鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

真玉の夕陽撮影

2017年02月22日 00時00分01秒 | 旅行

 大分県豊後高田市真玉海岸が夕陽の撮影ポイントである。宇佐神宮がある宇佐市までは国道10号線を使い、国東半島の海岸沿いの道(213号線)を、半島を時計回りに入る。豊後高田は昭和の街並みを復元した観光スポットである。ここを通り越してしばらく進むと防波堤にぶつかり、一帯が夕陽の撮影ポイントである。売店があるのですぐにわかる場所である。無料の駐車スペースも完備している。潮の干満では干潮が良く、大潮の時ほど潮が沖合まで引くので、撮影には夕陽が沈む時間に干潮であることが条件となる。もちろん曇天や雨天では夕陽が出ないため不発に終わる。

 

 近隣にある別の撮影スポットは、既に造成が終わり、仕上げの段階であった粟嶋神社がある公園である。縁結びのモニュメント(結)があり、ここも夕陽の撮影が可能である。今の時期、真玉の夕陽は、水平線上に沈むのではなく、対岸の山並みに沈む。干潟に残るいくつかの閉じ込められた海水が作るたまりにも、夕陽が反射し、夕陽がいくつも連なる様子は日本の夕陽百選に選定されている。             

 

 広島から仕事で大分に来て、この地を知り、撮影場所で言葉を交わした。夕日の撮り方を教えてほしいということで、撮影のタイミングを教えることにした。カメラはニコンを持っていたので、暗めに設定し、夕日が沈むに従って光量が落ちるので、徐々に設定をプラス側に変えるとよいと伝え、マイナス2.0からプラス1.0ぐらいの範囲で撮ることを勧めた。ちなみに撮影日は中潮で、時刻は18:00がサンセットの時間であった。

 

 17:45分ごろから撮影を開始した。望遠レンズと標準ズームレンズを持参したが、専ら標準レンズ(18~300mmf3.5~6.3)を使用して撮影を行った。撮影収量は18時を過ぎていて、あたりは薄暗くなっていたし、実家がある大分空港に近いため、山越えの道で帰った。途中、日差しが少ない山の北側は、先日降った雪が凍り、残雪が残っていて、染み出た雪解け水が凍らないうちにと思い、慎重な運転を強いられた。

 

 山道はすれ違う対向車も少なかったが、車の前照灯が上向きの走行は良いとしても、対向車とすれ違う時は下向きとすると一瞬前方が見えない状態が生まれる。特に夜間照明がないつづら折りの道は慣れないと走行が難しい。

 

 観光案内図によれば、大分空港の北側一帯に朝日が水平線上から昇る撮影スポットであることが書かれていた。翌日その場所の探索に行ったところ、沖合にテトラポッドが積まれた波消しブロックと小さな灯台があるが、これを入れての撮影のほうが良いと思われた。次回は朝日の撮影である。


大分の鏝絵

2017年02月20日 00時00分01秒 | 旅行

 鏝絵は左官職人が手掛けた漆喰で形作るレリーフのことであり、古くから行われていたようであるが、一般的に広まったのは江戸時代の終わりと伝えられている。民家の壁や戸袋、農家の母屋や土蔵の妻壁に竜、虎、恵比寿、大国等の七福神等をモチーフとしている。大分では入江長八(1815~1889年)の流れを汲んでいるようで、この職人は、江戸日本橋茅場町の薬師堂建立にあたり、柱に漆喰で竜を彫刻したことによって、全国に広まったようである。

 

 長八はその後、様々な技法を編み出し、江戸の商家等に、彩色を使った鏝絵を制作した。現在各県にあるようだが、大分には日出町、山香町、院内町、耶馬渓町、中津市、日田市、玖珠町、安心院町等に分布している。大分に伝わったのは、江戸時代に日出(ひじ)の出身で左官の修行に江戸へ行き、入江長八に出会った青柳鯉市という職人が地元に帰ってから日出町等県内の各所で広めたようである。

 

 鏝絵にはおめでたいモチーフが多いが、見栄え、流行、芸術性ばかりではなく、子孫繁栄や、商売繫盛、家内安全等を願って家屋の主だった場所に作られている。鏝絵といっても、鏝だけの施工ではなく、竹、銅線、流木等の様々な材料が使われている。

 

 漆喰は牡蠣殻を粉砕し焼成したものに、石灰と海藻海苔を加えて水を入れ、練ったもので、彩色は漆喰に色付け用の顔料である岩絵の具を使っている。赤色には酸化鉄、朱色は丹、藍色はキンベル、浅黄色は藍色に牡蠣灰と鉱滓を加える。黄色は黄土等である。

