仲がよいつがいのイカルチドリ、イソシギの進入にもめげず!
目の前に椀が積まれていく光景はおもしろいといえばそうであるが、首からエプロンをして、椀に残る若干のそばつゆが飛び散り、汚れることを覚悟での挑戦となる。一口分のそばであっても数回食すると飽きてくる。よくしたもので、数種類の薬味が付いていて、飽きてくると薬味を入れて再挑戦する。多く食するコツは、空腹で臨まないことで、更に椀に少量残る麺つゆを飲まないことであると聞いた。
多くても5~6人ぐらいのグループが相手の様子が見えて愉快である。接待ということで接待される側が楽しんで貰えばよいので、接待者が楽しんではいけないそうである。まだ経験されてない方は盛岡に行く機会があれば一度は挑戦されることをお薦めしたい。できれば、数人のグループで行う方がよい。
盛岡冷麺は韓国の冷麺と若干異なる。韓国の麺はそば粉が入っているため灰色のマダラである。仕事で韓国へ行ったときに食したが、麺が長く箸で切るが切れない。店員を呼び何とかならないかというと、はさみを持ち出し器の中でチョキチョキと切ってくれた。これには驚いたが、韓国の焼き肉もはさみで切って小分けして食する。味はキムチの辛さであるが、辛かったという印象である。関東など他の地域で食されている冷やし中華とは全く異なっているので、冷やし中華と思って注文して驚くことしきりである。
盛岡冷麺と名付けた由来は盛岡と韓国のソウルと同じ緯度(北緯42度)であるからと聞いたことがある。元来は韓国で食されていた冷麺を日本風にアレンジしたということであろうか。麺はパスタと同じ押し出し製法で作るそうであるが、じゃがいものでんぷんから作られていて、やや透明で薄い黄色をしている。太麺で、食感は弾力が強く、堅く感じられるが、なれてくると独特の食感がやみつきとなる。店舗によってトッピングは若干異なるが、ゆで卵、キムチやカクテキに甘辛く味付けした牛肉それと時季の果物が使われる。スープは牛骨のだしが効いており、豆板醤の味付けである。麺の約1/3がスープの量である。注文時にスープの辛さを選択できるのが特徴である。
初めての方はあまり辛くない方がよいかも知れない。インドカレー店で辛さを選択できるのと同じである。最近近所のスーパーで袋に入った盛岡冷麺の2人前を販売していた。
家庭で作れる生ラーメンや湯麺と比べると価格は若干高めであるが、自宅で作った冷麺でも十分堪能できる。注意する点はあまり長い時間、麺を茹ですぎないことで、2~3分といったところであろうか。袋に調理方法が書いてあるのでその通りにすれば良い。販売製品は盛岡冷麺と表示されており、製造元は戸田久とぴょんぴょん舎が有名である。(このシリーズ最終回です)
盛岡食道楽(2回シリーズその1)
単身赴任の生活は一日に三食を規則正しく取ることに努めていても、思いどおりには行かない。朝食を抜くことや夕食を抜くことは再三であった。幸い、昼食だけは職場の近くに気に入った和食の小料理屋「照井」があり、昼間は特別に定食を作ってくれていた。職場の同僚と一緒に、情報交換を兼ねて、連日通っていた。仕事が終わった後も度々お世話になった。店主は美声で小林旭の「北帰港」を聴かせてくれた。季節料理をつまみとして出して貰い、旬の味を楽しむことが出来た。中でも根曲がり竹のタケノコ(姫竹といっていた)を皮ごと焼いて、皮をむき、タケノコを塩かわさび醤油で食べると大変美味であった。ホヤやアワビ、岩牡蠣をすだちで締めて食したものもおいしかった。
盛岡の有名料理といえば、わんこそばと冷麺であろう。さほど有名ではないジャジャ麺(炸醤麺:肉みそを麺にかけたもの)もあるが、どうも色といい、うどんの黒ごま和えかイカスミ和えのようで、好みに合わず、一度食してみたがそれ限りとなってしまった。
わんこそばはおもてなし料理といわれたが、椀にひたすら注がれる一口のそばを食し、食した椀の数を競うといったゲーム感覚の食事である。客の数だけアネッコが付く。食事が始まると接客するアネッコが座った自分の後ろに膝立ちし、アネッコのかけ声と共に次から次に、椀に注いだそばを肩越しに自分の椀に入れてくれる。その動作は素早く、満腹になって終わりにしようと思っても、なかなか止めてくれない。タイミング良く椀の蓋をかぶせることが出来れば、それ以上は注ぐことが出来ないので、終了となる。蓋をするタイミングがこんなに難しいとは思わなかった。
