何度も登場するカワウですが、、自分はこのとぼけた仕草が好きです。
自分のことで申し訳ないが、今年を振り返り、ブログを継続できたことである。途中所用で出かけたことがあり、その間は失礼してしまった。しかし、ほぼ360日を写真の掲載と拙いエッセーを書き続けた。過ぎてしまうとその蓄積量は膨大な物となる。教訓とすれば、毎日欠かさない僅かなことが、年間を通すと大成する物であることを改めて気づく次第である。
野鳥写真は、ほとんどが多摩川に飛来する野鳥で、これは相手任せ、中には留鳥で、同じ場所をテリトリーとしている鳥がいるが、四季それぞれ、異なる種類が見られるのは続けていることで、日々の若干の変化は変わらないが、振り返って見ると、さほど多くない鳥が居住地と決めているからであろう。元気な姿を見るとこちらも安心する。
良く、自然にとけ込めといわれ、服装等迷彩色にするなど、目立たぬ姿をするが、人の気配を敏感に感じる野鳥の目はごまかせない。寧ろ自然の一部となり、人間の動作を意識しないことだと思う。当然、鳥との距離を保ち、接近しないことである。その意味では、集団での撮影会は好ましいとはいえないであろう。適度な間合いというか、さりげなさが、野鳥を驚かせない工夫の一つであろう。
エッセーの方は、新聞の熟読を毎日欠かさずに行っているが、読んでいく内に自分が経験したことと結びつけ、昔を思い起こすことをしている。意味が不明な活字や表現は、パソコンで検索し、その真の意味を探る努力はしてきた。テーマが同じでも切り口や、物の見方によって、出来るだけ感動の強い物を取り上げてきた。作家でもないので、泥臭い話となる場合もあり、出来るだけ一日おいて読み返し、修正をしてから投稿している。一見話題には事欠かないように見えるが、変化が多く、素材が多くあるわけではない。外部からの情報移入はもっぱら、市民アカデミーの聴講による受け売りに過ぎない。
とはいえ、書いている内に、論点が変わる場合もあり、言葉足らずで誤解を生じさせる部分もこれありで、寧ろ話題提供というきっかけを生むことが出来れば、それはそれで良しとしたいと、勝手に思っているところである。答えを求めるのではなく、あるべき姿を追求し続けることの方が意義深いと感じている。所詮、世の中十人十色で、移ろいの中での答えは何通りもあって当然とするスタンスである。ただし、自分なりの論理を展開し、筋は通して行きたいと思っている。
平和な世の中であってほしいと誰もが願っている反面、そうではない世界が暗躍した年でもあった。現在も戦闘状態が継続し、多くの難民が生まれている。シリア・イラク地域に登場した武装集団である「IS]イスラム国と名乗る集団で、そもそもは、イスラム教の原理主義ともいえる、極端な思想を持つ集団といえる。日本人ジャーナリストが取材のために隣国のトルコ国境からシリアへ入国して、イスラム国に拉致され、交渉を行ったが、残念ながら、失敗に終わり、斬首されたという悲惨な結果となったことである。
戦争目的が明確ではないが、ベースにはキリスト教・イスラム教等の根深い宗教対立があり、同じイスラム教においても教義の違いによってシーア派、スンニ派の対立がある。
埋蔵する石油掘削による利権争いも関係しているようで、古くから国境を持たない遊牧民との対立等が複雑に絡んでいるといえよう。中東が不幸にも第二次大戦後の先進国の思惑による国境分断されたことが関係しているとの見方もある。イスラム国の戦闘員についても、イラン・イラク戦争に従事したタリバンや先進国からの参加者(傭兵)も多いようである。イスラム国が、既存のイスラム教とは無関係であるとの声明も出されているが、資金の出所等不明な点も多い。
イスラム国をテロ集団とし、対抗する米国が中心となり、有志連合として多くの国が参戦状態となり、現在も継続している。自爆テロという手段は、民間人になりすまし、自らが身体に巻き付けた爆弾を爆発させるという。何ともむごい戦術を使う戦いである。戦争がもたらす結果は参戦した双方にとって、どちらにも得となることはなく、尊い命が犠牲となる。
戦争の火種は領土問題にも関係する。我が国にとって、韓国との間で、魚釣り島の領有権が侵されているし、中国とは尖閣諸島の帰属問題が尾を引いている。また、中国が、南シナ海や東シナ海への海洋進出する動きも火種になる様相が見られる。政治的な問題として、紛争を解決する努力が求められている。