 

 鏝絵の保存は外壁等に施工されている場合が多く、家屋自体の老朽化とともに、崩れてしまう場合もあるが、、保存は難しいとされている。新たに家屋に鏝絵を作ることは現在ではほとんど行われていない。その意味では、修復や、新たに造形することも困難になりつつあり、今後どのような保存を行っていくのかは喫緊の課題であると言える。職人の養成が何より困難であろう。

 

 今回、別府で宿泊した温泉旅館であるが、白菊であった。別府駅より近い場所で、団体客は見なかったが、受付で案内を行っていた初老の方が、紹介してくれたのが鏝絵であった。玄関ホールには鏝絵が芸術作品として飾られていた。説明書きを見ないと鏝絵であることすらわからない石膏で型取りされたものと見間違うほどのものであった。風神雷神図のレリーフ版である。鏝絵の作家がいることを頼もしく思った次第である。


暘谷城(日出城)

2017年02月19日 00時00分01秒 | 旅行

 暘谷城(ようこく城)は日豊線日出駅より暘谷駅に近い。関ケ原の合戦後の慶長6年(1601年)三万石を与えられて城主となった木下延俊の城である。豊臣秀吉の側室寧々の甥にあたる。さほど大きな城ではなく、3万石といえば加賀の殿様が100万石なので比較にならない大きさである。天守は三重の層塔型であった。城は豊後の国一、二といわれる良港、日出港に臨む崖上の要地に位置していて、台地の南端に本丸を設け、その東・北・西に二の丸、その東側に三の丸が配置され、港に面している。山城ではなく、別府湾に面する海城である。現在は小学校と中学校が城跡に建てられている。建物は取り壊されていて、昔の面影はないが、最近、櫓(やぐら)の再建が行われている。

 

 本丸の取り壊しは明治政府が命令を出して取り壊したのであるが、一部競売に出された櫓があったようで、民間人が落札したものを町が買い取ったようで、移築されている。それなりの類似性はあるが、建てたばかりのようで、自分には興味半減であった。

 観光用の資料等の展示が行われていたが、むしろ、城を囲む旧家の武家屋敷跡などは、そこそこであり、近くの的山荘ぐらいが良いかもしれない。ここの和風庭園は素晴らしいもので、別府湾を借景に見立てた3500坪の庭園である。馬上金山で財を成した成清氏の別邸であったところで、現在もその末裔が日本料理屋を開いている。現在は、庭園の方の手入れは町の方で手掛けている。自分が大分に赴任しているときには何度か利用したことがあるが、その時は、日本庭園は一般に開放されていなかった。今から7~8年前に一般への無料での開放がされたと従業員から聞いた。

 

 この場所は、海水と湧き出す水との吃水にあたり、「城下カレイ」が生息している。それがこの地の名物料理となっていて、専門の料理屋も数軒が点在している。味が淡白で、魚臭さがないためか、刺身、てんぷら、焼き物、煮物、吸い物、等のフルコースともなれば万円札が飛んでしまう。以前は的山という名の清酒がふるまわれていたが、現在は作っていないとのことであった。残念である。

 

 暘谷城は滝廉太郎とも関係が深いようで、廉太郎が学生時代帰省で何度か父親が住んでいた日出城武家屋敷内で暮らしていたようで、竹田市にある岡城で作曲したとされている「荒城の月」も暘谷城の石垣のイメージと重なっていたようで、定かではないが、日出町も関係性を言うようになっている。どちらにせよ、そのような元祖まがいの話はあまりためにならないし、興味も湧かない。


大神回天訓練基地訪問

2017年02月18日 00時00分01秒 | 旅行

 短期間であったが、女房の実家へ帰省した。いくつかこの機会を利用して行ったことがある。その一つに以前ブログで紹介した日豊線大神駅から車で10分ぐらいに位置する大神訓練基地である。現在は回天記念公園が整備され、そこに人間魚雷回天の実物大模型が展示されている。基地全体は牧ノ内、深江という海岸に面した地区にあり、100ヘクタール以上の広大な面積を有していた。昭和16年から17年にかけて建築予算が成立し、大型戦艦や空母の建造可能な大神海軍工廠の建設予定地であった。昭和18年9月1日山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島に、大津島回天基地が開設され、以降、光回天基地、平生回天基地が開設された。

 

 大神海軍工廠建築予定地の一部が、回天特攻の基地として転用され、17年秋から牧ノ内一体を中心に基地建設が着手された。昭和20年4月25日、突撃隊指令、山田盛重大佐以下、兵員2000名の構成による大神回天基地が開設された。基地内施設は舎屋51棟、本部、神社、魚雷調整場、変電所、浄水場施設、酸素圧縮ポンプ室、魚雷調整プール 燃料格納壕 回天格納壕等が整備された。また、トロッコ軌道もあったようである。

