今年もニセアカシアが咲いた今月の上旬、撮影しましたが、近接で撮れなかったため、昨年の同時期に撮影したものを再掲します。
二階の屋根空間を利用した3畳ほどの収納庫が設置されている。寄せ棟作りの屋根部であり、高さは高い場所で中腰で立つことが出来るが、ほとんどは膝で這うしかない。新築当初からあった場所で、真夏になると室内は50℃を超える高温となるため、何でも収納できるという場所ではなかった。換気口はあっても循環や排気機能はなかったために5年ほど前に行ったリフォームで、立派な換気扇を2セット付けてもらった。サーモスタットが付いているので、温度が上がれば自動で換気扇が回り、ダクトで室外へ排気する仕組みである。吸気は北側に空いた換気口と、取り付け階段開口部からである。
2セットはサーモスタットの温度測定を場所によって変えているためで、スイッチ類は一箇所にまとめてある。設定温度は35℃と40℃である。温度設定は自由に変えることが出来るため、真夏時は高めに変更する。最近それが稼働するようになった。つまり、屋根裏は既に35℃を超えていることになる。
収納品は、温度変化に対して影響しない登山用具や、ほとんど見ることがない子供の写真アルバム、専門書籍がほとんどである。今般、衣替えに合わせて、扇風機と冬場に使った暖房機具を入れ替える作業を行った。二階とこの収納庫とは折りたたみ式の階段が付いているのでそれを利用する。
衣替えは設備用品や機器類も合わせて行う。次回に直ぐに使えるように、この時期に点検と、掃除を行う。半年以上の期間使用すると、どこか薄汚れるし、不良箇所を点検し、必要ならば、部品の交換をしておくのも良いと思い、分解掃除を行う。中性洗剤で汚れを落とし、水拭きした後、空拭きする。乾燥後、塗装で使うマスキングテープ(養生テープ:テープにポリエチレンフィルムが付いた物))で埃が入らないように梱包しておく。最後にナイロンひもを縦横締結しておく。収納時の持ち運びに供するためである。これをしておくと急な階段でも持ち運びが楽になり、安全に、バランスを保つためにも必要である。
次に取り出すまでは数ヶ月先であるため、特に乾電池は器具から取り外しておく。必要ならば、リモコンと一緒にし、誰にでもわかりやすくするために、本体にメモを残すようにしている。取説については別途一冊に綴じるようにしている。
何気ない作業であるが、次回に利用するまで本体管理と保管はついて回る作業として、衣替えと時期同じく、自分のルーチンワークである。
今週で平成28年は半年が経過する。過ぎてしまえば半年もあっという間である。この間大病をせず元気で過ごせたことを感謝したい。現在も余震が続く熊本県・大分県在住の方が巨大地震に遭われ、その損害たるもの計り知れない。精神的な面でのケアが必要とされている多くの方にとっては、震災復興もままならないであろう。幸いにして女房の実家が大分の国東市にあるが、直接の被害がなかったことは安心している。地震の終息がはっきり示されないもどかしさは人間の限界を示した。特に、火山や地質学の専門家がなんと頼りにならないのかが分かった。
多くの研究機関は何を示したのか、根拠が乏しい、地震の予知などは誰にでもいえるので、根拠が示されないまま、気象庁にげたを預け、NHKは、前もって準備した津波警報を言い、危険性をことさらオウム返しで言うだけで、言いましたよ、あとは地震や災害に遭われても個人の責任で、NHKは関係ないと言いたげで、また、そのように感じる。
これでは災害に対する万全な備えをする気にならない。原発についても停止することなく、異状はないなどとの報道はそれでよいのであろうか、災害が起こってしまえば、福島の原発の二の前を踏むことになりはしないか、どうも心配である。四国や九州の原発を稼働してどれだけの電力量となるのかも定かではない。今の時期は原発を止めるべきと思われるのであるが。
自然災害は誰にも罪はないことにしているが、現代の科学技術をフルに活用しても予知は無理としても、避難場所の確保が十分でないのはもはや人災といえるであろう。東日本の震災後の復旧についても目途がついたとは聞いていないし、震災による地域の衰退のニュースも伝わっている。多くの税金をつぎ込んでも元に戻すことは不可能との判断もあり、過疎化に拍車がかかっている。