世界はグローバル化が進み、どの国も単独で生きていける状態ではなくなりつつあり、二国間の交流だけではなく、多くの国を相手とする信頼関係の醸成がますます必要となってきている。人の交流ばかりではなく、異なる文化や風俗習慣が、情報として瞬時に世界中を駆けめぐる時代である。お互いを尊重し、異なることを前提とした対応のあり方についても個々人が変わらなければならない状況となっている。些細なことに目が奪われ、世の潮流に逆らっては生きてはいけないことも事実である。我が国に何が出来るのかが問われている。
1年間の区切りであるのは365日という、12ヶ月間が過ぎた結果であるが、過ぎてみれば、毎日の、又は毎月の延長にすぎない。この間の行動の反省は翌年の計画に大いに関係する。毎年同じようであっても、移りゆく時間は過去には戻れない。同じ時が再び訪れないことで、その時点々が大切であることが分かる。では、どのように暮らしていけばよいのであろうか、日々の繰り返しは必ずしも同じではないことであるとの認識を持ち、新たな日々を過ごしていくことが望まれる。
古人は年という単位を地球の自転から導いた。太陽が固定されていて、丁度丸1年掛かって地球が太陽を一回りするという周期があることを発見したことによる。その判断に至るまでは地動説が幅をきかせていた。近年の宇宙開発における多くの発見は地球という星の存在が大変希な星であり、宇宙という広がりの神秘性を導いた。宇宙の果てはという疑問も、膨張し続けている宇宙の規模や大きさを実感できない不思議さを伴っている。未だ人知では分からない世界にまで踏み行っているのであろう。
人間の知能の限界が垣間見られることである。いずれは何らかの結論を得ることが出来ると思えるが、人類が生存してきた時間と、宇宙がビッグバンによって誕生した時点からすれば、ほんの瞬間に過ぎない。現在という時間尺度も、人間の生活パターンに合わせたに過ぎず、世の中で起こっていることの時間尺度とは、果たして今のままでよいのか、宇宙時間との違いが明らかにもなるであろう。
自然のコントロールが、人による制御下にあるのは一部の現象に過ぎないことは、明白である。地震や台風の被害、火山の噴火・火砕流等ではその予知すら不可能であることが明らかになっている。大先生が構成する○○予知学会なる組織の信憑性は、期待に反し、予知が不可能であることが明らかにされた年でもあった。温暖化しているとか、海水面が上昇しているとかの情報は根拠が曖昧であり、多くの説に惑わされている。
特に話題となった事柄に、東京へのオリンピック誘致に関するエンブレムのパクリ問題と、マンションの基礎杭データ流用問題であった。エンブレム問題は真相がはっきりし、再スタートとなったが、建設業界全体を巻き込んだ基礎杭は未だ調査中でもあり、建築業界への信頼性は解消していない。
情報の量が膨大になるとともに、真実は何であるかが見えにくくなり、人々を疑心暗鬼にさせる年でもあった。所詮、狭い世界との出来事とはいえ、真実のあり方が問われた年であったと感じている。
多くの日本人が信仰する宗教は、神道と仏教であろう。普段はさほどご縁が無くても、心のどこかに居座っている。毎日の礼拝を心がけ、実践されている方も多い中、自分のようにほとんど何もしない部類にはいると思っている。年に一度ぐらいは神様と仏様となった親族の住まいの掃除を行うことにしている。神棚と仏壇の掃除である。
神棚は寝室にあり、東を向いている。小さな檜の社に、天照皇大神宮のお札があるだけで、ことさら派手な飾りはない。以前仏具屋で購入した物である。榊は年に正月1回限り、このときは重ね餅と水、白米を差し上げている。寧ろ、仏壇のほうが切り花をあげたり、命日には線香を上げているし、お盆にもそれらしき所作を行っている。その程度で別によいとは思っていないが、気持ちの問題としてご勘弁願っている。
神棚はあっても地元の神社とは無縁であり、どこかに属しているわけではないし、仏教徒としても、特定の寺院の檀家ではない。父親は大家族の末っ子で、従兄に当たる長男は群馬にある九品寺(くほんじ)という真宗の檀家を引き継いでいるが、他の従兄はどのようになっているのか訪ねたこともないのでよく分からないままとなっている。両親の兄弟が多いと檀家制度が崩壊するのもよく分かる。父親は、地元で同姓である浄土真宗の住職と懇意にしていたこともあり、死後、その寺で仏事を行った。しかし檀家ではない。果たして自分はどうなってしまうか考えることもあるが、死後のことは残された者の判断でよいと思っているし、あまり、真剣に考えているわけではない。