 

 では、どうして人間が操縦する魚雷が誕生したかは正確の資料をみたわけではないが、真珠湾攻撃で米国との直接対戦に発展した太平洋大戦の劣勢を回復しようとした黒木中尉と仁科少尉の提案で、九三式魚雷を改造し、自らが操縦する肉弾戦は軍部により一度は却下されたようであるが、採用され、伊号型潜水艦の甲板に搭載される方式であった。トラブルも多く、帰還者も多い。終戦までに28回出撃し、回天作戦の戦没者は104名、回天整備員、搭載潜水艦の乗組員合計1073名であり、平均年齢は20.8歳であった。残念ながら回天作戦による成果の確認はできていない。

 

 回天の性能は、全長14.75m、直径1m、全重量8,300kg、速力30ノット、航続距離23km、10ノットで70km、頭部炸薬1,550kg、燃料酸素・白灯油、搭乗員1名、エンジンの出力は550馬力である。

 

 船体は頭部、胴体、九三式魚雷三型で構成。回天の安全潜航深度は80mで、搭載潜水艦が100mであったが、改良されていなかった。大神基地に配備された回天は下部ハッチがなく、陸上からの発進が想定されていた。大神基地での訓練は、別府湾で行われ、着底した海鷹(元あるぜんちな丸)という小型空母)をターゲットに使用していたといわれている。訓練用回天は16基あったようである。訓練時点の搭乗員は2名一組で行われていた。幸いなことに大神訓練基地からの戦没者は自殺者1名をのぞき、一人もいなかった状態で終戦を迎えたことである。

 

 


芭蕉の旅会合

2015年11月13日 00時00分01秒 | 旅行

  芭蕉の足跡を訪ねる会のメンバーが新宿で集まった。少し早めの忘年会を兼ねてであったが、前回山形を中心としたレンタカーでの2泊3日の旅は今に至るまで反省会を行わなかった。その反省会も議題ではあったが、既に5ヶ月が経過しているため、まだらの記憶ではお話にならない。1名が新たに加入した。自分を入れての4名の会合であった。

 

 午後3時の新宿駅の待ち合わせは、いつものことであり、待ち合わせ時間の15分前には全員がそろった。平日の3時でも居酒屋は満席の状態であった。予約席の確保は難しかったが、店長の機敏な判断で、客が来る前までは可能となり2時間半の約束で席を使うことが出来た。そのことにも驚いたが、お客の大部分は我々と同年代で、既に盛り上がっているグループもあった。やはり新宿といったところか。

 

 決まって話となるのは同期の近況である。横の連絡はほとんどないようで、皆息災ということで乾杯のビールから始まった。最初は、山形の話も出たが、既に金沢、富山、佐渡は回っているので、次回は芭蕉が逝去した大垣を中心にしたコースになることは分かっていたが、次回で完結となるとどうも淋しいため、浮気心というか、ぼっぱら大垣の他の地のことが話題となった。新たに加わった友人が長く暮らした高知や四国の旅が候補に上がり、とりあえず、友人に計画作りを依頼することとなった。

 

 四国は何度か行っている。高知でカツオと皿鉢料理を食べ、司ボタンや土佐鶴は昔から銘酒であり、飲み助には大変結構な話である。四万十川にも足をのばせば、詩情豊かな四国を満喫できる。友人の話によれば、知人も多く、後3年ぐらいは鼻薬が効くといっていた。この友人は大学卒業後、宗教団体の方で施設長を行っていて、他の3人と異なり、経路の異なる経験を持っている。酔っぱらったときでなければ聞けない話も披露してくれた。

 

 約束した時間となり、席を変えることにし、ビルの地下にあるビヤホールへ行くことにした。宗教の話は、通常御法度と心得てはいるが、疑問が多く、精神の世界は奥が深い。どちらかというと自分は無信心の一人であり、どう考えても信心深いとはいえない。自然科学の世界を歩んだためかも知れないが、目に見えない世界はどうも苦手である。しかし世界中の信仰の世界を見れば、無宗教であることの方が少ないのであろう。見えない世界が存在しないとは断言できないことも確かなことで、精神の葛藤は堂々巡りであり、しばらく悩ますことになるであろう。


