鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

春爛漫

2017年04月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ソメイヨシノが満開となり、将に陽気といい、薄曇りの春おぼろ、小中学校を始め、入学・進学時期、新入生は新調したランドセルに、ちょっと大きめの制服姿、新学期を迎え、心躍る日々が生まれる。すでに就職が決まった新入社員も、新たな門出にエールを送りたい。自分にもそのような時期があったことをほろ苦い気持ちで思い出す。日々変化するというか、新しい環境や、同級生、担任の先生、うまくなじむことができるのかどうかの不安に駆られる。初心があったかどうかは覚えていないが、鮮烈な印象があったことはかすかに覚えている。

 

 新年ではなく新年度が始まった。この時期に新年度が誕生したのは、我が国にとって草木が芽吹き、冬の寒さとお別れし、日々暖かくなる。躍動するにふさわしい時候なのである。会計年度の切り替わりで、すでに会計機関からは新年度の経費が示達される。この時期までに予算が決まらなければ、暫定予算を組まなければならず、一手間余分にかかる。幸い今年度は年度内に予算が成立しているので、スムースに運ぶことができる。

 

  新入社員には歓迎会が付き物で、花見を兼ねて夜桜見物に興じることも多い。新入社員が場所取りの役割をもらい、仕事を早仕舞いすることもあった。春の陽気といっても、夜間は冷える日もあり、三寒四温である。先輩から飲まされ、平素と異なる人物模様を発見でき、仕事の話もさることながら、組織の一員への洗礼にはショックが強い場合もある。馬鹿騒ぎして深酒をしている光景は少なくなったが、羽目を外さずに通過儀礼をこなしたい。

 

 最近では正規雇用より非正規雇用の社員が多くなっているため、歓迎会なども少なくなっているのかもしれない。先輩や上司に誘われることも同様で、仕事とプライベートをきっちり分ける傾向が強くなっているようである。自分の時代は組織人を強調しすぎた傾向はあるが、それがなくなるとかえって寂しく思う。酒の席は人間関係を保ち、組織との一体感を醸成してきたように思う。家庭を顧みないのも問題ではあるが、仕事の根幹は共同作業が多かったし、合意形成が古くからの当たり前の行為であり、我が国特有の意志決定プロセスは未だに変わりがない。芸術家や芸能人でもなければ個人プレーは御法度であった。

 

 新年度は一年の計をたてる絶好の機会でもある。正月とは異なる仕事上の計画である。その意味で、前年度の反省にたち、自己評価してみる。弱点を補強し、改善の道筋をつけることが大切であると思われる。


退職祝い

2017年03月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 人生には節目がある。サラリーマンは通常、大学を卒業すると企業等へ正社員として就職する。退職に至るまでの期間は60歳定年で、38年間あるが、その後5年間は嘱託として継続雇用される場合が多い。もちろん、本人の希望であり、家族の介護や、居住環境、本人の病気等それぞれの事情によって異なる。入社時と退職時は代表的な節目といえる。

 

 38年間という期間は、人生80年とすれば、成人後、約半分を奉職するのであり、一番活力がみなぎり、エネルギーを投入できる期間である。家庭を築き、仕事に打ち込み、人間関係を構築し、己の実力を発揮できる最も重要な時間であることも間違いない。特に、長年、同じ職場で生まれた人間関係は、単なる上司―部下の関係だけではなく、相互啓発が根底にあり、仕事を通じて考え方や人生観を共有することが可能である。

 

 すでに数年前から退職時期を知り、日頃からおつきあいを続けてきた後輩が、今年度末に定年退職を迎える。退職後は地元に戻り、継続雇用され、嘱託として再出発するとのことであった。そうなると簡単には会うことができなくなる。先だって、二人だけで、退職祝いと送別会を兼ね、ささやかな宴会を立川で行った。その際に、記念品というか、プレゼントの品を聴いたところ、意外な答えが返ってきた。名前入りの万年筆がほしいということであった。

 

 ボールペン全盛の時代になり、実用的にはボールペンも多くの種類はあるし、高級品もないわけではないが、万年筆とはと思ったが、本人の要望を受け、準備することにした。ネットで検索すると案の定、絞り込むのは大変な作業であった。国内製品はもとより、外国製品も多くある。長年自分が使ってみてよかったと思われるものを数点抽出し、最終的にはフランス製のウオーターマンに決めた。特徴は歴史があり、インキ漏れを押さえる毛細管現象を初めて取り入れ、ポツダム宣言署名にも利用されている。スマートなデザインを好む人が多い名品である。23金のプレート張り、エキスパートエッセンシャルという製品である。

