毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。
蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。
その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。
裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。
長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。
床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。
蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。
その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。
森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。
姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。
お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)
毎日、お医者様も来て下さり、ほどなく全快したので、妹芳子が肋膜炎の予後、暖越の山口氏の家に預けられていったので、私もそちらへ行くことになった。山口さんには奥さんと子供さんが一人あったが、都合で、お国の佐賀へ帰られたので、山口さんと私たちと女中さん一人となった。 山口さんはクリスチャンで、よい方だったが、朝になると、聖書の朗読をされるので困った。そのうち、母が来て、近所の百姓家の離れ二階家を借りて住むことになり、兄は学校の寄宿舎にいるので、女だけ三人の生活が始まった。妹と二人で、海岸を散歩したり、山に登って、花を摘んだりして毎日遊んだ。夏には、兄が帰って来て、竹内さん、矢山さんというお友達も泊まって、昼は、海水浴をしたり、晩は、トランプをしたりして遊んだ。竹内さんはバイオリンが上手だった。翌年の春頃、父が上海から帰って来て、一緒に暮らすようになり、間もなく国に帰ることになり、私と芳子が一緒だった。私は姉の嫁ぎ先の蛎瀬へ預けられた。芳子は新貝へ預けられ、兄は米国へ留学中で、お姑さんと女中が一人いたが、間もなく暇を取って帰り、姉が炊事をするようになり、私はしづ子のお守りをするようになった。
蛎瀬の庭は広く、豊後梅が咲いてよく実った。ハクモクレンが庭の真ん中にあって、春には二階から眺めるとずいぶんきれいだった。畑にはキンカンがたくさん作ってあった。
その他、ミカンや夏みかんもたくさんなった。裏の方には、川が流れていて、カニが這っていた。裏から山が見え、畑がどこまでも続いていたので、景色がよかった。隣の神社では、烏帽子衣束の神官が太鼓に合わせて練習するので、珍しく、いつまでも見物していた。
裏の貸家の一軒に、為末という親戚が住んでいたので、よく遊びに行った。文ちゃんという私と同年の人がいたから、ある日、新貝の叔父が来て、姉が病気で佐賀の病院に入院しているが、容態が悪いからと言って、私と芳子を連れて佐賀の病院に行ったが、もう亡くなっていた。父も母も来ていたので、森の兄や親類の人とともに日田へ行った。日田の森家ではお姑さんが目の手術をして、床に就いていたが、離れに休んでいたので、こちらのごたごたは聞こえなかったろう。姉の葬式やなにやかも済んでからも、私たちは森家にいた。父が日田の町長に当選したので、田崎というところに家を借りて引っ越した。大原神社に近いところで、静かな家だった。朝は遠く三隅川の流れの音も聞こえ、打ちかわす砧の音も聞こえた。
長く学校を休んでいたので、どこかに入学しなければと思ったけれど、日田にはまだ女学校がなかったので、高等小学校の四年生となった。芳子は二年生となった。その翌年卒業して、補習科というのに二年通って、学科を勉強し、専修科というのに入って、裁縫やミシンや刺繍を習った。芳子は、成績が良いので、遠方でも女学校に入れたいと思ったけれど補習科に入った年に、病気にかかり、休学した。病名は肋膜炎ということだった。
床に就くようになって私もできるだけ看病に手を尽くしたけれど、ついに亡くなった。享年17歳だった。亡くなる前、母が帰って来て、しばらくでも看病したことは何物にも代えがたく思っている。せっかく帰ってきたけれど、母は、当時、白木屋で女店員の監督をしていたので、長くいられず、東京に帰っていった。父と二人となって、寂しいので、当時、流行していた越前琵琶を習うことになったが、蛎瀬の叔父は日田で弁護士をしていたから、日田にも家があり、二号がいた。お鶴さんという人で、琵琶も上手だったから、叔父も習っていたようである。私も遊びに行って、博多節を習った。
蛎瀬の傍らに広瀬本家がある。昔の儘の家で家風も昔のままだった。初めて行った頃は、祖母さんが床に就いていて、広瀬正雄さんに坊やも広瀬の子、それから、お姉さんも広瀬の子と言われた。お婆さんも私達が行くと小遣いを下さった。お盆には、昔そのままにお供え物が並んでいた。日田には祇園祭というのがあって、小さい男子は甲冑姿で、小さい女子は稚児姿でお神輿について歩き、疲れるとおんぶしてついていくので、なかなかかわいらしいものだ。森の姉の子、文子というのが、稚児になって、神前で踊りながら、母さんは亡くなったわいのうといったので、乳母が縁起でもないといって𠮟った時は、姉はまだ生きていたのだが、間もなく亡くなった。それが、神のお告げによるものだったのだろう。