おくのほそ道(4)山形その4

2015年06月18日 00時00分01秒 | 旅行

「友人中道敏彦氏紀行文の投稿です」

(4)酒田、湯殿山

  酒田海鮮市場でづけ丼の朝食をとって、9時に日和山公園に行く。鶴岡から舟で酒田に着いた芭蕉が舟を下りた所で、公園の脇に芭蕉道がある。公園は川沿いの街中にあり、よく整備されていて気持ちが良い。日枝神社を見て、公園の中心部の高い所にある芭蕉像と2つの句碑を見る。

      暑き日を海にいれたり最上川

      あつみ山や吹浦かけて夕すずみ

公園の展望台から最上川の河口を見渡すことができた。

 30分ほど公園にいて、月山道路で山形に向かう途中、湯殿山を見学する。湯殿山の分岐点から山に入ると、道端にまだ雪が残っており、天気も小雨が降りそうである。10時45分、湯殿山バス停に到着、丁度本宮行の専用バスが出発するところだった。バスは細い道をくねくね登って1㎞、約5分で本宮下に着いた。

そこから少し歩いた所が本宮である。周りの山は傾斜が強く、谷筋に雪が残っていていかにも険しい感じがする。

 湯殿山から約1時間で山形駅に着いた。駅ビルで相変わらずのざる蕎麦を食べて、2時過ぎの「つばさ」で帰途についた。

 今回の旅は、いわばおくのほそ道の最難所をめぐる旅であり、われわれもその一部を楽しむことができた。旅をして思うのは、視点を変えれば新しい発見があるということである。芭蕉も見たであろう、というだけで風景が違って見える。

それにしても気心の知れた友とのわがままな旅はいいものだ。M君、A君、今回もありがとう。


おくのほそ道(4)山形その3

2015年06月17日 00時00分01秒 | 旅行

「友人中道敏彦氏紀行文の投稿です」

(3)最上川・羽黒山

 ホテルの朝食はわれわれ3人だけで静かなものだった。今日はいよいよ最上川と羽黒山を訪ねる日である。天気が良いのが嬉しい。8時10分に出て、8時半に芭蕉たちが舟に乗った本合海(もとあいかい)に着いたが、乗船場所は特定できず、対岸に八向楯という岸壁と神社が見えるところに駐車して、しばし河の流れを眺めて楽しんだ。朝日を浴びた最上川は清々しく、豊かに流れていた。

      五月雨をあつめて早し最上川 

という芭蕉の名句が口をついてでた

 そこから川沿いに47号線を西に走る。新緑が鮮やかで美しい。最上川は日本3大急流の一つに数えられ、途中には険しさわ増すところもある。やがて雪を頂く月山が見えてくる。のびのびとした山容である。芭蕉が舟を下りた清河から47号線を離れ、羽黒山に向かう。羽黒山に近づくと、多くの宿坊が軒を連ねて立ち並んでいる門前町手向(とうげ)に入る。宿坊の軒には魔除けの綱が掛けられている。そこを通り抜け、さらに山道を進んで10時に羽黒山の神社に着いた。

 羽黒山、月山、湯殿山のいわゆる出羽三山は、古くより山岳信仰の地で、羽黒山は稲倉魂命、月山は月読尊、湯殿山は大山祇命を祀っていたが、後に修験道の聖地になったのでにある。

 芭蕉は6月3日に羽黒山中腹の南谷別院に入り、5日に羽黒山、6日に1979mの月山に着き山頂近くの行者小屋に泊り、7日に湯殿山を参詣し、このルートを往復して9日に下山している。大した健脚ぶりである。この間、各所で次の句を作っている。

      涼しさやほの三日月の羽黒山

      雲の峰いくつ崩れて月の山

      語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 われわれは先ず、出羽三山歴史博物館を訪ねた。ここには、仏像、銅鏡、経筒、修験道法具などが展示されていた。その後、三社合祭殿を見学した。三社合祭殿というのは、冬季に訪れることが困難な月山、湯殿山の神様をここに合祭しているのである。この巨大な萱葺の建物は重要文化財になっている。そこから少し車で移動して、本来の神域の入口である隋神門から参道を歩いて国宝五重の塔を見に行く。参道の石段は杉木立に囲まれ静かである。五重塔は承平年間に平将門により建立されたとされるが、その後、焼失、現在の塔は長慶天皇の文中年間(約600年前)に庄内藩主だった武藤政氏の再建と伝えられている。高さ24mの優美な姿で国宝に指定されている。

 昼前に羽黒山を出て鶴岡に向かう。12時に鶴岡着。A君の強い希望で城跡にある藤沢周平記念館に行く。周平ファンのわれわれも異存はない。記念館には多くの自筆原稿があり、書斎が再現されていた。近くの蕎麦屋暫忻亭でうまいざる蕎麦を食べ、庄内藩の藩校致道館を見学して、2時に酒田に向け出発する。途中で加茂水族館に立ち寄る。くらげの展示で再生した水族館である。そこから海の向こうに鳥海山がよく見えた。