 

 名前を刻印するのに時間がかかったが、数日前に手元に送られてきた。名入れを確認し、準備が整った。きっと喜んでくれると思い、ご自宅への郵送をやめて、直接手渡しすることにし、昨日、引っ越し等で多忙な彼を呼び出し手渡したところである。


小雪が舞う関東

2017年02月11日 00時00分01秒 | 緑陰随想

  冬将軍到来とこのところの空模様は変化が激しい。三寒四温の前触れか、大寒が過ぎ、本格的な厳冬になるのか、はたまた、地球温暖化で春の到来が早まるのか、天気予報もめまぐるしく変わるために、予報官の苦しい説明に少々、当惑気味である。昨日はみぞれとなったが、降雪には至らず、安堵していた。今朝は昨日の発表では晴天となるも、午後からの天候の変化は雪雲に覆われ、粉雪が舞う気温が低い状態が続いた。南岸低気圧が近づいているようである。

 

 ここ数日は注意するよう、気を付けてはいるが、週末にかけて九州の女房の実家へ行くことにしている。都内の大雪には交通手段を替えれば飛行場までは問題なく行けるが、心配事は九州の降雪状況である。九州も年に何度かは降雪があるが、レンタカーは恐らくスタッドレスタイヤを履いていないであろうし、チェーンを準備してもらうようお願いするつもりでいる。雪道となると除雪もままならない。現在、九州地元の知人に連絡を取り、降雪状況や道路状況等を聞いているところである。

 

 実家の近辺の道路は整備されているが、雪道の運転に誰しも慣れているとはいいがたい。スタッドレスタイヤを装着している車は少ないし、ほとんどは夏タイヤにチェーンである。高齢ドライバーも多く、チェーンをつけて走る車も少ない。夏タイヤのまま走る車が予想され、雪道で立ち往生が起これば、渋滞が発生するし、交通マヒにつながる。降雪がないことを祈るだけである。

 

 関東でも降雪が首都圏に及べば、高速走路は閉鎖されるし、物流が途絶えるため、生活に必要な食料等が供給されなければ、パニックとなる。その意味では、降雪経験がない地域であれば、いたるところに流通が途絶える。その危険性を持っているということであり、地震や火災などと同様に、降雪も被害を引き起こす原因となりうる。日頃の生活の便利さは、当たり前であり、今回は異常として、自然現象を割り切ることができない。万が一に備える備蓄も必要なのである。

 

 雪国で生活した経験があれば、その対応や対策は予測もでき、準備もできるが、経験がないと何から手をつければよいのかさえも分からない。避けなければならないのは、自分には関係ないこととして、関与しないように立ち振る舞い、逃げることである。そうあってはならないとわかっているが、他の理屈をつけて正当化する。次の答えがわかっていて、つまり、自分には自然現象に対する対応能力はなく、自らが当事者であることもわかっていることなのである。


魚屋の店じまい

2017年02月08日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 海外から来日する研修員のお世話をしていた時によく聞かれた話に、我が国は魚の匂いがすると言われた。海外へ行くと飛行場に降り立った時に、その国の独特な匂いがし、我が国と異なると感じることはあるが、場所だけではなく、日本人の体臭も同様とのことであった。日本人同士ではそのようなことは話題にすらならないが、何処か匂いに染まる世界がある。魚を焼くと煙が出る。さんまを焼いていれば季節を感じるし、空腹であると焼き魚が食べたくなる。食文化の違いなのかもしれないが、自然に体臭となる可能性は高い。とはいえ、欧米化したのであろう。最近はそのようなことを聞かれることはなくなった。

 

 実は魚を一匹丸ごと売っていた魚屋が居住地には一軒のなくなっている。スーパーマーケットへ行けば鮮魚売り場があり、切り身や刺身が手に入るので、生活には困ることはないが、メバルやカレイ等の煮つけを食べたくなっても、スーパーではめったに一匹で販売していることが無くなっている。小骨が多い魚であると高齢者も子供も敬遠するし、食べるにしても背骨をきれいに外し、残骸をできるだけ残さないようにするのも苦手な大人が多くなっているようである。

 

 出刃包丁や、刺身包丁を家庭で持っている方も少なくなっている。丸ごと一匹を魚屋で買ってきても、三枚におろすことや、頭や鎌の部分、身の付いた中骨等を澄まし汁やあら煮にすることもないようである。惣菜売場へ行けば焼き魚やあら煮を購入することはできるが、家庭ではほとんどしなくなったせいか、魚屋が無くなるのはさもありなんと思う次第である。