東京オリンピック招致にかかる疑惑が報じられ、エンブレムの問題や、競技場についても暗いニュースが多かった半年であった。5月26日から伊勢志摩で行われたG7サミットの成功はこれからの実行がカギを握るが、中でも、オバマ米港大統領の被爆地広島への訪問である。このことが核軍縮に向かう糸口になることを期待せざるを得ない。
マンションの耐震設計の不正や、乗用車の衝突時に機能する安全装置の不具合等事件を挙げればきりがないが、事故等が起こった後では取り返しがつかない。我が国が安全であるとの自信であり自負がそうでもないと思う今日この頃である。
100円ショップ(ヒャクキン)が生活の隅々まで浸透している。いつごろからこのような安売り店が増えてきたのであろうか、一方ではブランドショップの人気は高く、消費者のニーズに合っているのであろう。それとも賢い生活者の選択志向なのであろうか、消耗品や、一度限りで使わないものも多い。生活の便利さは品物が豊かであったほうが便利であると思いがちで、そのせいもあってが、不用品が室内を占領する。
断捨離などという言葉もあり、不用品が片付けられずにゴミ屋敷となった例も多い。TVの放映を見たが、立派なマンションが空き缶や段ボールで埋め尽くされ、路上にはみ出ている始末、通行人の迷惑がっている取材であった。家の持ち主はしばらく家の中に入っていないといい、野宿同様の生活である。何度も地域の区役所が説得を続け、撤去するように勧告しても、ゴミではなく資源であり、所有権を言い張り、埒が明かない。その後のことは分からないが、強制撤去したかもしれない。
話をヒャッキンに戻そう。主要な駅の周辺には主としてダイソーが経営するショップが点在している。売り場面積もさまざまであるが、多くの客でにぎわっている。日用品や園芸用品、台所用品から、文房具類、種類も多く、さまざまである。こんなものが百円以下で作られ、販売されているのかと驚くばかりである。中には日本製もあるがほとんどは中国産が多く、アジア各国の製品もある。品質をいえば我が国のJIS(日本工業規格)などとは比較にならないが、用途によっては重宝するものもある。
一部食料品も売っているが、購入したことはない。必ずしも粗悪品ばかりではなく、十分実用に利用できるため、人気を博しているのであろう。流通業界は中古市場も利用されている。リサイクル店とヒャッキンとは異なり、ヒャッキンは新品である。何らかの事情があり、店舗をたたむことも話には聞くが、引っ越しなどを含め、商売となるリサイクル店も、商品の寿命を延ばすことに貢献しているようである。最近は、賞味期限が過ぎた備蓄品などを社会福祉に利用することも行われているようで、これももったいない精神が消費行動を多様化させている現れであろう。
ヒャッキンでは手芸用品もあり、ニードルタッティングを始めてから、レース糸やビーズ類はヒャッキンで購入している。賢い消費者であり、無駄を省き、利用することは、決して恥ずかしいことではないことを付け加えたい。安いからといって買いすぎないよう注意が必要である。
天候がめまぐるしく変わる。体調管理が難しい時期でもある。運動にはこまめに水分を取ることが推奨されて久しい。運動によって身体から発散する水分を補給するということは理にかなっていると思われるが、汗や尿となって体外へ排出される水分は、単体の水ばかりではなく、塩分やミネラル等も併せて発散される。運動量に見合う水分量といういい方はそれでよいのかと思うことがある。ただ水を飲むのではなく、バランスが取れる成分を含んだ、例えばポカリスエットなどの摂取を行うべきであろう。
身体が欲する水分量を制限することは、運動とはあまり関係なく、ふだんから我慢を強いられた時代があった。子供の頃から剣道を続けていたが、実際に剣道着から汗が噴出し、剣道着を絞れば汗が多量に出た。しかし、水分を補給せよなどといわれたことはなかった。マラソンにおいても同様で、真夏の炎天下での運動は精神を鍛え、熱中症などという言葉は全くなく、忍耐が足りない、我慢が出来ないといわれ、倒れたとしても、熱射病で片づけられた。「心頭滅却すれば火もまた涼し」などの言い方がされたものであった。