 3時半、酒田に着いた。魚市場を覗いて、ホテルに入る。昨日と同じような名前の酒田グリーンホテルで、川をはさんで山居倉庫と向き合った場所にある。6時、食事処を探しながら街を散策し、入った店は「笑快晴」という小さな店だったがなまこ、かさご、ふぐなどどれも美味かった。酒は初孫・魔切、すっきりと美味い。すっかりいい気分になった。


おくのほそ道(4)山形その2

2015年06月16日 00時00分01秒 | 旅行

「友人中道敏彦氏紀行文の投稿です」

(2)堺田・本庄

  3時に尾花沢に別れをつげて、28号線(県道最上尾花沢線)を尿前に向かう。道は丘陵地帯を北東に走っている。周りは新緑の森であり、夏の訪れも東京より1ヶ月くらい遅いようだ。やがて道は山間の谷に沿って走り、山に近づくにつれ風雨が強くなった。山刀伐トンネルを抜けた所から山道に入れば、山刀伐峠の頂に行けることはわかっていたが、雨風に押されてそのまま通り過ぎた。気温は11℃。とても寒い。連日夏日の東京都は大変な違いだ。

芭蕉たちは、この峠を越えるにあたって案内人を雇っている。案内人は脇差を差し、樫の杖を持つ屈強な若者で、「高山深々として一鳥声聞かず、木下闇茂りあひて、夜行くがごとし」という山中を進む。そして無事通過できたことを歓び別れるのである。

赤倉温泉を通り抜けて、国道47号にぶつかって東に向かい、4時ころJR堺田駅近くの封人(ほうじん)の家に着く。芭蕉たちは、鳴子温泉から伊達藩尿前の関にさしかかり、旅程を変えたために手形を持っておらず、通行の許可に時間を費やした。日暮れになって堺田に着き、封人の家に泊めてもらうことになったのである。封人とは藩から委嘱されて国境を守る役人で、代々土地の庄屋である有路家が担っていた。住宅は当時のまま残っており、重要文化財になっている。10~15畳の畳の間が3部屋、納戸、囲炉裏のある広い板の間、そして土間、馬屋がある。何といってもここが有名なのは、芭蕉の次の句によるだろう。

     蚤虱馬が尿(ばり)する枕もと  

 われわれは、管理人さんの勧めのまま、囲炉裏を囲んでこの地の話を聞いた。話によると今日の来場者は6人とのこと。山刀伐峠の名前の由来は「なたぎり」という古くからある帽子をかぶった時の前後の傾斜が山の形に似ているためとのこと。馬の尿はばり、いばりと言われていたことなどである。

 管理人さんにコーヒーを飲ませてもらって、4時半に出発する。尿前の関所跡は近くだが省略し、新庄に5時半に到着する。グリーンホテル新庄。ホテルは古いが支配人は人が良い。ホテルの向かいの料理屋「山葵屋」で乾杯。出羽桜・一耕が美味かった。


おくのほそ道(4)山形その1

2015年06月15日 00時00分01秒 | 旅行

 「友人中道敏彦氏の投稿です。」

 平成27年6月4日、正午前に山形駅に到着し、レンタカーに乗り込んだ。山形はやや肌寒い。今回も男3人連れ、2泊3日の旅である。

 芭蕉と曽良は中山越出羽道で、仙台藩尿前の関を越え、出羽の国に入り、山刀伐(なたぎり)峠から尾花沢に入り、立石寺を訪問しているわけだが、われわれはこの箇所は逆コースをたどり、酒田を目指すことになる。

 

(1)立石寺・尾花沢

 

 宝珠山立石寺まではすぐである。1時頃到着した。時折、霧雨が降りてきて風があり寒い。気温は14度。山寺という通り名で知られるこの地は、是非訪問したらよいと土地の人に勧められ、芭蕉も尾花沢から山寺、大石田と往復している。創建は貞観2年(860年)、開山は延暦寺第3代座主、慈覚大師円仁とされる天台宗の古刹である。駐車場から見上げると遥か上方の岩山の上に、寄りかかるように堂塔が建っているのが見える。そこに至る階段は1015段あるそうだ。

 芭蕉は山寺で、有名な次の句を作っている。

     閑さや岩にしみ入蝉の声 

ところで今日は風が強く、雨模様である。蝉の時期にも早い。そんなわけで、開山堂、五大堂、奥の院などのある山頂へ行くのはやめて、根本中堂などを見物した。本尊は薬師如来である。僕は10年ばかり前にこの地に来たことがある。8月のくらくらするほど日差しの強い日で、山頂まで行く階段は蝉しぐれに包まれていた。