 

 内陸は別とし、海に囲まれた地方へ行けば、今でも地元でとれた魚類を購入できる。しかし、高級魚は都会の魚市場や、築地へ行ってしまうため、地方でも高級魚を購入することは難しくなった。刺身や、焼き魚はどこの居酒屋にでもあるので、酒飲みは魚を口にすることは変わらないのかもしれないが、家庭での食文化の変化は徐々に浸透しているようで、鮮魚の消費が家庭から去れば、鮮魚の水揚げも減るし、漁師も減少する。

 

 加工が楽で、廃棄物が出ない食品にシフトすれば、当然、魚介類が食卓へ上る頻度も少なくなるし、食生活の中身も変わってしまう。一番心配なことは、身近であったイワシやアジ、サバが、区別もされずに、同じ魚として食べられる世界である。豚肉、鶏肉、牛肉の料理が主となり、欧米化の傾向は進むが、魚料理を家庭では食べられなくなってしまうのも極めて寂しい時代の変遷である。


民主主義の危うさ

2017年02月06日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 選挙制度は我が国が取り入れている議員を選ぶための国民一人一人が持つ投票によって、多数決で決まる制度である。これによる選ばれた候補者が投票量の多い順で当選者が決まって行く。政治家は将来の方向を一応示しはするが、いざ当選すると、将来の不確かさをも信託を受けたと、また、自分勝手な、推測不可能な決定をも信託されていると誤解する指導的立場にある者が多いことにあきれてしまう。歯止めとして、在任期間において、一定年数が決められ、場合によっては不信任決議によってその職が解かれるという歯止めはあるが、将来の予測は不可能なため、途中での判断だけでは、直ぐに首を挿げ替えるわけにはいかない。

 

 民主主義とはいえ、必ずしも全権委任しているのではないという投票者の意図はあっても、選挙結果によって、簡単には職を解くことが難しい。また、代議員たる各派閥の議員構成によっても異なるため、独裁政治や、過激な主義主張が大手を振って通るのが政治の世界である。つまり、選ばれた候補者も、単なる一市民に過ぎず、権力を得たからといって、自由奔放に政策を進めることはできない。

 

 指導的立場にあるといっても、万能ではないからであり、過去との一貫性においても、人間の記憶の限界があり、正確にすべての条文や統計データを暗記しているわけではない。つまり、過去の事例については裏方がちゃんと調べるし、議会での質問に対する答えは、事前に質問書を提出し、その答弁書によって、答える議会となってしまっている。まるで、学芸会のような、台本のセリフを棒読みする答弁となっている。茶番劇という言葉がぴったりとあてはまる。

 

 今回、アメリカの大統領となったトランプ氏、東京都知事の小池百合子氏等、華々しいデビューの割合には、含蓄の乏しい、クリエイティブからかけ離れた、前任者の悪口を政策に挙げているのは薄っぺらの人気投票のようである。どちらも走り出したハネムーン期間であるので、少々は目をつぶっても、いずれ、本性を見破られ、自滅する姿が浮かぶ。

 

 選挙に投票した人間の質の低下というのか、多数決の原則は、烏合の衆化した世界では、正しい方向へ向かうとの確約があるわけではなく、場合によっては極めて危険な選択になりうる。少数意見をどれだけくみ取ることができるか、参議院的な歯止めも必要である。数の力が制する結末は、軍国化に向けて歩んだ我が国の手痛い教訓を残した歴史を忘れてしまったごときである。


確定申告関連

2017年01月25日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 マイナンバーの前身をたどると、住民基本台帳であり住民基本台帳カードになるが、国政は国内に居住するすべての国民に対し、姓名だけではなく、要は算用数字を当てはめて、固有の番号を振りたがる思いがあるらしい。一方、番号を振られる対象である国民は、そのような番号で区別することをあまり良いことだと思っていない。ここに、相反する思いがあるが、今般、近々、住民基本台帳は葬りさられ、新たにマイナンバーなるものを徹底しようと企んでいるようである。

 

 番号で呼ばれることは、名前が知られたくない場面においては、有効に作用する。その番号は常に変わるため、特定することは難しくなるし、遡って同じ番号が有効ではないし、一時的な意味しかならないため、常に新しい番号を控えている必要が生まれ、聞き違いや、桁数が多くなると双方、記憶するにも骨が折れ、利用しづらいことになる。病院等の一時的な場合ぐらいしか使えない。

 