7椀で盛りそば1枚分に当たるといっていたが、一椀に入れるそばの量は店によって異なっていて、15椀で盛りそば1枚分というところもある。100椀を食すると将棋の駒(こま)をかたどった木片に、その店の焼き印が押された証明書を貰うことが出来る。何度か挑戦したが、1度だけ証明書をもらったことがある。そのときはもう二度とわんこそばは食べないと思ったものである。(次回へ続きます)
単身赴任の生活は一日に三食を規則正しく取ることに努めていても、思いどおりには行かない。朝食を抜くことや夕食を抜くことは再三であった。幸い、昼食だけは職場の近くに気に入った和食の小料理屋「照井」があり、昼間は特別に定食を作ってくれていた。職場の同僚と一緒に、情報交換を兼ねて、連日通っていた。仕事が終わった後も度々お世話になった。店主は美声で小林旭の「北帰港」を聴かせてくれた。季節料理をつまみとして出して貰い、旬の味を楽しむことが出来た。中でも根曲がり竹のタケノコ(姫竹といっていた)を皮ごと焼いて、皮をむき、タケノコを塩かわさび醤油で食べると大変美味であった。ホヤやアワビ、岩牡蠣をすだちで締めて食したものもおいしかった。
盛岡の有名料理といえば、わんこそばと冷麺であろう。さほど有名ではないジャジャ麺(炸醤麺:肉みそを麺にかけたもの)もあるが、どうも色といい、うどんの黒ごま和えかイカスミ和えのようで、好みに合わず、一度食してみたがそれ限りとなってしまった。
わんこそばはおもてなし料理といわれたが、椀にひたすら注がれる一口のそばを食し、食した椀の数を競うといったゲーム感覚の食事である。客の数だけアネッコが付く。食事が始まると接客するアネッコが座った自分の後ろに膝立ちし、アネッコのかけ声と共に次から次に、椀に注いだそばを肩越しに自分の椀に入れてくれる。その動作は素早く、満腹になって終わりにしようと思っても、なかなか止めてくれない。タイミング良く椀の蓋をかぶせることが出来れば、それ以上は注ぐことが出来ないので、終了となる。蓋をするタイミングがこんなに難しいとは思わなかった。
7椀で盛りそば1枚分に当たるといっていたが、一椀に入れるそばの量は店によって異なっていて、15椀で盛りそば1枚分というところもある。100椀を食すると将棋の駒(こま)をかたどった木片に、その店の焼き印が押された証明書を貰うことが出来る。何度か挑戦したが、1度だけ証明書をもらったことがある。そのときはもう二度とわんこそばは食べないと思ったものである。(次回へ続きます)
バラは春と秋の二度にわたり楽しませてくれます。神代植物園はよく手入れがされていて、カメラマンも多いところです。2回に分けて掲載します。
平泉の金色堂須弥壇(こんじきどうしゅみだん)内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められている。須弥壇の柱や全体に施された螺鈿(らでん)・蒔絵(まきえ)・透かし彫り宝相華文(ほうそうげもん)等の加飾は見事なものである。平泉中尊寺を中心とした地域には秀衡(ひでひら)塗りといわれている漆器椀が有名である。
この椀の加飾から発生した秀衡塗りは呂色(ろいろ:磨き仕上げ)黒塗りや、紅溜(べにだめ)塗りをした上塗りの上に菱形に切った金箔を張り付け、朱色・潤み色(うるみいろ)で、唐草模様や雲形模様を描いている。漆は浄法寺産のものが使われており、金箔は陸奥(みちのく)の金として北上川から砂金として取られたという説がある。金色堂は奥州藤原氏の初代藤原清衡により建立された。藤原清衡の命により、京都の漆職人が呼び寄せられ、金色堂須弥壇を塗り上げたようで、塗りの技法も京都の漆職人から伝授されたと考えても不思議ではない。
何故東北地方にも漆器産業が生まれていたかという疑問は、冬場の仕事としての側面を見いだすことが出来る。湿気が多い場所は漆の乾燥と関係がある。空気中の水分が、漆液が持つウルシオールという物質と反応し、酵素(ラッカーゼ)の力によって固化するからである。外気温が室温より低いと外気と接触する壁面などには結露を起こし、室内の湿度は高くなる。湿度が高くないと漆は乾かない(膜となって固まらない)から、湿度が高いところが作業場として最適の場所であった。