 山寺から北上して、1時間ほどで尾花沢に着いた。かつては交通の要衝だったというが、散閑とした街である。2時30分、表に芭蕉の像がある鈴木清風歴史資料館に入る。鈴木清風は尾花沢で金融業、紅花などの取引をする豪商で、芭蕉とは江戸で面識があった。芭蕉は清風のことを「彼は富める者なれども、志いやしからず」と述べている。資料館は江戸末期の商家をここに移築したものであり、中には芭蕉との交流を示す資料の他、江戸時代の生活を示す資料が展示されている。芭蕉作とされる竹の花立、4千余両の貸し出しの証文などが僕には興味深かった。

 芭蕉が尾花沢に着いたのは、元禄2年(1689年)5月17日(新暦7月3日)のことである。不自由な堺田での3泊、そして危険な山刀伐峠を越え、ほっとした芭蕉は、清風とも再会し、くつろいで次の句を作っている。

      涼しさを我宿にしてねまる也

      這出でよかいやが下のひきの声

      まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花  

「ねまる」は、「くつろぐ」の方言で、風の通る部屋でくつろいでいると、自分の庵にいるような気がする、というものである。芭蕉は尾花沢に10泊している。


瀧廉太郎と暘谷城

2015年04月02日 00時00分01秒 | 旅行

 荒城の月で有名な瀧廉太郎は明治12年東京で生まれ、23歳10ヶ月の若さで逝去するが、遺骨は、大分市の万寿寺に葬られたが、平成23年に、瀧家の墓所がある大分県速見郡日出町の龍泉寺に移設されている。

 

 瀧廉太郎の一族は、11代、260年に亘って、日出藩に仕えている。日出藩は、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、豊臣秀吉の正室ねねの甥に当たる木下信俊に日出藩を与え、築いた日出城を中心とした城下町を形成していた。既に城は取り壊され、城跡となっていて現在は小学校がその地にある。城は別名暘谷(ようこく)城といっていた。

 

 瀧廉太郎の一族が日出藩に対して行った貢献については割愛するが、廉太郎の父の生家が暘谷城内にあったことは生家跡があるので間違えないことである。瀧廉太郎が、父親の生家や、墓所へ参ったのは自然であり、暘谷城についても当然知っていたと思われる(日出の人 楽聖 瀧廉太郎パンフレットより引用)。

 

 竹田市にある岡城趾が、荒城の月の舞台であったと記憶しているが、日出町のガイドマップを見ると、日出町にゆかりがあるとしている。父親の吉弘は役人で、大分郡の郡長や、直入郡長を務めていた、廉太郎は竹田市から東京音楽学校に入学した。そうであれば、岡城趾に廉太郎の銅像が建っているのも納得がいく。日出町が町おこしのために瀧廉太郎と暘谷城とを結びつけることについての明確な証拠はない。暘谷城との関連は岡城趾とダブルところはあっても、既に無くなってしまった本人、瀧廉太郎の作曲に至る世界が再現できるわけではない。

 

 日出町観光協会が今後、十分な根拠となる史実を明確にされることを望んでいるが、喩え、想像の世界と断ったとしても、紙面に表示されると真実ぽくなって、一人歩きしやすい。

 

 日出町とフランシスコザビエルとの関係は、当時、山口にいたザビエルが、大友宗麟の招きで暘谷城近くの青柳港から大分に向かった記録がある。馬上金山の採掘で財を成した成清博愛の愛妾宅が暘谷城内にある的山荘である。歴史の真実は闇であるが、日出町には歴史研究の対象としておもしろい場所である。


3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その5

2013年06月18日 00時00分01秒 | 旅行

(4)殺生石
 まだ時間があるので、予定外の那須湯本まで足を延ばすことにする。雲巌寺から約1時間で那須湯本に着く。東北道を境に東は田園地帯、西は山地の感じがする。車窓から見える那須岳も良く晴れている。山に近づくにつれ雑木林の新緑が美しい。我々はカーナビに方向を教えてもらいながらの旅であるが、芭蕉たちはこの広い山地を彷徨するように歩いたことだろう。時間的にも、体力的にも精神的にも大変だったろうと思うことしきりである。
芭蕉は道中、館代から馬に乗せてもらった馬子の求めに答えて