その文ちゃんが病気になった。病名は脳膜炎だったが、高熱が出て、看病に手を尽くしたが、ついに亡くなった。息を引き取る前に、美しい仏様になる云々といっていた。わずか五歳の子供が、言ったのだから驚いた。さすが信心深い家の子だったと思った。姉が亡くなって、27日くらい後であった。
森の家には姉のお姑にあたる人と叔母が一人いて、兄もよい人物だったが身体が弱かった。召使がに二三人、店の者が二三人、何も商売をしているわけではないが、山をたくさん持っていて、山の木を売買していた。兄も一年に一度くらい山に杉の木を植えていた。
姉が亡くなって二年目ぐらいに、長崎からお嫁さんが来た。色白の豊満な身体つきの人で美人だった。私も望まれたそうだけれど兄の病身を知っている父が、断ったという。
お嫁さんが来てからも、月の良い晩には舟遊びに行った。料理屋が川に面したところで、鵜飼を見せてもらったこともあった。その兄も嫁が来て五年目ぐらいで亡くなってしまった。(次回へ続きます)
ところで、欧米の企業では職務中心に人を張り付け、ジョブウェジ(職務給)をベースにパフォーマンス(成果)で賃金を決めるのに対して、我が国の企業では、賃金はジョブで決定されるのではなく、人間中心、各人の能力に対して賃金が決定され、また職務はローテーションなどによって変わるのが一般的である。従って、欧米に比べて、我が国企業においては、個々人の人事考課を決定するまでに大変手間がかかるのは自明の理であるといえる。具体的には、能力を評価するにあたり、基本的には発揮されたもので判断することになる者の、業務間の違いにも配慮しつつ、更には、その業績を上げた環境や背景をも見なければならない。つまり、直接測定できない事柄までも様々な状況証拠から測定するという大変にきめ細かな対応が必要となるのである。そうでなければ納得は得られないのである。このことは、手間がかかるのと同時に、測定には必ず生じる誤差が大きくなるという危険性をはらんでいることをも意味している。
こうしたことを考えると、能力・業績主義化の中で、今後は、a.直接測定できる項目を拾い集めて整理し、人事考課の中でその評価ウエイトを高めること、b.間接的な事柄までも測定しなければならない測定器で歩こう貨車の精度を高めるために、考課者訓練を徹底的に行うこと、c.測定の誤差を小さくするためには、測定の頻度を高めることが原則であることから、多くの考課者の目で評価するという多面評価制度を取り入れていくこと、等が検討に値すると思われる。
なお、多面評価制度については、a.評価者の範囲として、被考課者の上位資格者(直属の上司+同一部門の上位資格者+業務上係わりのある他部門の上位資格者など)のみならず、直属の部下などの下位者も評価者に加えるか否か、b.評価結果の活用方法として、直接に人事考課に反映させるか、参考にとどめるか、等の問題があるが、各企業の従業員規模、組織のあり方や仕事の進め方、更には文化、風土、従業員の資質などに照らして判断すべきであろうと考える。
3-4管理職と一般従業員の人事考課制度の相違点
省略
3-5人材育成に向けた諸政策
省略
参考:本書の構成は3部構成であり第1部は今回紹介した総論、第2部は委員企業8社の事例報告 第3部は調査結果の分析と考察、巻末には 資料編があり、多くの提言が含まれ、人事制度の詳細を知るには具体的で詳細な記述となっています。
事例研究委員会に参加された8企業の詳細な事例及び分析及びアンケート調査内容の分析・考察については紹介の域を超えると判断されるため、割愛します。必要であれば報告書が同名で経営書院から出版されています。(このシリーズ最終回です)
3-3人事考課の納得性を高める諸施策
人事考課制度を如何に性格かつ公平に個々人を評価し得る中身とし、被考課者の考課結果に対する納得性を高めるかは、企業幹部、人事担当者にとって、「永遠の課題」といっても過言ではないほどの難問であろう。しかしながら、この永遠の課題に対して、企業幹部、人事担当者は決して手をこまねいているわけではない。今回の企業事例、アンケート調査結果のいずれを見ても、この課題に果敢に挑戦している姿が浮き彫りになった。
具体的には、各社とも少しでも考課結果に対する被考課者の納得性を高めるべく、極力、数値的に業績結果を把握しようと目標管理制度を導入し、面接制度、自己考課制度、多面評価制度の導入など、様々な施策を講じてきている。
とりわけ、目標管理制度は、多くの企業で注目され、導入されてきていることは、先にみたとおりである。しかし、このような努力にかかわらず、満足のいく人事考課制度が構築されたかと言えば、残された問題は多いと言わざるを得ない。例えば、脚光を浴びている目標管理制度を採ってみても、アンケート調査結果では、目標管理制度導入企業の67%が「目標の設定が難しく(内容、難易度のばらつき)、考課に結びつけにくい」との問題点を投げかけている。
また、事例企業においても「各人が取り組む課題の難易度、その成果を如何に定量的に見極め、客観的な比較を行うかが課題である」との指摘に代表されるように、各社とも悩みを抱えており、とりわけ数値化しにくい内勤スタッフ部門の取り扱いについては、その難しさが提起されたところである。