数日前に両親の墓掃除に行ってきた。お彼岸の時に清掃してきたので荒れている様子もなく、枯れ葉が積もっているぐらいで、簡単な掃除で済ませた。墓地の墓掃除が終わっているのは数えるくらいであった。路線駅から近いが、丘にある公園墓地で、多摩丘陵の一部を市が公園墓地として整備している。高齢となり、足腰が弱くなれば、上り下りで墓掃除も大変であることを女房と話した。高齢社会の負の部分であろう。最近は永代供養とかで、寺側に管理を任すサービスが人気となっているのも良く理解できる。
せめても、神様、仏様の居所を年に数えるぐらいの掃除で済ませているが、気持ちよく新年を迎えてほしいとの思いである。こうしてみると神道の方が、あっさりとしているようだ。名所旧跡に行ったときのお賽銭(何処かの巫女さんに効き目は1年限りといわれた)の効果はあったのであろうか、普通の方は年を取るとより近づくといわれているが自分は徐々に遠のく宗教心である。しかし、如何ともしがたく、自然の流れに任せる他はないとの心境である。
冬場の動物園の飼育している動物は捕獲又は、他の施設で飼育されていた環境に応じて、同様の状態にすることが求められている。熱帯で育った動物が、温帯や寒帯の地域に移れば、その環境に馴染むのには一定の期間が必要である。人間においても同様と思われる。
転勤族は、近隣県であれば環境変化はないに等しい。しかし、全国規模で事業等を展開している組織や海外進出等によって、馴染んだ環境とは異なる場所への移動は、多くはないにしても、全く無いとはいえない。
九州から北海道はよいとしても、国内から酷寒の北欧や、熱帯の東南アジアなど駐在員として移動しなければならない社員も多い。グローバル化とは環境を含めてのことである。
旅行でちょいの間だけを過ごすのとは異なり、それなりの覚悟がいる。古い話であるが、転勤で北海道に3年間過ごしたことがあったが、夏場の北海道は梅雨もなく快適な環境ではあるが、冬ともなれば、1年間の半数が冬であることは暮らしてみて初めて分かるものである。
室内の暖房だけではない。外出時の服装がまず関東とは異なっている。アイスバーンを皮底の靴では歩くことが出来ないし、地吹雪では車の運転もままならない。室内は暖房が効いているが、厚着では汗をかくほどで、職場では合い服で十分であるが、外出時はそれなりの防寒服や装備が必要となる。最初の年はえらく寒かった記憶がある。2年目からはさほどではなく、3年目は身体が馴染んだせいもあり、風邪を引かずに済んだ。
動物にとっても環境に馴染むことによって、寒さをもろともしないようになるのには一定期間の慣れが必要であろう。最近は愛犬を室内で飼う家庭が多くなったと聞く。散歩で出会う愛犬も、冬場には犬用の防寒着を着ている。室内は空調を効かせ、夏は冷房、冬は暖房でお犬様様の待遇であるようだ。
我が家の愛犬も10歳を遠に超えて12~3才となるが、子犬の時の数年間は室内で飼っていた。その後、成犬になってからは室外で飼っている。最近、年を取ったせいもあるのか、夜間氷点下になるときは室外では寒いらしく、震えているため、湯たんぽを夜間に犬小屋に入れてやることにしている。湯たんぽといっても、ウィスキーの空き瓶に沸騰した湯を入れ、厚手のタオル地で捲いた物である。午後9時から明け方までは暖かさを保っている。
冷めても抱いているところを見ると愛犬も満足しているようで、最近は湯たんぽの言葉も理解するようになった。動物もやはり冬場は寒いと思う。
年賀状が宛先に元旦に届くためには地方郵便局の集配から宛先区分を行う基地局へ、集められ、そこから宛先ごとの基地局へトラック便等で運ばれる。地方郵便局は管轄する各家庭へ届ける。簡単に言うとそういうことであるが、最近は、郵便番号読みとり機で自動的に区分されるが、読みとり機で読みとれない番号や、記入がない物については弾かれる。
それらは人間の手を借りて宛先不明にしたり、正しい番号を与えて配送される。間違った郵便番号はそのまま該当する基地局へ送られ、そこで宛先に届けられる。