   野を横に馬引き向けよほととぎす

と詠んでいる。

 那須湯本温泉神社の奥にある殺生石は玉藻の前、実は金毛九尾の狐のなれの果てとして知られている。謡曲「殺生石」は、昔、鳥羽院に仕えた玉藻の前が天子を病気にしたが、化生のものであると見破られ、那須まで逃げてきてここで殺されその執心が石になり多年人を殺めてきたが、旅の僧の供養により悪事をしないと約束して消える、という話である。硫黄の臭いがたちこめる石のごろごろした河原の奥に大きな岩があるのが殺生石である。「おくのほそ道」には所収されていないが、そこに芭蕉の次の句碑があった。

  石の香や夏草赤く露あつし

 良い天気で帰るのが勿体ないようだったが、車の混まないうちにと一路、帰宅。登戸駅に16時半に着いた。M君運転ありがとう。楽しい旅行だった。(このシリーズ最終回です)





3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その4

2013年06月17日 00時00分01秒 | 旅行

 芭蕉たちはこの黒羽で14日間の長逗留をしている。黒羽藩城代家老、浄坊(法)寺桃雪とその弟桃翠が温かくもてなしてくれたことと、雨が多かったことによると考えられる。その浄法寺桃雪宅跡はすぐ近くにあり、「おくのほそ道」には入っていないがこの地で芭蕉が詠んだ句の句碑がある。

   田や麦や中にも夏のほととぎす
   山も庭に動きいるゝや夏座敷


黒羽にはこの他、多くの句碑があるらしい。修験光明寺跡には、役行者の高足駄に旅の無事を願って詠んだ次の句碑があるという。

  夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉

今日の旅は、芭蕉たちが歩いた時期とほぼ同じで、今朝もホトトギスが鳴いていたし、麦も熟れていた。「夏座敷」の句は桃雪宅に来た挨拶句である。宅の跡は植木が植えられ、紫色の石楠花が咲いていた。

 雲巌寺(大田原市雲岩寺27、0287-57-0105)はさらに丘陵地帯を東にしばらく進んだ山中にある。バス便もあるようだが車なしではとても不便な所だ。芭蕉は「雲巌寺に杖を曳けば、人々友にいざなひ、若き人おほく道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼の梺に到る」と書いているが、とてもそんな簡単な距離とは思えない。昔の人の健脚ぶりがよくわかる。我々は11時にここに着いた。ここは芭蕉の禅の師、仏頂和尚が庵を結んだ所である。山門の下には赤い橋がかかった川があり、一見して幽玄な風情を醸している。山の斜面に建てられた臨済宗の古刹は観光の寺ではないと書かれており、清潔、静寂に包まれ好ましい。芭蕉はここで

   木啄も庵はやぶらず夏木立

と詠んでおり、句碑がある。仏頂和尚への敬意が感じられる。(次回へ続きます)







3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その3

2013年06月16日 00時00分01秒 | 旅行
3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その3

(3)黒羽
 5月31日。金曜日。今日は雲一つない快晴である。4時半、土手に棲むキジの「ケーン、ケーン」と鳴く鋭い声で目が覚める。サッと朝風呂を浴びて、朝食の後、8時過ぎにホテルを出る。
那須神社(金丸八幡宮、大田原市南金丸1628、0287-22-3281)はそこから車で15分ばかりの所だ。ここは4世紀の仁徳天皇時代の創建とされ、延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂が東征に来た折、宇佐八幡宮の分霊を勧請し、金丸八幡宮としたという。おくのほそ道に「与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも此神社にて侍と聞けば、感應しきりに覚えられる」とある。長い参道を持つ神社は成程、立派である。少し剥落しているが美しい色彩で飾られた門構えも堂々としていて、片田舎の神社とは思えない。。参道の石橋には濡れた苔ですべらないよう筵が敷きつめられていた。人気のない静かな神社は雰囲気があった。

 そこから車で20分ほどのところにある「黒羽芭蕉の舘」と浄法寺桃雪邸跡に行く。ここはかつての黒羽城の敷地で、那須神社から東に向かって行き、那珂川を越えた高台になっている所で、現在は城址公園に隣接する。芭蕉の舘(大田原市前田980-1、0287-54-4151)の前庭には馬に乗る芭蕉と歩く曽良の像、および曽良が詠んだ

   かさねとは八重撫子の名成るべし

という句を含む「おくのほそ道」の文学碑がある。芭蕉たちが那須野に入って農夫から馬を借りたときに、馬の後を追って走ってきた子供が二人いて、ひとりは「かさね」というやさしい名の少女だったため、曽良が一句詠んだのである。館内にはとりたててこれというものは無いが、芭蕉たちの足跡がパネル展示されている。また、部屋続きで黒羽藩主大関家伝来の甲冑、刀剣などの資料展示もある。(次回へ続きます)