湿気は重要であるが、この点は湿度や温度管理を行う漆風呂があれば何とかなる。最も重要なポイントは、現状維持に始終するのではなく、産業として発達するには需要が継続すること、つまり、財力がある依頼主がいて、関連職種の集合体があり、行政も産業奨励をしなければ、何れは廃(すた)れてしまう。
嘗ては、東北地方の山村で漆器を塗って、製品は行商によって売られていたようである。昔はそれでもよかったが、では、このような伝統産業を残し、継続し、更に発展させていくためにはどのような方策があるのか、国内ばかりではなく、海外に目を向けて、販路を広げるには対象国の生活習慣を知り、需要の喚起を行うなど集団として、積極的な展開が望まれる。直ぐには良策は見つからないが、伝統を守り続けることの難しさ、すなわち、現在置かれている業界を取り巻く背景を関係者が共通認識として持つことが第一歩となる。(このシリーズ最終回です)
中でも、漆に変わるポリウレタン樹脂塗料やエポキシ樹脂塗料、合成漆のカシュー樹脂塗料等の合成樹脂塗料の出現は、元来漆の需要の中心であった食器等塗り物の低価格化をもたらし、また素材も大量生産の可能なABS樹脂成型品が出回り、品質が一定しない木材とは異なり、工場で廉価に生産できる。漆の持つ性能が他の塗料より優れていたとしても、悪貨は良貨を駆逐するではないが、施工に手間を要し、代用品が廉価で販売されている中では需要はなくなるのも当然で、時代の流れに合わなくなってきたといえよう。用途が生活用品から離れれば、高級品に向かわざるを得ず、美術工芸品等に推移する。手間を考えてみると納得がいく。
例えば、製品制作に3ヶ月を要したとすれば、手間賃だけで1時間千円としても1日8千円、月25日働くとすると20万円、3ヶ月なら60万円となる。材料費や利益を入れると製品価格100万円のものを作らなければならない。制作した物が売れて初めて生活が出来るのであるから、余程の名人か、手厚い保護がなければ産業として成り立たない。
美術学校を卒業した若手の今後の成長に期待したいし、この業界が伝統産業として復活するには、解決しなければならない多くの課題がある。
漆が英語でJapanまたはJapanese lacquer(ジャパンラッカー)という。我が国そのままの名称である。陶磁器のことをチャイナ・チャイナウエアーと呼ぶのに等しい。高級品であるデュポンのガスライターやパイロット万年筆の蒔絵シリーズなど海外でも人気が高いといわれている。最近は携帯電話器に漆を使った高級品も出回っているようだ。一部製品には漆の良さが高級感とマッチしたことにより、発展性もあるが、その量は微々たるものである。
岩手県と青森県の県境に近いところに二戸(にのへ)町があり、ここの浄法寺(浄法寺という寺はない)という場所に天台宗の天台寺がある。浄法寺漆器の発祥の地で、作家でここの住職ともなった瀬戸内寂聴氏で有名である。古くは奈良時代に聖武天皇の命を受け、僧行基が彫ったと伝えられている観音立像が祀られている。浄法寺塗りは大変素朴な椀や箸等の寺で使う食器や仏具等に塗られていた。(次回へ続きます)
漆器(しっき)は器胎に木材、革、竹、和紙等に塗料である漆(うるし)を塗った塗り物の総称で、古代から使われてきた大変堅牢で、用と美を兼ね備え、生活用品や美術品として、我が国の文化に貢献してきた。
漆液(うるしえき)はハゼ科の広葉樹で、木の幹や枝からの樹液を取り、原液の生漆(きうるし)を用途によって、精製したもので、漆工(しっこう)には生漆をそのまま使う場合もあり(摺り漆・拭き漆)、通常、素地の狂いを押さえるために、生漆と地の粉や砥の粉を混ぜた錆(サビ)を塗り、しっかりとした土台を作る下地(したじ)用にする。精製した漆に顔料を練り込むことによって、色彩を与えることが出来る。椀などの製作工程は30工程に及ぶこともある。
塗料は漆やセラックニスなどの天然塗料と、ナフサを分留し、石油系の合成塗料に分けられるが、強靱で、独特の光沢を持つ塗料は漆以外にはないとさえいわれている。最近では生漆の殆どは中国やベトナムなどの東南アジアからの輸入品が占め、僅か全体量の2%が日本産である。そのうちの60%が岩手県の浄法寺産であるという。市販品として、生漆を注文すれば手にはいるが1キロ詰めで5万円はする。中国産でも8千円から1万5千円はする。