それが最近全く反対のことが推奨されている。今までの運動は水を取ることを禁止までしていたのに、いつからか記憶はないが、水分補給を天気予報士までがいう時代になった。これは青天の霹靂である。
確かに炎天下での朝礼は、何人かが倒れ、保健室に運ばれたことは記憶にある。小中学校が冷房が効く施設ではなかったためか、貧しさの中では炎天下に耐える教育が優先された時代背景があるので、そのことを問題とする気はないが、せっかく水分補給をいうのであれば、身体の不足した水分量を簡単に測定でき、科学的な管理の方向は何故行われていないのか不思議でならない。
一方では、水を飲みすぎ、過水分摂取症(水中毒)がある。大量に水分を摂取するため、血液濃度が低下し、必要な成分、特に、ナトリウムが欠乏し、脳の機能を低下させ、幻聴や、妄想を起こす精神病である。この病気は簡単には治らない一種の水依存症である。この病気の危険性についてももっとはっきりと周知させる必要があろう。
分かっているようで分からない話の一つであるが、安易に水分補給を力説することの前に、現在行われていない、水分補給がもたらすメリット、デメリットについて、科学的な見地からデータを示し、調整方法等の学習する機会を作るべきでは無かろうか。
インテェリーというと、日本語では、知識を持つ高度な人間を指し、一目置かれる存在である。インテリゲンチャー、ドイツ語からの派生した日本語であり、知識階級に属するとされる知識人を指していた。最近はさほど語源の意味を忠実に表す言葉として用いられていないが、単なるインテリといえば、しちめんどくさく、理屈っぽく、頭でっかちを指し、卑下して言う場合もある。インテリジェンスといえば、知性、理知的など英語の直訳で用いられる。古くはルンペンインテリゲンチャーと呼ばれる集団があり、貧乏学生を指していたようである。
そのことをもっと時代を遡れば、、ギリシャの哲学者を形容していった、太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ、鶏口となるも牛後となるべからず、武士は食わねど高楊枝等、貧乏学生を指していったようであった。これは、インテリジェンスの一義的な意味を受けた言葉であるが、最も一般的な意味は重要な情報を指し、軍事的、政治的な秘密情報を集めることをいうのに使われる。つまり、情報(諜報)機関、情報部をいうのである。諜報機関といえば、ジェームスボンドが所属する機関、スパイ活動そのものである。インテリジェンスビューロといえば、KGBやICA等の諜報機関を指し、我が国では既に消滅しているが、陸軍中野学校がそうである。
ボーイスカウトで使われているスカウトとは、斥候(せっこう)の意味であり、軍事作戦上の諜報の意味も含めている。自分が子供時代に父親が健在の頃、ボーイスカウトに入りたいといったところ、やめておけといわれたことがあった。その理由は、子供を集めての戦争ごっこだとのことであった。最近でも地域にはボーイスカウトやガールスカウトが活動を行っていて、細々と多摩川で野営等をしているのに出くわす。今のボーイスカウトはだいぶ様相が違っていて、一種の野外スポーツ教室に変貌している。
スカウトの意味を承知しているのかどうかは知り得ないが、戦争を経験した者にとっての諜報、スパイ、情報は現代の我々とは異なる意味合いがあったのであろうと推察しているところである。しかし、安全で生活できている裏には、防衛活動であるジェット機によるスクランブル発進は連日おこなわれていて、中国やロシアが我が国に対する脅威となっており、諜報活動が消滅しているわけではない。最近のコンピュータによるウイルスの拡散や、口座を盗み見するスキミング、バスワードを見破り、本人になりすまして犯罪を行う一種のサイバーテロも意識していないといけない事態にある事を考えれば、インテリジェンスの意味ぐらいは分かっていてほしいと思った次第である。
前回は所用のため参加できなかった。マイナンバーの話であったが、残念であった。今回は最先端の技術のベースとなった素数の話であった。テーマは情報セキュリティと暗号化技術であった。最近の紙上では話題となっているデュアルユースの話を取り上げてくれた。最新技術を軍事用と民生用を区分けしないで利用しようという試みであるが、平和憲法の下で、軍用転換については、抵抗がある我が国の考えはもはや世界的にも通用しなくなったとの判断が成されつつある。