3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その2

2013年06月15日 00時00分01秒 | 旅行

(2)日光
 そこから日光に向かう。雨はいよいよ本降りになってきた。途中のサービスエリアで蕎麦を食って、日光に着いたのは12時半であった。日光は中学校の卒業旅行以来である。雨の中、輪王寺、東照宮、二荒山神社をめぐる。東照宮(日光市山内2301、0288-54-0560)はやたらと金箔が眼についた。見ざる、言わざる、聞かざるも、鳴き龍も見た。杉も大きく立派だった。途中から雨が本格化して、かなり強い雨になったが、小学生たちも沢山見物に来ていた。駐車場への帰り道M君が石段ですべって脚のひざを打って心配する。

「おくのほそ道」によると、日光で芭蕉と曽良は、
   あらたうと青葉若葉の日の光   芭蕉
   暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初
   剃捨て黒髪山に衣更       曽良

と詠んでいるが、今日のこの雨では裏見の滝は行けないし、黒髪山(男体山)も見えない。
そんな訳で、一路、大田原の宿泊先に向かう。大田原まではほぼ2時間を要した。日本のどこにでもありそうな田園地帯である。家もまばらで田舎に来た感じがする。われわれ3人とも歴史や俳句に深い教養があるわけではない。いわば思いつきで芭蕉たちの歩いた道を追体験しているのだが、こんなことでもなければ大田原や黒羽に一生来ることは無いだろう。

 今日の宿泊先は大田原城跡(龍城公園)に隣接したホテル龍城苑(大田原市中田原593-3、0287-24-2525)である。3人1部屋である。早速、大風呂に入る。我々3人だけしかおらず、露天風呂も気持ちがいい。湯は単純アルカリ温泉で肌がつるりとする透明ないい湯である。ホテルは蛇尾川(さびがわ)沿いに建っていて、ホトトギスはじめ鳥たちの鳴き声が良く聞こえる。仲居さんに大田原の名所や特産品を聞いたが、とくにこれといった物がないという。

 夕食時に大田原の酒を飲む。一つは渡辺酒造の「大吟醸 旭興」と、もう一つは天鷹酒造の「純米大吟醸 天鷹 心」である。酒を選ぶのはいつもA君である。どちらも比較的さらりとして、飲みやすい。どちらかというと天鷹の方が美味かったが、欲を言えばもうすこし味にふくらみがあっても良い。芭蕉は好んで酒を飲んだのだろうか。(次回へ続きます)



3G散歩(2)日光、黒羽、那須 その1(5回シリーズ)

2013年06月14日 00時00分01秒 | 旅行

 5月30日、木曜日。9時前に小田急線の向ヶ丘遊園駅に集合して、一路、栃木に向かう。いよいよ「おくのほそ道」の旅がはじまるが、今年は例年より10日ばかり梅雨入りが早く、ちょうど今日梅雨入り宣言が出されたばかりで、あいにくの天気である。M君の車で快調に飛ばして、東北道の栃木IC10時50分、そこから高速を降りて大神神社に向かう。途中で麦が実っている畑を見た。麦秋である。

(1)室の八島
   行く春や鳥啼き魚の目は涙
と芭蕉たちの辿ったとおり、深川から千住まで船で出て、草加、春日部、小山を経てこの大神神社(おおみわじんじゃ)に着くのも良いのだが、この間は大して見る物もない。そんな訳で、現代人の我々としては、途中をはしょっていきなり室の八島(大神神社)からスタートしたのである。

 大神神社(栃木市惣社町477,0282―27―6126)は奈良県桜井市の大神神社(大三輪神社)の分霊を祀る神社で、従って、倭大物主櫛玉命(やまとのおおものぬしのくしみかたまのみこと)が主祭神になっている。雨がぼそぼそ降る中、杉木立に囲まれた神社はさびれた感じがするが格式がある。ここは下野の惣社として知られていた所で、室の八島として知られていたこの地に、崇神天皇48年(BC49年)に豊城入彦命が東国平定のために来た折、勧請したとされている。その後、平将門の乱、戦国時代の北条氏直による焼失を経て衰退していたのを徳川家光の援助で再建されたという。

 境内には池があり、池に8つの島があって木花咲耶姫命ほか7神が小さな祠に祀られている。その八島の前には、曽良が「俳諧書留」に記した芭蕉の句の句碑が建っている。
   いと遊に結びつきたるけふりかな
室の八島は、木花咲耶姫が一夜でニニギノ命の子を宿したと言うので、身の潔白を証明するため四方を塗り込めた室に火を放った中で三柱の命を産んだ、ということに由来し、煙と関係が深い。いと遊とは陽炎(かげろう)のことである。(次回へ続きます)