この問題をどうクリアーしていくのかが、今後の最大の課題といえようが、a.目標管理のための帳票(シート)に、目標内容とその難易度を記入する項目を設けたうえで、面接制度の実施によって納得性を高めること、b.複数の者の設定目標を比較してその難易度を測り、公平性を確保すること、c.考課者訓練の徹底によって、設定目標の量・質の高低を図る基準を均一化していくこと、等の努力を積み重ねるしかあるまい。現在のところ、技術的にはこのあたりが限界のように思える。(次回へ続きます)
3-2 昇進・昇格の厳選化
アンケート調査によると、「組織上、管理職の人数が多い」と回答した企業は65%に登り、「管理職登用の厳選化」を実施した企業が44%、今後実施したいと答えた企業が41%となった。
従って、管理職への昇進・昇格の厳選化が進められていることは明らかである。では、どのような方法で、管理職への、あるいは管理職内での昇進・昇格の厳選化が図られているのであろうか。その答えは「卒業方式から入学方式へ」の切り替えが行われていることである。卒業方式というのは、現在の資格要件を十分満たす能力を発揮したことをもって、自動的に上位資格へと昇格させるものであり、他方、入学方式は、上位資格の期待要件に応えられるか否かを判断して、昇格させる方式をいう。卒業方式で昇格を行った場合には、例えば、「課長で優秀なので次長にしたところが、次長の能力がなかった。降格も出来ないのでそのまま定年まで次長で処遇した」という事態が起こりえるのである。従って、降格が実施しにくい企業にあっては、入学方式を採用し、上位資格の能力があって初めて昇格させることが管理職層のスリム化と組織の活性化にとって必要不可欠である。
また、我が国企業では、降格の規定があってもよほどのことがない限り降格を実施しないのが一般的実態であるが、今後はこれを改め、企業が能力開発に努めてもなお、本人の責で当該資格に期待される能力が発揮・向上されない、あるいは能力が低下した場合には、勇断を持って降格を行っていくことが求められる。適宜に降格を行うことが可能となれば、卒業方式によって昇格させても問題はなく、むしろ「立場が人を育てる」という意味では、広く能力伸張の機会を与えることに繋がる。なお、昇格を判断する材料としては、資格在籍年数、人事考課結果、昇格試験(筆記、論文、面接)などを用いた上、幹部・上司と人事担当部の合議により決定する場合が多いとみられるが、今後は、資格在籍年数などのウエイトは極力軽減させて能力主義により、昇格遅速を拡大するとともに、昇格の参考とする人事考課については多面的評価を実施するなどして、慎重なる審査を行うことが望まれるところである。
最後に、昇進・昇格の厳選化を進める一方で、管理職に常に夢を与え、努力心・向上心を持たせるためには、「敗者復活」の制度を整備しておくことが重要であることを付け加えておきたい。(次回へ続きます)
b.昇給考課と賞与考課の考課要素の違い
昇給考課と賞与考課について、同じ考課要素、考課方法で評価した場合、実績重視の企業では、将来を嘱望されるべき人材にもかかわらず、業績貢献度が低かった場合、昇給でも賞与でも低位となり、その芽を摘みかねない。また反対に、将来性を重視する企業では、その評価が低い者は、好業績を上げたにもかかわらず、賞与についても低い結果となってしまう。従って、「名選手(名コーチ)、必ずしも名監督ならず」の格言を肝に銘じて、昇給考課と賞与考課はその目的とするところから、異なった考課要素・方法を用いることが大切であると思われる。
具体的には、昇給考課では、現在の個人的な能力の発揮度や業績のみならず、組織活性化に対する貢献度や部下管理、あるいは全人格的要素も含めて、つまり、現時点という点ではなく、将来の幹部登用までの線上でとらえて、考課を行うことが求められよう。一方、賞与考課は、短期的な全社及び個々人の業績に対する考課であることから、企業業績への貢献度、個人目標値に対する達成度などに重点を置いた考課とすることが必要であろう。
また、近年、部門業績を個人の考課に組み込む企業が増えているが、組織の和が重視される我が国にあっては、個々人の業績の評価を補完する意味でも、部門別業績賞与制度を導入する意義があろう。因みに、アンケート調査では、同制度導入済みの企業が22%、今後導入したいとする企業が28%との回答結果となった。
なお、業績を評価するに際しては、多くの企業で目標管理制度の導入など、より客観的な物差しでの考課を行い、被考課者の考課結果に対する納得性を高める努力がなされているが、目標管理だけでなく、別立てで、努力度や姿勢といった数値には表しにくい要素も取り入れて、考課を実施している点に注目しておく必要がある。
ところで、個人主義の欧米などでは、自己のノウハウを人に伝授することには積極的でない傾向があるとの見方がある。一方、我が国では、QCサークル活動が成功したことでも分かるように、話し合いを重んじ、個々人が有するアイディアやノウハウをオープンにすることで、企業業績を向上してきた風土がある。従って、今後の人事考課においても、このよき風土を壊さぬためには、個々人が直接的に上げた業績の高低のみで評価するのではなく、間接的に他の人の業績向上に貢献した部分(成功・失敗のノウハウの伝授、組織活性化・士気向上に繋がるがんばりや潤滑油的働きなど)をも評価していくことが大切であると思われる。(次回へ続きます)