 マイナンバーは、自分を証明する場面で必要になるといっても、身分を証明しなければならないのは、行政や商取引など限られた分野であり、日常の生活では頻繁に利用する頻度が高いとは言えない。つまり、日常ではいらないのであって、特殊な出来事、高額商品の売買、行政的な住居変更や、印鑑証明等の行政にまつわる場合ぐらいである。普段の必要ではないものをことさら必要性を強調して導入を図るのには何か裏があるように思えてならない。

 

 よく言われていることの一つには、脱税である。不当に儲けて、税を納めなければ、国家の税制が揺らぐとでも思うのか、非常に熱心であり、次から次へと新手を考えてくる。住民基本台帳カードにしても導入するときには身分証明書代わりになると言われ、運転免許所がない人には朗報と伝えられることもあった。自分は、確定申告をパソコンから行うことができるようになった時点で、電子証明が必要となっていたため、役所に行って手続きをして取得したが、今までに、確定申告以外に使用したことがない。

 

やはり、住民基本台帳も不発に終わったような感じがしている。マイナンバーであっても同じ末路をたどることは明らか(?)であり、個人情報流出の歯止めがどこまで担保できるのかも疑問であるし、脱税していない者にとっての直接メリットは少ないように思える。


啐啄同時(そったくどうじ)

2017年01月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 新聞の広告欄に駒澤大学の禅の言葉が掲載されていた。啐啄同時である。それを引用すると、以下の説明がなされていた。

【引用】

 雛が生まれようと卵の中から突っつくのが「啐」、すかさず親鳥が外から殻を突っつき、誕生を助けるのが「啄」。これが師弟関係です。

 

 別の辞書では、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くこととある。

 

 もともとは、中国の漢詩、碧巌録から来た熟語である。それを調べようとインターネットで検索したら知的障害者の学生を中心としたボートを楽しむサークル「アメンボウ・シーズ」というホームページにたどり着いた。碧巌録に記載された語源が書かれてあるので、興味ある方は検索され、参考にされたい。

 

 平素ではなかなか触れることができない含蓄のある言葉はほかにも数あるが、長年教育訓練に従事していたこともあり、適切な意味を知ることの必要性を感じた次第である。教育の原理原則をまさに射抜いていると思われる。どうも教育の効率化を受験戦争に勝つための手段ばかりが表に出て、どこ大学や○○高校等の有名校に何人合格したなどの塾の広告宣伝が目につく。実は教育現場で見落とされがちな師弟関係をもっと充実させるべきではないかということである。

 

 決められたカリキュラムをこなすだけの一方的な授業に始終し、教育の根幹たる生徒の潜在能力を引き出し、教え育むということで、教授陣に必要なのは、啐啄なのである。

それも、雛が内側の殻を突っつく音や響きを親鳥が聞き分け、そのタイミングを計って外側からの手助けを行うことなのである。

 

相手が求めないのに詰め込む学習方法は、相手の能力を軽視する教師の強制力 (場合によっては暴力) であり、人格を無視した行為であるし、詰め込まれる生徒からすれば、学習意欲を損なうきっかけとなり、おちこぼれの原因ともなり得る。老婆心ながら、このことを考え教師など師に当たる方々が自分の教育方法について再度、見直す機会にされたいと思っている。   


技術の政治利用

2017年01月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 豊洲市場の地下水をモニタリングする汚染物質の異常値については、小池都知事が就任してからの第8回目及び今回の第9回目で、検出があってはならないヒ素、シアン物質のほか、ベンゼンに至っては環境基準の79倍もの数値が示された。従来は環境基準値を下回る調査結果が続いたが、どうも測定業者の違いや、過去の検査管理の統一性等に疑問が向けられている。杜撰な測定や、管理の在り方にまで疑問が投げかけられる現状は、まさに技術を生業とする専門家の資質までも疑問視されるマスコミの在り方に違和感を持っている一人である。

 

 実態把握については当事者ではないため、個別に調査するわけにはいかないが、マスコミが作り出そうとする善人悪人のレッテル張りはいつの時代でも勧善懲悪の形に仕立てられ、問題の解決の程遠い場所で作り上げられる陰謀や、策略のるつぼとなり、間違った方向に面白おかしく脚色する輩の餌食と化す。先導者たちは決まって、都民の健康や、食の安全を口では叫び続けるが、意図をもって計画した当時の政治家へは矛先が向かわず、調査を真摯に行う調査員や分析に従事する専門家へ向けられるのはいかがなものか、その政治家を選んだ都民はどう責任をとるのか、まさに天に向かって唾を吐くがごとき、投票した自分へ帰るのである。

