風のたより

電子計算機とは一極集中の現象が大であるが、その合間を縫って風の一頁を

疎開

2015-11-23 13:31:15 | 文化
今日は新嘗祭。収穫のお祭りだな。国家の宮中での儀式だな。それがどういう訳か勤労感謝の日になったか。誰が誰に勤労を感謝するのかな。国民の祝日に関する法律では、11月23日とし、勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあうと規定されている。祝日が月曜日にずれたのではないな

疎外と言う言葉が、昔は流行ったな。一種の哲学用語だったな
疎遠と言う言葉もある。
疎開も一昔前の戦争では都会から離れた

疎とは、訓読みではウトイ。自ら進んでの能動的な行動でなく、止むに止まれぬ受動的の要素が大きい

先日、小諸文化センタ-へ行った。大浅間火煙太鼓の30周年記念公演である。館の前に永六輔作詞、小林亜星作曲の「小諸 わが想い出」の碑があった。みすずかる信濃の国のだな

みずずかるは信濃の国の枕言葉。マクラだけで本を出した小三治ではないが、枕は良いな。藤原新也などは自称、枕評論家などと言われるが、丸谷才一などは笹まくらを記したが、絶品だったな。軍人を描いた中では、神聖喜劇と並んで双璧であるな

疎開っ子は、勉学が出来、言葉が違う。田舎者としては異質なんだな。当然いじめにもあった。永六輔にしても良い想い出はなかったろうな。どこのお寺は分からないが、浅草とは気候から違う、人種も違うで戸惑ったろう。ただ自然が全然違ったな。

戦争中では、学童は言うに及ばず、大人も疎開したな。谷崎潤一郎も熱海へ、津山へと空襲から逃れて疎開した。永井荷風も疎開して一緒になったな。いつも有り金を身に纏い、一時は盗まれたこともあったとか

伊豆は東京から近いし温暖な土地。江戸から疎開して、気候、風土、土地柄にあってそのまま東京に帰らず、住み着いてしまった者も少なくなかったと。それほど良い土地柄だったかもしれない。今で言えば移住に適していたかも知れない。

みすず書房と言う出版社がある。信濃の国の枕言葉、みすずから命名した。筑摩書房と言う出版社もある。これも安曇野にある筑摩の地名から命名した。どちらも志は高い

因みに安曇野と言う言葉は筑摩書房の創設に関わった、臼井吉見が命名したかと思っていたが、昔から安曇野と言う地名はあったかと

小諸近辺では、疎開で移住したと言う話は聞かないな。まあ一時の避難地。気候、人柄にも寄るかな。永六輔にとっても苦い想い出であったろうに

小諸文化センタ-から眺めると、向うの崖の上に家が建っている。中棚荘は崖の中腹に建っているが、小諸とは坂の町だな。この文化センタ-は云わば山を切り開いて谷底に建っているようだな

昔は能や狂言で鼓を使ったな

平家物語で人間50年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり
織田信長が好んで、鼓を打ちながら歌ったと

その鼓を大きく太くしたのが太鼓である。洋風に言えばドラムであろうな。ドラムを叩く人、ドラマ-にフランキ-堺がいた。役者とすれば、私は貝になりたいと

ドラマ-は太鼓やシンバルと色々叩く。従って口が自然に開いてしまうと、叩いている時は自分でも分からないこともあるだろう

太鼓は聴衆の耳にガンガンくる。やっている本人はもっとすごいだろうと聞くと、耳に抜けていくと

大勢で打っても、指揮者がいないのに合っているんだな。何を基準にして合わせているのか分からない

小諸は浅間山の麓、浅間連峰と言われているようだな、まあ周りには山が峰を連ねるが、代表が浅間山と言うことかな。そして活火山だな

数年前、浅間山が噴火した時、赤く溶岩が見えた時に地元ではわざわざ見に行った御仁もいたと、浅間に三度雪が降ると、里にも雪が下りてくると、地元民の経験かな

まあ、良くも悪しきも浅間山に代表される里かな。大浅間火煙太鼓が30年経たのは商工会議所の援護もあろうが、地元民に根付いたことだろうな

感謝、感謝だな

佐渡に鬼太鼓座がある。八丈島には八丈太鼓がある。太鼓とは太古にも通じるし、一種の怨念を背負っているかも知れない