人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である 第五章 アラカルト 新しい生活

2020-06-01 12:07:32 | 随筆
 非常事態宣言が全国に亘って解かれたのはいいけれど、恐れていた二次感染が北九州市で始まりました。それは、どこの地方でも懸念していたことでした。なぜなら、新しい生活習慣に基づいて感染を防ぐことが継続していたからです。


 さて、新しい生活習慣とはどんなことか、自治体でも今までやってきたことをそのまま継続するだけでなく、まだやっていなかったことも取り入れようとしています。基本的に3蜜回避です。私たちの生活から言うと、今まで高齢者向けにあった行事がなくなり、会話を交わすことができなくなりました。家に引きこもることが多くなりました。それが、外出をするようになると、人と人の間隔をあけたり人ごみの時間を避けるなどがあります。

 長いこと休校を余儀なくされていた諸学校も、人を少なくして2部にするとか、フェイスシールドを使うとか工夫をしています。放送界や学校で、リモート放送、オンライン学習など、いままで聞いたことも見たこともないことにいとも簡単に変われるなんて、驚きを越して恐ろしさを感じます。巷では、休業の余波で廃業にまで行く老舗も出ています。学生もバイトの収入が減ってアパート代にも苦しんだり、留学生が居場所までなくなるという現象が起きています。

 一方税の無駄遣いと言われたアベのマスクや定額給付金では大混乱が起きています。医事に携わる人の防護服や、感染を検査するPRCの不足、人材不足などは早くに出て、治療に専念できない実態が露見していました。そしてこんどは新しい生活の継続です。

 これが、本当の新しい生活形態なのでしょうか。コロナ対策なのでしょうか。それを、いつまで続けるのでしょうか。お寺には必ずと言っていいほど、玄関に「照顧脚下」という札が置いてあります。足元を見よということで、大事なことを見失うなという意味を持っています。
今までは国民に対して場当たり的な施策で来ましたが、土台となる医療関係者の満足する施策だったかどうか疑問に思います。心でありがとうと叫んでも、当事者が命を救おうという気持ちになれるような環境整備がないのでは本末転倒です。患者も、受け入れ側が大臣の言葉を誤解していた(体温の境界)などと早世してから言われた方もいらっしゃいます。患者の命はあまり尊重されなかった結果といっても過言ではないと思います。

 もっと大切なこと、重要なことがあるのではないか、対面の境をいちいちつけることが必要なのか。これが、外国と違う日本モデルなのか・・・。こういうことに相当の費用をかけているように見えます。経済の回復も重要な課題ですが、それが大企業も中小企業も同じように回復しなければなりません。生活困窮者が早く自活の道を選んで自立の道が開けるようにして欲しい。ボランティアで善意の場を提供しているところがあるけれど、コロナ禍でもそういう援助の場が始まることを望みます。

 今後二次感染が起きませんように心から祈りますが、過剰な三蜜予防よりもこれからの国民の生活を支える人の暮らしやすい環境になってもらいたいと願っております。