 

 都知事に立候補し当選したといっても、万能の神を選んだのではない。学級委員長を選ぶに等しく、いうなれば人気投票の部類であり、詳細に亙る全権委任ではないのである。知事などの職責を勘違いした結果は退任後の生き様を見ればよく分かるはずである。

 

 小池都知事も大人気ないというか、自分がタッチしていなかった時代のこととして、他人事を決めつけているが、力量がある政治家ならば、議員の時代に同じ党出身者であった前知事へ何を具申してきたのか、同じ出身母体がいまさら知らぬ存ぜぬはないであろうと思うが、いかがなものであろうか。

 

 ことの成り行きは振出しに戻ってしまった。全力を投入した過去の治世を評価せず、なし崩しにしていくやり方は前猪瀬都知事と同様、何も作りえない単なる批評家に過ぎない。小池都知事も当初は威勢が良かったが、最近は荷が重すぎるように感じる。お手並みを拝見する時間的余裕もなくなりつつある。既にレームダックであり、チェックメイトでないことを願っている。


大統領のつぶやき

2017年01月12日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 呟きは英語でもツイートと呼ぶそうである。tweet;小鳥のさえずり、どうも大統領のツイートでは小鳥とはイメージが異なる。日本語の呟やくは小声で独り言(不平)を言うことを指しているが、今や米国大統領候補もツイートで独り言を発信している。翻って、普通、感じる呟きは、不平・不満なら正々堂々とはっきりことばにして発言すればよいと思う。そうしない理由は、名指しをして発信場所がわかれば、相手からの何らかの反論なり、弁明を聞くことができるかもしれないなどと思う、極めて卑劣であいまいな手段にも思うが、今や携帯電話のメールにとって代わる勢いを持っているようである。

 

 発言の拡散が、何らかのフィルターがかからない形で、多数の人間にネズミ算的に伝わることは、誤解の拡散でもあり、恐ろしい手段ともなり得る。このようなことが起こりえないまたは、少ないメンバーの中で起こることの可能性は予知できても、まさか、国際貿易の場で、企業経営を揺るがしかねない多国間交渉の問題にまで波及しているとはだれが考え付いたのであろうか。一時的な余興であればまだしもであるが、大企業のトップまで話が広がると歯止めが利かなくなる。

 

 数少ない文字から推察するに至っては、発言の真意を探る分析やその対抗手段の画策等、雲をつかむような出来事である。大の大人が一言一句に神経を擦り減らす状況は誰が考えても異常である。まるで禅問答のようで、相手の思惟を探るだけでも時間の無駄で、結果、邪推でしかありえない。世界に名だたるアメリカ合衆国を司る大統領候補にしてはずいぶん短慮で、この先のことが慮(おもんばか)られる。

 

 どうも、大衆迎合の傾向が強いマスコミ先導も問題ではあるが、一喜一憂する大企業のトップにしてもあるまじき行為が正当化されようとされているし、同じ穴の狢のようで、思慮深く、経験豊富で百戦錬磨した人物とは思えない。何千人も従業員がいる組織であってもこのようなことに迎合するのかと思うと、企業の危機管理はどうなっているのか、トップ自らが短絡的になってしまったのか不思議でならない。

 

 どちらにせよ線香花火で終わればよいが、まずは馬鹿さ加減の推移を拝見し、落ち着く先を見定めておきたい。


七草がゆまがい

2017年01月08日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 正月も7日が過ぎると晴れやかな気分が続かない。周りは喧騒から隔絶した高齢者の住居地であることにもよるが、年神様も迎えてからの毎日のお世話だけでも疲れが出てくる。いつまで居座るのか定かではないが、昔は15日が小正月(女正月)であり、成人式が行われていた。それが早まったせいで、15日正月をとやかく言う時代ではなくなったようであるが、ひと月は正月といっているので、神様は在宅されているのであろうか?正月飾りは明朝小学生が集めに来て、河原でどんと焼きを行うそうである。今年は喪中だったため、飾り物はない。初詣もいかなかったのでお札はそのままにしてある。

 

 今日の朝食は、七草がゆを食していたが、元旦より餅が続いたため、そろそろご飯に切り替わる準備であり、胃にやさしい七草を炊き込んだ雑炊である。自分はほとんど雑炊とは縁が薄く、好んで食することはないが、しきたりにはそれなりの意味があると思っている。スーパーへ行けばそれ用のセットが売られているがそれを買うのも味気ない。我が家はすでに朝食はパンとコーヒーと決まっている。七草は旧暦の時代の野草であったものが多く、新暦の今ではほとんどないか、成分すら異なってきている。特殊な野草なので、特別に育てる必要があろう。とはいえ、薬膳料理と思えるが、野草も食して見ればその多さがわかるのであろう。

