人は、考える葦である。天は自ら助けるものを助ける。

戦後の混乱から立ち上がり、文化的平和な国に成長した日本が、近頃反対の方向を向き始めた。偉人の言葉を考え直して見たい。

人は考える葦である 第6章  スピーチに思う

2021-01-27 21:43:32 | 随筆
 選挙から長い長い月日を送りやっと新大統領が誕生しました。前大統領は、退任のその日まで駄々っ子のような行動で去りました。新大統領は、今迄とは全く方向転換し、政治を知らなかった前任者の失った本当の民主主義を構築しようとしています。選挙の中盤、もしトランプ氏が再選したらアメリカの民主主義は無くなってしまうという民衆の声を聞きました。私はその時ほんとうに国民も疲弊していたのだなと感じ、その声で政権が交代して欲しいと思っていたのです。日本の後継者は望まない人が出たので、せめてアメリカはより良い民主主義の理解者に当選して欲しいと願っていました。

 さて、大統領選挙に限らずアメリカは、スピーチの教育も進んでいる上に、スピーチの評価がその人の力を左右するところと聞いていました。ところが、立候補した時、勝利した時等のスピーチは側近に優秀なライターがいて、長い長い内容の原稿を書いているとも聞きました。政治家は元々言葉の番人と言われるくらい演説でも反対意見をいうのも得意の筈です。それが、ライターに書いてもらうというのは、どんなに多忙でも疑問に思います。下地を書いてもらってそれを自分の満足いくように校正するのでしょうか。自分の意図が正しく述べられているのでしょうか。

 私は、大統領を経験したオバマ氏が広島を訪れて演説をした時、そのスピーチに感動したのを忘れることはできません。新聞の翻訳文を読んだだけでも、オバマ氏の心情がひしひしと伝わってきました。その頃、日本国民は、原爆を落とした国の初めてのスピーチをしようとする人の内容に興味津々としていたのではないかと思います。ところが、それには触れないで、かつてこの広島の空に、普通の平和な生活をしていた小さい子供から大人までの人々の上に異状な光が光り、街のすべてが壊されましたと始めたのです。(記憶で書いていますから正確度には広い心で)

 次に、人類は、有史以前から争いはあり、文化が進んでからも大きい戦争が続いてきた。自国の領土や資源を増やすことを考え、平和に暮らしていた人々を不幸に貶めてきた。と言ったのです。反対派にとっては、逃げていると解釈するかも知れませんが、私はここ広島へ来て、平和の中普通の暮らしをしていた人々に祈りを捧げるために来た。平和な暮らしをしていた大勢の人々のため祈るために来た。というのは、被災地の人々を本当に追悼しているとしか思えません。有史以前からそういう平和な暮らしを壊された人がずっと続いているというのです。アメリカ合衆国ができた時も、祈りから始まったと言っていますが、今は多民族の集まりとして沢山の問題を解決して他国に引けを取らない国となっています。

 今度の就任演説を、アメリカ側の翻訳で読みましたが、日本人のニュアンスが加わった翻訳より硬い直訳に感じました。そして内容も、当選後から言っている結束と分断の終わりというスローガンは何度も何度も出てきているけれど、そのために言いたいことの焦点がぼやけたように感じました。日本には起承転結という文の原則があるのですが、そういうのはないのでしょうか。
自分が訴えたいことは何かを理解してもらうために、心から出てくる心情を吐露するというのが理解を得る手段になるのではないかと考えます。それは安易にライターに頼めないのではないでしょうか。

 大江健三郎氏が前に言ったことがあります。書く仕事をしていると、一生懸命夢中になって書いている中に自分の力以上の神通力のようなものが働く。(ひらめきというようなことでしょうか)誰でも自分の目指す仕事に没頭して自分の力を発揮すると神通力が加わり予想以上に良い結果が生まれるということではないでしょうか。発明や製品の生産、芸術あらゆる分野で活躍している方はそのような自分の能力以上の力を発揮しているのではないかと思います。ですからオバマさんは人に頼むのではなく、自分のこころからの心情を述べて日本人の理解を得たいと思ったに違いありません。

 スピーチの力に自信がなくても、その神の力が働くほど努力すべきだと殊にトップに立つ人々はそのような内在する力を伸ばすべきと思わざるを得ません。世の成功の山が大臣という中で、何と沢山の大臣が失言するのでしょうか。本音とお世辞と使い分けするのが日本人と思われがちですが、心にもないことを言うはずがありません。つい本音が出て失言問題になるのです。冷静な人は言っていいことと悪いことの区別がきちんとできるから尊敬もされる、つまり人格のありなしに行きつくのかも知れません。