまされる方の問題だけではなく、意図的に外部から流失した個人情報を悪用した例であろう。つまり、電話やメールを利用した悪徳商法で、流出する個人情報を商品化するブラックマーケットが存在しているようである。
今回送られてきた行方不明者のリストを視ると年々多くなっているように思えた。同窓会の住所録自体の存在が、果たして必要不可欠かどうかの判断を迫られる。知人ですでに物故となった方も大勢含まれていたし、最近会員となった方も多くいる。卒業後の就職先には一定の傾向があることから、3~5年で転勤するため、住所録のフォローアップは容易ではないこともわかる。
最終的な判断は、個人の希望に任されるため、会員名簿への変更通知は行わないこととした。個人的に交際している方はお互いに住所や電話番号を知っているので、特段、困ることはないからである。会員名簿の持つ利点と弊害を秤にかけると、メリットより、弊害である潜在的な個人情報の流出に加担したとなれば、将に迷惑行為に位置づけられてしまう可能性を持つようになったのであろうか?
○○改革といわれる考え方や方針にはメリットとデメリットが混在し、傍から見ると良い方向を示唆しているように見えるが、実は先行して解決すべき問題が存在し、その問題が解決できなければ砂上の楼閣であり、意味をなさなくなる。これを誤謬(間違えの意の漢語的表現)、またはパラドックスという。パラドックスとは、一見成り立つように思える言語表現などが、それ自体に矛盾した内容を含んでいて、論理的には成り立たないこと、またはその種の判断のことである。
広義では「逆説」をさす場合もある。張り紙厳禁と書かれた張り紙、いくら力説しても、人間は本来、うそをつかないことはないが、自分は一度も嘘をついたことがないという人間など、周りを見ればこのパラドックスの存在は多くある。
最近の紙上のコラムに、安倍政権が推す働き方改革に関する見出しに「働き方改革のパラドックス」と書かれた短文が掲載されていた。以前、このブログで取り上げたことがある同一労働同一賃金なども合成の誤謬に値すると指摘した。働き方改革が現状の長時間労働を是正する方向を打ち出したことは評価できるところがあるが、そもそも労働と賃金という関係は、突き詰めていくと労働の質と量をどのように測定し、判断するのかという解決が難しい境界問題に遭遇する。
また、女性管理職の男性管理職との割合は、残念ながら先進国の中で我が国は低迷している。この是正措置は、女性の優遇を打ち出せば、男性からは差別発言が噴出する。同様に、正規社員と非正規社員の労働条件を同一視し、同一賃金を払うというのも、一種の誤謬が存在している。労働条件が同一ならば、という前提が矛盾を孕んでいるからである。
さて、コラムの中で取り扱った内容に触れておこう。
(以下引用)新聞社の調査によれば、働き方改革を実施した企業の従業員に対し消費したくなくなった人の割合が、もっと消費したくなったと考える人を大きく上回ったとのことであった。残業代が減った働き手は、まず消費を手控え、その積み重ねは景気にとって逆風となる。企業収益の好転と裏腹に個人消費の停滞が続くと日本経済にとっては皮肉な構図である。
働き方改革に足を踏み入れた以上、後戻りはできない。真の意味で生産性を向上し、労働の参加率を高める取り組みが直ちに伴わないと、雇用慣行の転換も日本経済の再生もあぶはち取らずになる。(一部引用、以下省略)