 

セリは年末に購入して使った根元を植えていたのが大方食べられる長さとなった。あとは冷蔵庫に残ったもので夕飯には自称七種薬膳寿司なるものを作ってみた。食材は、せり、乾燥しいたけ、えのきだけ、湯でタケノコ、ニンジン、こんにゃく、油揚げ、ちくわ、乾燥わかめ、冷凍むきエビ、京都のすぐき漬物であった。分量は適当で、11種にもなってしまった。甘さを抑え、ちらし寿司にした。

 

 薬膳などとは程遠いが、あるもので造るのが台所を任された俄か調理人の腕の見せ所と張り切って作ったのであるが、まずくはないと言われ、今年の初寿司は七種寿司と変身した。ついでに、炊き込む前に10cmぐらいに切っただしコブを炊き上がった炊飯器から取り出し、水を加えてお吸い物を作った。具材は茹でた銀杏の実とかにかまぼこで、卵とじとし、白だしで味をつけた。これも春らしく仕上がり、ちらし寿司には良くマッチした。

 

 文明か文化という名で、食材に対する薬効についてはほとんど顧みられない昨今である。野草に原点があり、少なくとも温野菜か冷野菜ぐらいは知っておきたいと思った次第である。


ハレとケの根源

2017年01月07日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 実態を目視できない物事を二元論として対比させる考え方は、ある面、説得力というのか納得性を明らかにする手段である。この場合は、二極に分かれるため、上下か左右という平面的な表現となり、そこには中間(中庸)や、段階的な増減(グラデーション)の考え方はあまり見られないようである。この考えを導入すると、何らかの理屈の付け方が必要となり、概念上では説明困難となりやすい。

 

 今回、取り上げた喪中と正月との関係は、突き詰めれば、ハレとケとの違いであろう。ケの中に忌中と喪中が入るし、それが終われば、つまり忌中明け、喪中明けとなれば、ハレとなるのである。忌中と喪中の違いは伴う儀式の制限事項の厳しさによるわけで、上位の身分と一般人との違いが生じるし、死者と家族との関係性、例えば、父母、祖父、子供、祖母、兄弟姉妹、叔父叔母等の血族、姻族では異なる。現在、職場や学校等所属していても、法事への参加は優先され、法事出席のための旅行日が発生した場合にも当てはめられているのはご承知のとおりである。

 

 地域や職業によっては忌や喪の期間を短縮する工夫がみられる。生活の場がある以上、いつまでもケの状態では稼ぎができなくなるし、不合理であるからだ。そのためにはケの状態の生ものは食さないという制限を変えて、通常と同じような食事に切り替える。それを長老等の介添えが確認し、公表するのである。そうこうしているうちに、世間ではそのことに対する揶揄は少なくなり、制限自体の緩和につながってきたと考えられる。また、死者が埋葬することについても、一定期間荼毘に付さないこととしていて、仮に死体を安置し、寝食を共にする風習もあったようである「モガリ」。墓地に仮小屋を建て、死者と一緒に生活する地域もあったようである。

 

 ハレとケの違いは、晴れがましいことと忌み嫌うことの感情論である。正月はめでたいので、ハレの日であり、そこには喪に服した、つまり死者を出した家族はケであるので参加できない区分けがなされる。神事には、禊ぎ(みそぎ)を行い、神聖な年神様を迎えるため、俗世間における多くの災いや穢れ(けがれ)を身にまとった人間を清水の力で洗い清めるというものである。類似の儀式は目に見えない世界であるから確認できないのであるが、証明できない世界がまことしやかに儀式として世界中に存在することは、良し、悪しではなく、恐れ、むしろ尊いもの等、実体のない空想世界にあこがれる心理を映しているのかもしれない。


歳末助け合い募金

2016年12月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 毎年の恒例であり、制度自体をとやかく言う必要はないが、安易になりすぎているきらいがある。非常にストレートな方便で、早い話が、無心である。何らかの事情で、社会福祉の支援に頼らざるを得ない人々がいるのは事実であり、義援金という形をとるのは、古くからあった。記憶に残っているのは、社会鍋(広場に三脚を立て、そこに大きな鍋をつるす。いうなれば賽銭箱である。)というキリスト教徒が作る慈善組織で、確か、救世軍といっていた。最近はほとんど見ることもないが、解散したのか、現在でも続けているのかは定かではない。