何故日本産が減産してきたのかというと、漆液を採取する量が少なく、時期によって産出量が変動する。10年位経過した樹木に傷を付け、滲出する樹液を掻き取るのであるが、殺し掻き(ころしがき)といって、切り倒し、枝に含む漆液まで搾り取るため、植林しても次に漆を取るには10年が必要となる。樹木の成長と漆の樹液採取方法等により、年間を通じて大量に生産できない。また、輸入品の不純物の多い生漆を使った漆器自体の値段も高く、漆器を消費者が購入しなくなって、在庫を抱え、結果的には、全体の価格も高くなり、採算が合わないことが大きな理由であろう。(次回へ続きます)
今回の震災でリアス式の海岸線は壊滅的な被害にあった。
[以下はコラム 釜石港湾口防波堤の損壊と減災効果から引用した。]
岩手県の釜石港では、ギネスブックにも登録された世界最大水深(63m)の湾口防波堤が31年の歳月をかけて2009年3月に完成していた。中央の開口部300mを大型船の航路として確保し、その両面に北堤990mと南堤670mの2本の防波堤をハの字型に配置したもので、明治三陸地震津波規模の大津波に対して湾内の防潮堤の天端高(おおむね4m)より低い水位に減水させることで市街地への浸水被害の拡大を防ぐ機能が期待された。
しかしながら、東日本大震災では、設計外力を超える大津波の威力により、防波堤は大きく損壊し、津波は湾内の防潮堤を越え、ハザードマップで想定していた浸水域を大きく越えて被害が広がった。今後、防波堤の被災要因を詳しく検証し、今後の災害対策に活かしていく必要があるが、その検討過程において、今般の大津波においても、津波防波堤が無かった場合に比べ、一定の減災効果を発揮したことが認められた。
釜石港の沖合約20kmに設置していたGPS波浪計では最大6.7mの津波の高さが観測された。この観測をもとにした数値計算により、防波堤が無かった場合と有った場合を比較した結果、釜石港内の験潮所での津波の高さは13.7mから8.1mに約4割低減し、釜石港須賀地区の大渡川沿いにおける津波の最大遡上高は20.2mから10.0mに約5割低減している。この計算結果は、現地調査における痕跡高や浸水域とおおむね一致している。また、計算結果では、防波堤により、津波が湾内の防潮堤を越え浸水が始まった時間が6分間遅れており、水位上昇を遅延させる効果があったとみられる。
[以上はコラム 釜石港湾口防波堤の損壊と減災効果から引用した。]
釜石港陸地側には高さ4メートルある防潮堤を施工されているが、この堰堤を乗り越えて津波が来たという。チリ地震の時にも津波は高さ30メートルに達したといわれている。
小高い山の中腹には30メートルに達した津波の到達線(赤い線)表示があるが、海岸線近くには津波の怖さを知らない人々が徐々に自宅を構え、沖合側に防波堤があるから大丈夫という思い込みもあったようで、便利さが優先した結果、高台への避難が遅れ、多くの方が津波に飲み込まれて死亡している。我々も平田地区でイベントを行っていたときに津波が来れば今の自分はない。今になってリアス式の三陸の危険性を思うと背筋が寒くなる。
(このシリーズ最終回です)
この他、団扇を参加者へ配布することとし、スタッフであることが判るように、黄色のTシャツを揃えることとした。この期間に盆休みはあるが、平常どおりの勤務があるため、職員の貼り付けは困難を期し、企画に関わった関係もあり、釜石に泊まりながら数日間を過ごした記憶がある。テントも盛況で来場者は全体で200万人に達した。
この先、釜石には雇用促進住宅が7棟(1棟約40世帯)もあり、全国からの移転就職が盛んなところであった。住宅の関係業務で何度も盛岡と釜石の往復が続いた。
釜石は鉄鉱石の鉱山があった場所で、たたら製鉄の発祥の地とした有名な場所である。
たたら製鉄は宮崎駿のアニメ「もののけ姫」にも登場する。砂鉄を原料としたたたら製鉄法は古くから行われていたが、国防のための大砲鋳造では、砲身に亀裂が入ることが原因で、たたら製鉄法の限界が判り、洋式の高炉に変わっていく。
古くから南部鉄器として岩手県人に鉄鋼関係の経験者が多く、新日鐵の溶鉱炉が出来たのも関係が深い。安政4年(1857年)南部藩士大島高任が釜石市大橋で日本初の洋式高炉法による出銑に成功した。明治になって官営製鉄所となり、明治19年釜石製鉄所が誕生する。その後、鉄鋼合同によって、富士製鉄と八幡製鉄が合併し、昭和45年(1970年)に新日鐵になる。採算の面で既に工場は撤去されていて、跡地にはバイオ関連の研究施設となっていた。(次回へ続きます)