宛先が不明、例えば、転勤等で移転した場合、別人が入居している場合等がある。転勤等で、住居が変わる場合は1年間に限り、転居先に届けてくれるが、数年経れば転居先不明となる。元旦に届けるためのご苦労は十分承知しているが、年賀状の枚数が増えると、ミスが発生しやすくなり、差出人も注意が必要となる。
あるデータによると、表面、裏面ともに手書きが入らない年賀状は読んでもらえないケースが多く、やはり手書きに越したことはない。通常は印刷屋に頼むことや自宅のプリンターで印刷している。読まれないとのデータからすると、宛先や添え書きは自筆にするなどのバリエーションが考えられる。表の宛先は、住所録から拾うと、転記ミスが起こるため、直接住所録ファイルで、宛名書き印刷を行っている。住所録は、アプリケーションソフトごとにデータ形式が異なるため、中には共通としてCSVファイルとして読んでくれるのもあるが、利用できない場合が多い。そのため、古い形式のアプリケーションを継続的に使う羽目となる。
自分はマイクロソフト社のアクセスというデータベースを利用している。常に心配なのは、印刷の読み込み順が、あいうえお順ではなく、登録順であるため、プリンターが故障すると大変なことになる。印刷済みの枚数表示は、パソコンの画面上からしか操作できなくなり、読み込み順の枚数を数えて合わせないと宛名の重複が発生するからである。マクロを使ってあいうえお順に印刷できないことは無いが、長年蓄積した宛名データーは500件以上もある。喪中葉書をもらった方を除き、今年喪中であった方を復活させ、昨年宛先不明者も除く。送信用と、未送信に分ける作業はデータのチェックが必要となる。
冷や冷やしながらの宛名印刷であった。注意したため、ミス印刷は1枚も生じなかった。添え書きは丸2日掛かってようやく本日投函となった。個人住所は名簿も手に入らない時代となり、当分の間は住所録のメンテナンスが続くことになる。
表面をミクロ的に見ると、きれいになっているとは、表面が限りなく平滑であり、異物がない状態であるのであるが、人間の眼で見ても分からない。強いていえば、身体でもっとも敏感であるのは指先である。その感覚は、千分の一~三ミリぐらいが限界といわれている。表面に付いたゴミや埃は手のひらでぬぐうことによって清浄面が得られる。もっと厳格な表面を得ようとすれば、電子部品などの洗浄は薬品を使い、除電して、正常な水がよどみがなく、塗れている状態まで洗浄する。塗装する表面は平滑で、余分な異物が付いていない方がよい。
平面が平滑であるとは金属ならば光沢が出る。光が正反射するからで、表面に凹凸があれば乱反射するので、つやがない状態に見える。水をかけると玉になる状態は、表面に油性の異物が付着しいているからである。
やっかいなのが静電気による埃等の付着である。着ている服が足にまとわりつくのは、静電気の発生で、身体自体が帯電するからで、皮底の革靴・ゴム靴以外のプラスチックであると帯電しやすい。家庭においても、着ている服によって、帯電しやすい人も多い。歩けば摩擦によって静電気が発生し、除電しない限り身体に帯電する。帯電していれば、埃もつきやすくなる。アルコールによって空気中に放電する。除電用のスプレーはアルコールが含まれている。乾燥していると帯電しやすく、湿気があると放電するため、帯電しない。従って冬場の方が静電気を帯電しやすくなる。この埃の付着は服が汚れやすかったり、露出している皮膚が汚れやすくなる。金属に触れると放電し、火花が出ることがある。
化繊の下着(ストッキング)やセーター、やシャツなどのポリエステル樹脂の繊維などは帯電しやすく、木綿は帯電しにくい。安物の化繊では埃が付きやすく、木綿にメリットがありそうである。昔、誇り(埃)高き男・誇り高き女などという言葉が映画の影響で使われたが、静電気の影響であれば幻滅である。静電気が及ぼす危険性もある。密閉された箇所での粉塵や炭塵は、一定の量に達するとちょっとした点火源があると爆発を起こす。空気中で摩擦によって帯電するからである。
何が言いたいかといえば、人間の眼で見ただけでは埃が付いていないかどうかはよく分からないことで、眼で見てきれいであっても微細な世界は全く異なっているからで、掃除の難しさは、カビの胞子やウィルスなどは眼で見えないため、その除去は大変な作業である。清掃管理の徹底は必ず衛生環境と直結していることである。表面的なきれいさでは満足行かない世界があることを承知されたい。