 

 欧米に比べて、一般人が自然災害を除き、義援金を出す習慣はないが、年末に限らず、町内会からのルートで、半ば強制的に、寄付金を集めている。赤十字社がその受け入れ窓口になっている。しかしながら、集まった金額の使途については、ほとんどが明確にされない使途であり、何処かで収支を公表されているのであろうが、関心がなければ、わからないし、あまり詮索もされていない。おおらかといえばそれまでであるが、自慢ではないが、ちゃんと集金できるシステムは確立している。

 

 そのバックグラウンドといえば、利益の一部を社会へ還元するといった思想が定着していないわが国だからかもしれない。欧米のキリスト教社会では、毎週の礼拝時には、必ず、教会への寄付が行われている。企業ばかりではなく、キリスト教徒全員が子供のころからしつけられる慈善という行為であるからだ。   

 

 では、イスラム教徒についてはどうであろうか。これはイスラム教徒も同じで、教徒が行う五行の一つにザカート、日本語にすれば喜捨である。貧しい人のために施しを行うことである。さらに、もっと貧しい人には貧しい人からの喜捨がある。宗教観なので何とも申し上げられないが、喜捨することが善行であるからで、これに異論を唱える人もいないようである。

 

 一方、仏教は、確かに喜捨という言葉が日本語にある以上、行われている。東南アジアの仏教徒では、修行僧や坊さんへは、托鉢時に、炊いたご飯や金銭、蓮の花などを手渡している。我が国では一部、永平寺などで修行僧が托鉢を行っていて、各家を回り、食材を集めることが行われているが、自分の住む地域では多くの寺社においては全くそのようなことは見られないし、行われていない。その意味では裕福であり、住職自らが托鉢に歩くことは皆無に近い。ともあれ、ボランティアも定着してきたが、金銭だけに頼らない善行について再度考えてみたい。


市民アカデミー16後期第10回目

2016年12月15日 00時00分01秒 | 緑陰随想

平成28年12月14日

 

 今日はあいにくの小雨日和で、10時開始の講義聴講に車で行くことにした。片道20分の距離である。昨日までの晴天と比べ、市中を歩く人は冬の装いである。路上駐車が目立つ時期でもあり、中でも多いのは宅配便と、工事車両である。年末の混雑にはまだ早いが、何となく師走の活気が戻っているように感じた。

 

 科学ジャーナリストの柴田鉄治氏の2回目の講義で、テーマは福島原発事故であった。講義前に進行役から柴田氏の体調不良の話があり、鼻血が止まらないようで、開始時間が延びることが伝えられた。実際には5分遅れで始まったが、本人から風邪を引いたような話があった。しかし、講義中も何度か中断し、鼻血を拭うことがしばしばで一向に止まらない様子であった。講義開始1時間後の休憩時には長めの休憩時間をとった。途中、聴講者からの質問があり、自分も同様な思いであったので、紹介することにする。

 

 質問の内容は、講義のテーマと話す内容とが異なるという、基本的なスタンスの指摘であり、コースがサイエンスを売りものであるにもかかわらず、サイエンスではなくポリテックであるという不満であった。科学ジャーナリストと標榜している割に、話す内容に政治的批判が多く、新聞記者の経験からか、どうも物の見方が批判的で関係者の愚策を強調しているようにしか聞こえなかった。つまり、科学的なアプローチの不足であった。贔屓目に見ても、記者の逃げ口上であり、反省の弁でしかなく、聴講者の指摘はもっともなものであった。

 

 聴講者の指摘に対しても、ピント外れな回答がなされ、質問の意図を理解できていなかったようであった。そのような状況で、休憩時間を挟み質問者は退席した。今回の講義は、体調が悪い状態を推して、講義に臨んだのことに対しても、問題を残す結果となった。誰しも常時健康に生きているわけではないが、事前に病状を伝え、後日に変更することもできたはずであるが、強引さはかえって相手へ迷惑をかけることになる。

 

 特に病状が単なる風邪と思っても、場合によってはインフルエンザかもしれないし、高齢者の多い聴講者に対しても最悪の事態を回避する責任が講演者にあることは暗黙の知であることで、講演者にあってはならない事態との認識を持つべきであったと他山の石として思った次第である。その意味ではコースの企画や進行をボランティアに頼る反面、開催側の管理体制を強化するとともに、運営規定を見直す必要があろう。