現在のインターネット利用は元を正せば軍用に開発された技術である。さらに、GPSを使う車や、スマホ等の携帯電話もやはり軍用を民生用に展開している。既に、軍用か民生用かと二分できない技術が日常で使われているのである。そこで、最初に取り上げられたのは、ドイツ軍が第一次大戦時に開発したエグニマという名称が付いた暗号機である。
古今東西、暗号を利用することは古い歴史がある。ローマのシーザーがアルファベットをずらして使用した暗号は有名である。戦時中の軍事情報は敵方に知らせないために情報伝達、解読にどの国も力を入れてきた。エグニマの特徴は解読不可能な乱数を発生するのではなく、電気的で機械化された歯車を利用していて、アルファベット26文字を暗号作成と解読の両方に使うといった画期的な物であった。
多くのコンピュータアプリケーションにも暗号化技術は採りいれられていて、その多くは乱数の利用である。また、最近は巨大素数を利用して簡単な暗号キーを特定の関係グループのメンバーが保持するだけで破られにくい暗号化が可能となった。最近ではさらに高度な量子コンピュータの研究が進められている。
最近の新聞に世界最大の素数を発見したとの記事があった。2233万8618桁という素数である。セントラルミズリー大学のクーパー教授が発見している。素数を利用した暗号は現在主流であり、桁数が少ないと解読され易いことも分かっているため、桁数が多いほど解読に時間が掛かる。素数を利用した暗号化技術は、RSA法と呼ばれる方法で、ロナルド、アディ、レオナルドの名前を取っているRSA社が特許を持っている。3名は2002年に故天才数学者のチューリングが関係する、優秀な発明者に送られるチューリング賞を受賞している。
仏様の額にあり、眉間に突起物がある。白毫(びゃくごう)というものであるが、白髪が集まって丸くなっている。仏様では、第3の目ともいわれ、そこから白い光を出し、迷える民を導くとされている。古くから、目の機能を拡大解釈し、一定の判断に基づき、予見を含め、見方をいう意味もあり、専門家の目で見ることを指す。眼とも書くが、眼が肥えるのように、多くのものや行動を見て、価値の見分けがつくことで、判断力の意味もある。
物事の判断力は、眼から入る情報が多く、人の振り見て我が振り直せと言われように、経験が大切なことと、比較対象する状況や行動はただ見過ごすのではなく、その状況や行動の原因をどう判断するのか、一歩進めて考えることが重要と思われる。
不動明王なども第3の目を持つものもある。三つ目である。お釈迦さまや如来と呼ばれる仏像も手のひらに目を持っている。広く衆生のことを見るということであろうか、インドの女性も眉間に赤い目のような印をつけている。化粧だけではないと思われるがそれなりの意味があるのであろう。動物、特に昆虫は複眼という機能を持ち、角度を変えてものを見ることができるし、蜘蛛は11もの目を持っているといわれている。
また、古代エジプト文明では、ハヤブサの目をホルスといって、幸福、繁栄の象徴として護符などに使用された。目にまつわる話で記憶にあるのは、人間はなぜ目が左右についているかということである。機能的には視野を広げることであり、360度は見えないが、片側の目で最大は200度以上は見えるようになっている。首を左右に回すことによって、ほぼ360度を見渡せる。首の動きを固定すると上下の範囲よりも左右の視野の方が広いことが分かる。
そのことで目が左右についている意味は、目線を上下にばかりみるのではなく、左右をよく見て、同僚や同職位にある人の行動を見なさいというわけである。お察しのように、組織にいると上向志向が強く、競争社会であるためでもあるが、上にはへつらい下には厳しい見方を戒めることを意識した言い方であろう。
一見しただけで決めてしまう思い込みもよくないことにつながる場合もあり、人物評価についても多面考課が取り入れられた企業が多くなっている。評価には悪いところが目につき易いが、良いところもあるし、できるだけ良い面を見て、そこを伸ばすように働きかける必要もあると思っている。