最近生まれたヒナも部分的に白い羽をもっています。
前に一度、私が病気をしたことがあったが、安子が来て何としても連れて帰るといって、引き下がらないので、では治ってから帰ろうといって帰したが、その後四月になって、荷物をまとめて帰ったことがあった。けれども、一年たった頃もう五年も世話をしたようなことをいい、孔敏が、まだ一年たったばかりじゃないかというと、前から数えると五年であると言い張り、時々ヒステリーを起こして一晩帰らないことがあった。私が食事の支度をしていると、孫の敏一や晴彦が、そんなもの食べないぞと言われ、私が栗ご飯を炊こうと思って用意したら、そこから栗を一つ残らずに投げ捨ててしまった。そして安藤へ帰れ、帰れと叫ぶ。安子が常に私のことをお祖母さんやお祖父さんの看病もしなかったと言い聞かせてあるので、その通りのことを言い、私を憎むのであった。現に安子が私に向ってその通りのことを言うではないか、もし前のことは忘れてしまっていると思ってのことか知らないけれど・・・・。孔敏に一連の不祥事を話し、私も腹が立って、家を出ることにした。
荷物といっても、身の回りのものばかりで、長く留守をしている間に、私が大切にしていたものや、お手本類はすっかりなくなっていた。着物も二三枚無くなっていて、形見にやったと思えばよいが、断りなく抜き取ることは許されることではない。
毎年、朝顔の種をまいて、花の咲くのを楽しみにしていたが、八十七になると、そのお世話もできなくなった。
何から何まで寿子の世話になっている。広瀬家伝来の本は、毎年、私が虫干ししてきたけれど、自分亡き後は、孔敏に保管を頼んで来た。
この家にある、書画と広瀬関係のものは、吉川には一品もない。みな父の遺言によって、私がもらった物ばかりである。孔敏はお母さんの物があるはずというが、母は生活が苦しかったので、皆売り払ってしまったのである。
私の言葉に偽りはない。何はなくても、私は今、幸福だと思っている。皆親切にしてくれるから。以上(今回で終了です)
補足
今回、電子化したのは、十数年前に安藤の叔父孝(叔母寿子の嫁ぎ先)が生前、祖母(ミツ)が書き残した遺稿を、現代文に直したものが、原稿としてあったが、一度電子化したが、パソコンが壊れたため、再度打ち直した。
読んで見ると、戦前、戦後、を通じ、明治、大正および昭和の時代に生きた祖母の身の回りの出来事が、丁寧につづられている。
吉川ミツは自分の母方の祖母で、広瀬淡窓からの系図では、淡窓を初代とすれば、自分は六代目に当たる。一代三十年とすると百八十年の歴史である。実際には、今日と異なる時代背景、生活環境にあるので、即断できないが、一人の女性の生活実態が如実に記載されてあった。短期間で執筆するのはご苦労も多かったと推察されるが、記憶力に優れ、一言で言うなら、外見は、おっとり型、しかし、芯が強く、何事にも動じない性格で、常に冷静沈着であった。特に、現代では希薄となった人間関係や親類縁者との関係は、ノスタルジアを彷彿とさせている。今となっては、多くのことが、生前に聞いておくべきだったと、過ぎ去った過去を再現したくなる衝動を抑えきれない。祖母ミツは、昭和62年2月2日安藤孝宅で逝去し、行年94歳であった。また、ミツの亭主であった祖父吉川郁羊は昭和39年8月23日、同じく、安藤孝宅で逝去し、行年81歳であった。墓所は東京多摩墓地にある。なお、ミツの子供は、生誕の順に、澄子、孔敏、喜信、寿子の四人で、現在生存中は寿子のみである。
令和3年6月吉日文責 宏