カメラマンの雑談その10

2016年12月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 カメラに収めた画像はどのように処理するのであろうか。一般的には自宅に持ち帰り、専用ソフトを使ってカメラとパソコンをつなぎ、パソコンにある専用ソフトで記憶媒体(HD等)に保存する。編集ソフトで加工することが多いが、トリミングして拡大するのがふつうである。欲を言えば、トリミングはあまりしないほうが良いが、そのような画像はめったに撮れない。トリミングすればするほど画像が荒れてしまうためである。

 

 パソコンのHDに取り込んでしまえばカメラにある画像は不要なので削除かフォーマットしているが、カメラマンの中には、上手に取れた画像をカメラに残している方も多い。雑談中に画像を見せることもあるからである。中には撮った野鳥の種類がわからないために保存し、野鳥に詳しい人に見てもらうこともある。どのような取り扱いをしても良いのであるが、画像はメモリチップに保存するため、メモリの容量が小さいと撮影できる枚数も減るため、ある程度の容量は必要である。

 

 パソコンに保存するにはわけがあり、カメラの液晶画面では拡大も可能なのであるが、やはりパソコン画面のほうが大きいし、ピントが合っているかどうかもすぐわかり、加工もし易いやすいためである。しかし、HD(ハードディスク)もすぐに満杯になるため、定期的にDVDなどの記憶媒体に落とし込んでおくほうが良い。写真撮影は、回数を重ねるほど目が肥えるというか、構図の撮り方や光の陰影等様々な良さがあり、奥が深い。初心者だったころの画像は後から見ると恥ずかしいような感じがして、結局、削除してしまうことが多い。一定期間が過ぎれば見直し、印刷をして手元に置くといつでも見ることができる。

 

 自分はブログへ投稿しているため、ブログのためにと野鳥に重点を置きすぎる傾向が強いが、本来は自分らしく撮るための足跡であり、もっと楽しんだほうが良いのかも知れない。つまり、野鳥に特化しなくて被写体を広げてもよいと思うこの頃である。人物はほとんど興味がなかったが、時々、カメラ雑誌を見ると、記憶に残る被写体も多いようである。

 

 とはいえ、野鳥の世界で来ているので、撮影機材も特化していて、今更変更も難しいが、可能であれば挑戦してみたい。今日は、定点撮影か、多くの場所への移動かの話をしたが、結局結論は出なかった。


カメラマンの雑談その7

2016年12月10日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 人間の目は顔面に左右に並んで前面についている。人によって鼻の向きを縦とすれば黒目の位置は直角であろう。正確に測ったことはないが、6~8cmぐらい黒目の間隔がある。健常であれば、視野は正面を向いて、両目で180度ぐらいであろう。眼を動かすと120度ぐらいは見ることができる。眼球は左右と上下の移動が可能であるし、ぐるっと回すことができる。時計回り、反時計回りどちらも動く。

 

 この時は両眼で見ているのであるが、片目でも同様に動く。しかし同時に左右の眼球が動いている。カメレオンのように左右別々に動くことはない。生まれながらに黒目が中央によっていたり反対に離れすぎたりしている方もおられるし、意識的に両目を中央に寄せることは可能である。ただ、左右の目の認識力の違いがあっても度が入った眼鏡で矯正すれば同じように見ることができる。

 

 カメラマンのプロは、同時に片目でファインダーを覗き、もう一方の目で、通常の景色を見ているとのことである。一般的には、ファインダーを覗いていれば、片目は瞼が閉じ、つぶっているものと思っていたが、そうではないようである。双眼鏡は両目で見るのが普通であり、単眼鏡で両目を開けてみるのであろうか。見え方は両眼で見ると異なる風景が同時に見えることになる。それもありと思えるが、左右の目が別々の情報をどのように脳へ伝えるのかよくわからない。

 

 両目が同じものを見なくてもよいが、将来の技術の中では、メガネの片方に小型の受像機(TVやモニター)を持つ未来人の姿を見ることがある。実際にそのような実験を知っているが、左右の目に別情報を同時に入れることで理解が可能なのかもよくわからない。

 

 現在のところ、別々の情報を理解することができないと思っているが、カメレオンのような動物で可能であれば、高等動物の人間でも別々に動き、別々の情報を理解できるようになるはずである。訓練すればよいのかもしれない。両眼を開いて片目をファインダーで見るがその時には開いている他方の目は意識的に焦点が合っていない風景を漫然としてみているに過ぎないのではないかということである。次は重点を景色のほうに移せばファインダーを見ている眼球は漫然と見ている。そのことを短時間に交互に行っているとすれば可能なような気がする。

 

 なぜかといえば、両眼は焦点を合わすために同時に動くようにできているからである。